2012年1月31日火曜日

国民の良心と政治意識の成長(2)


基準とは、共存関係を維持するために個人を抑制させるものである。「法の下の平等」という言葉があるが、それは一人一人が全く別個の存在である私たちを、均一化せしめる事でもあり、そこに強制力が働く事はいうまでもない。それ故に他者に対して基準を行使する事自体が、すでに相手の自由を奪う事となり、基準を再認識させるため、また損害に対しての責任を意識させるために他者を抑圧する事は、時と場合を考えねばならず、そのためには、その人間のおかれた状況や立場というものに対しての考慮は必要となる。例えば、子供が学校のガラスを割ってしまう。他者のものを壊し、破壊する事は基準に照らし合わせれば許されざる事だが、しかしその行為の結果だけを聞き子供を責めることには、良心が存在しているとは言い難い。子供がどうして窓ガラスを割ったのか、それが野球で子供の撃った球が、運悪く窓ガラスを打ち破ったものだった場合、子供が故意に割った訳ではないので、それほど重い責任を意識させる事はないだろう。ただ、公共のものに対しては十分注意を払い、なるべくなら球が届かない場所で野球をやる事を進め、ただ行為の責任として窓ガラス代を弁済させるのが妥当な処置である。しかもそれはその割った子供だけではなく、野球をおこなっていた子供たち全ての責務とするべきである。もし、それが部活での、指導監督の下でのものならば、なおのこと責任は軽くなり、この場合なら逆に学校は窓ガラスにネットを張る対策などが必要となる。このように、事情に合わせて基準を適応して行く、それが良心であるといえる。
しかし、子供が悪意や欲求に従った結果、窓ガラスを割ったのなら、それは強く責任を意識させねばならない。子供にはその行為が間違っている事を意識させ、なおかつ窓ガラス代も弁済させる、つまり行為に対しての代償が発生することを認識させねばならない。そしてさらにそれが悪質であり、被害が甚大ならば、その行為と責任を意識させるために、その属する共存社会の公の手、すなわち司法の判断を仰ぐ必要になるだろう。子供たちも個人である以上、その行動や感情も千差万別であり、その全てを教師や学校に任せ、教育によって矯正する事は不可能である。それ故に悪質な基準の逸脱行為がどのような結果となるのか知らしめるのも、教育の一環であると私は思うし、そのためには公の手を借りる事は共存社会として当然の事と思う。世間一般的に良心とは、たとえ悪質なものであってもその行為をかばい、それが間違っている事を本人が自覚するまで耐え忍ぶ事を指すのかも知れないが、被害者たちにそれを押し付けるのならば、それは良心とは言えない。ただ良いと思える事、すなわち正義や同情が時に争いの種となり、多くの人に苦痛をもたらすのは、その動機は良心的なものだが、行為や方法が強制的であったり、力を使用したりするなど、実に良心的ではないからである。良心とはあくまでも共存社会を主体とした私たちの心の持ちようであり、それは自発的なものであって、強制があってはならない。よって共存社会における基準を維持し、秩序を守るためには、悪意ある行為に対して正当な罰を加えるのは当然の事であり、それを良心という甘やかしや被害者の我慢などによって放棄してはならないのである。ただし悪意ある行為に対して、過剰な力によって基準を認識させる事、つまりは必要以上の罰を与えたり、反省をしているにも関わらずその人間を疎外したりする事は、それも良心とは言えない。行為を裁く基準には強制力がともなうのならば、その行使自体が力による拘束となる。さらに罰則は拘束以上の力の行使である以上、その決断には慎重さが必要となり、ゆえにそれを行使するものは選ばれた者となり、また国家には司法という独立した権能が存在するのである。
私たちは他者の間違いやミスなど、基準を逸脱、もしくは違反した行為に対して、簡単に基準を振りかざし、感情の赴くまま罰を与えようとする。しかしそのような、例えば言葉などによる精神的な苦痛や、また暴力など肉体的な抑圧による罰は、ただ自分の鬱憤晴らしにすぎず、欲求によって基準を逸脱する加害者と同じ立場にあるといってもよい。虐待やいじめなどは、主に基準からはみ出たものに対して行われるものだが、しかし実際はそれを行っているものの法が遥かに基準を逸脱しているのであり、それは許されるものではない。そしてそれが連鎖的に、すなわち暴力が屈辱や復讐を産み、そしてそれが拡散すれば、共存社会における秩序の維持は難しいものとなる。こういった行為に対して私たちは良心を持って厳然と対処するべきなのだが、そのきっかけが基準の逸脱行為などだとわかれば、急に矛先を治め、さらにそれを行使する人間が力を持つものならば、口をつぐみ傍観者となる。ここに良心は存在するのだろうか。

2012年1月29日日曜日

国民の良心と政治意識の成長(1)


法基準は字句に変更がない限り恒久的な存在たりえるが、変化し続ける人間がその基準を行使するのなら、その意義や解釈は簡単に変えられてしまう。それ故に、基準が基準としてその意義が間違った使われ方をしないためには、私たちの「良心」が必要となる。では、この良心とはいかなるものかを考えると、それは「同じ集団内で共存関係を結んでいる事への理解」であり、1字で現せば「公」と言えよう。良き心とは、自分が生き延びるためには他者が必要であることを理解し、それゆえに時には自己を抑制して他者の事を考慮し、受け入れる、そういう受容的な心の持ちようではないだろうか。しかしこの良心とは、簡単なものではない。例えば、「他者のため」に行う事でも、自己の判断でおこなう以上、その行為が相手にとって意義のあるものかどうかは、結果を相手がどう受け取るかによる。「他者のために」行ったこと全てが、まるで善意として認められるかのように押し付け、感謝を求める人もいるが、しかし、その受け取る他者が当惑すれば、それは結果的に自己満足に過ぎず、その求める感謝は他者のためではなく自分のためであり、良心とは言えない。
自己の行動が良心的なものか否かを判断するのは他者であるが、その判断も人によって全く異なり、そこに自身の持つ理性や経験が通用する事はない。そのため自己の選択も他者の判断も、そのどちらも完全なものといえず、正解はないのだが、一度出された選択や判断を取り消す事は不可能である。それ故に私たちは時に意見がぶつかりあい、それが争いに発展し、共存関係を危うくさせるが、それを未然に防げるのならば、そして起こった事を解決へと導くために、個人の自由を認めながらも、共存関係を維持するために個人の自由を抑制させる、その調整には基準が必要となるのである。その基準が法なり、道徳なり、モラルなどなのだが、私たちの行動が多様的な変化を見せ、それを知ることも出来ない以上、それらの基準で全てをカバーできる訳ではない。それゆえに基準を守るためには、受容性が基調となる「良心」が必要なのである。
例えば「基準に従っていればよい」、「基準に従わせなければならない」という考えがあり、これは極めて正しいことだが、それが全て良心に当てはまるとは言えない。ある人が基準を逸脱して他者に対して損害を与えているのならば、その基準に沿って注意する事は間違っていない。ただ、この行為を良心によるものとするには、1つは「基準にはそれ自体、何かしら強制的な力が働く」ことを意識し、そしてもう一つは、「他者の事情」を考慮して行わねばならないのである。

2012年1月27日金曜日

国家の基準の再編(5)


ではこのような悪しき関係の中で、果たして誰もが納得できる基準が作成できるかといえば、それは難しい。国民は基準に欲求をそのままのせることを希望し、それを護る意識もあやふやである。官僚は責任をとらないようにするためには、なるべく厳しい基準を制定し、基準、もしくはこのような法を制定した議員を選んだ主権者である国民に、その責任をなすりつけるであろう。政治家は都合よく立ち回り、双方からとれるだけの利をとろうとするだけである。それ故に出来上がった基準には「建前」と「本音」が存在し、それもまた基準の意義を曖昧にさせ、軽視させる理由となるのである。
何らかの専門的な職種についている人間ならば、役所の検査、調査というものを意識せずにはいられないはずである。それが定期的な、予告された検査であれ、役所の人間が職場に来る時は、現在行っている手法を一変させねばならない場合が多いからである。役所の人間は定められた基準に沿って一通り、他と差別なく検査をおこなうが、検査を受ける方は、どこも同じ環境や状況というわけではない。他と異なる環境を法に合わせる努力はするが、しかし現実にはそれが全て思い通りに行くわけではない。それ故に「本音」の作業が生まれる。それはあくまでも法基準を尊重はしているが、それが現実の作業を阻害するのならば、それを現場で、無断に改変してしまうのである。これによって作業自体は効率良く行うことが出きるが、しかし基準とは異なるものであるため、役所の検査日にはそれを隠し、多少の犠牲を払ってでも法に合わせた作業をするのである。検査する方としては実情を調査する必要はなく、ただ検査日に法基準どおりに作業が進行していることを確認できればよい。ここでは互いに実情は承知しているかも知れないが、検査は年に一度であり、また法基準を変える作業に煩雑さが伴うならば、わざわざその手間をかけるよりも、たった一日だけ余分な労力をかける方が双方にとって都合がよい。このことは私の経験による、あくまでも感想に過ぎないものと認識してもらいたいが、しかし誰もが同じような経験をした事があるのではないだろうか。
ただ、このことは実情としては理解できるが、それを認める事は法基準の軽視であり、また民主主義国家として非常に体たらくな現実でもある。民主主義国家では、誰もが法基準を望むことができ、またそれに対して意志を述べることは妨げられないはずなのだが、それを面倒くさいという欲求によって拒否する事は、本来許されざることであり、これこそまさに憲法の意志に背くものである。民主主義国家の国民ならば、自分たちの選びし代表者が選択した法基準に対して真摯になるべきであるし、また逆に法基準を増やし、それに依存するからこそ、窮屈さを感じこのような選択に至るわけで、公共に対して信頼できる人間を育て、部分的には現場の人間の裁量に任せられるような法基準を制定できるようにしなければならないと私は思う。それ故に国民一人一人が政治意識を育てるためにも、新たな憲法の制定を、私たち自身で行う必要があると思うのだが、それは次章に譲るとしよう。
以上に記したように、法基準の認識の曖昧さは、その行為そのものが法基準を危うくさせ、私たちはそれに振り回されている。そしてそれは人間の判断能力を引き下げる原因ともなっている。先日の事である。休日中に私の子供が急に耳を押さえ痛がったので、中耳炎の可能性を考え、市の休日診療所に電話した。ところが、そこは「内科」の診療しか行なわず、子供の診療や、耳を見る行為はおこなっていないと拒否され、車で30分以上かかる保健センターを紹介された。車は家族のものが使用していたため、診てもらうだけでもとお願いしたが、拒否の一点張りであり、その理由は診察が混んでいるからという訳ではなく、内科は大人を対象として診療しているからという事だった。そのような拒否は法律の手順に乗っ取ったものかも知れぬが、しかし内科でもちょっとした診断を行ってくれるところもある。憤懣やる方なかったが、法や規則でそう決められているのならそれを遵守しなければならないため、診察をあきらめ、様子を見てすごした。医者ならば、その基礎課程で有る程度の病気については学ぶはずだし、そのようなカテゴリーに縛られ続けることは、医者自身の能力を低下させるものではないだろうか。昨今の情勢をみれば、ささいなミスをつつき責任を求めたりする私たちにも原因があるのだろうが、そこには互いの信頼も勇気もないのであり、これこそまさに国民の質の低下といってもよいだろう。
誰もが法基準を利用するが、しかしそれは共存集団のためではなく、自己の欲求の達成のためになっている、そしてその中で法基準は増え続け、その認識が曖昧になっているのなら、それは変えるべきではないだろうか。そしてそれは法基準を守るべき私たちの意識の問題であり、「良心」の問題でもあるのだが、それは次の章で述べる事にしたい。

2012年1月25日水曜日

国家の基準の再編(4)


では基準を整理しなければならないもう一つの理由である、基準そのものの意義が曖昧になりつつある問題について述べて行きたい。
何度も記しているように、基準が定められる動機は、私たちの行動や欲求によってである。行動が集団に影響を与え、それが問題となれば、新たな基準を設け対処し、欲求によって集団の力を欲すれば、その実現のために基準を設ける。基準はひとたび公布されれば、それを改変、もしくは廃さない限り、その存在は恒久的であるといってもよい。しかし、その存在を抱える私たち自身、そして周辺の環境は、常に変化しているため、その基準に対する認識が日々変わる可能性は十分にある。法廷における対立や法解釈論というものは、一字一句変わらなければ不変の存在でいられるはずの基準が、いとも簡単にその中身を変えられてしまう瞬間であるといえ、それがゆえに法が恒久的であるとは認め難い。
この代表的な例であり、今に至るまで深刻な影響を及ぼしているものといえば、やはり日本国憲法第9条であろう。この憲法第9条を字面通りにたどれば、そこには戦争も、武力による威嚇、武力の行使も国際紛争を解決する手段として永久に放棄し、またそのための軍事力も保持せず、国家による交戦権は認めていない。しかし、この条文の認める範囲に自衛隊は存在し、国際紛争において様々な活動を行っている現実はある以上、ここには誰もが感じるはずの大きな矛盾がある。それがゆえに憲法9条の解釈については、現在までも政治的な駆け引きの種となっているのだが、基準に対してこのような大きな矛盾が認められれば、それは基準の価値を危うくする。本来尊重すべき日本国憲法が軽々と扱われがちなのは、まさにこのような矛盾が存在するからであり、そして9条の下で自衛隊を認める強引な手法は、法基準に対する国民の認識へと結びつく事になる。
何か問題があるたびに憲法を逆手にとり訴える者がいるが、それはまさに「自衛隊は憲法で認められている」という論法と同じ、強引な欲求の実現手段である。「個人の幸福の追求は憲法で認められている」、「多くの労働者を救うために派遣社員を削減するのは憲法には抵触しない」など、自己の判断や行為を公の審査も経ずに、法基準の裏付けがあるとして押し通すのは、単なる欲求の実現手段に過ぎず、このような手段を使うものは公共の、共存手段としての法基準であることを軽視しているのであり、それは物事の大小、善悪で片づけられるものではない。ただ、法基準を公のものであると認識している普通の人間ほど、このような論法に弱く、その場では簡単に受け入れてしまうが、この手段が強引な者であれば有るほど、その人間に対するものと同じように、法基準に対しても不満を抱くようになり、それがゆえに基準の意義が曖昧となる。
基準の曖昧さはそれだけではない。他にも基準の「建前」と現実の「本音」という問題もある。基準が制定される道筋として、まず法案の起草とその討議がある。それに参加出来るのは、国民に選ばれた代表者である議員と行政を一手に引き受ける官僚たちであり、国民は参考人として登場する以外、原則的には関与できない。国民は動機を提供するが、その作成はそれを専門とする職業の者に任されるため、本当に望んだものが出来るかどうかは全くわからないのである。これは例えるならば、私たちがウエイターに料理を注文し、それの出来上がりがどんなものかは、調理人しだい、出てからのお楽しみ、それと同じことである。これはある種のシステムといえなくもないが、私はこれ自体を否定しようとは思わない。なぜなら出来のよいウエイターは客が何を望むかを察することが出来、また腕の良い調理人はそれを聞き最高のものを調理する。客はその間ただ信頼して待ち、その報酬を惜しみなく払う。ここには共存のための分業原理が、しっかりと、効率良く働いているだけであり、否定する理由は見つからない。ただこの関係が崩れれば、すなわちウエイターは客の望みをしっかり伝えず、調理人は不味いものしか出さず、客の態度が悪く金を踏み倒せば、共存関係における信頼はなくなるであろう。政治家、官僚、国民の現在の関係が、まさにこれで当てはめられよう。

2012年1月23日月曜日

国家の基準の再編(3)

国家や政治制度というものは、1つの大きな基準によって定められる。専制政治では創業によって得た権利として君主自身が基準となり、民主制においては憲法となる。君主や憲法といったものは国家そのものを表す大きな範囲となるが、その中で基準が増え続けることを止めることは出来ない。そして基準が増えるのは社会問題の克服など、共存のためという公としての目的だけでなく、単なる欲求の実現によっても行われるのならば、それを遮ることは非常に至難であるといってもよい。同じ国家において、もし一方の願いが法によって定められ、それによって全国民の労力が供出されるのなら、もう一方の国民も同じような力を欲する。それは法を制定する主権者、かつては王などの専制者、現在の日本で言えば政治家などへの運動になり、彼らもまた自己の欲求を叶えるためにそれを利用しようとする。それが贈賄などに繋がるが、何もそのようなことをわざわざ行わなくても、法を必要とする人たちの願いを叶え法を増やせば、それで主権者としての寿命は伸びるのであり、それ故に政治家は国民の動向を知り、それを叶えたがる。近年は特にそれが顕著になり、政策が紆余曲折し政治家に芯が無くなったのはまさにそのためであると言ってもよい。このような事実が私たち国民の生活にどのように影響しているかは、本当は私たちが一番よく知っているだろう。政治家は私たち安定のために数々の施策を為すが、それが自身の信条や才覚によるものではなく、国民の動向や予想される結果を気にしながらの、その裏には自己の政治的寿命を気にしながらのものであっては、政治が宙に浮き、集団の力が良い方向に利用されないのも当然である。
そしてさらに、そのような中で法が増え続け改廃されれば、その基準としての価値が減ずることも指摘せねばならない。例えば、消費喚起のための一部商品をターゲットにしたエコ施策などは、結果的に見れば、国民より一部の企業などにその利益は大きく傾いている。家電や車がかつてのように全て日本で作られるのなら、そこに多くの還元が見込まれるかも知れないが、現在は海外に受注されるため、得た利益もまた海外に流れる。そして雇用情勢においても、政策による一時的な刺激が雇用に直結しているとは、労働市場を見ても考え辛い。このような政策によって税収増が見込まれても、それは一時的なものに過ぎず、それが現在政策を支える国債の減少に一役買うわけでもないのなら、このような政策はいったい誰のためにおこなわれ、そしてそれを支える財政は誰が出すのかを考えれば、法基準によって行われるべきかどうか疑問が多いはずだ。ところが私たちはこういった政策を消費喚起と税収増に結びつけ、それを共存に必要な事として実行する。経済的な利益の確保が国家の利益の確保に繋がるという考えは、確かにわからなくもないが、その実行に対するハードルが下がれば下がるほど、誰もがそれに寄って自己の利益を確保しようとし、それは政治家やメディアに対する運動へとなり、十分な論議を尽くさないまま安直に基準とされれば、それは基準の価値の低減と言えるだろう。
こういった事は各種補助金に対する考え方も同様であり、社会福祉や公共の利益といった理由が、それを実行させるが、それが増えるたびに基準は低くなりつつあると思う。ある市では市債の累積が増加しているにも関わらず、全小学校に電子黒板の導入を公共の利益として実行している。産業や技術の発達のためには、こういった事業はもちろん必要かも知れないが、それを増え続ける市債によって実行すべきなのかどうか、私は首をかしげる。そしてそういった事が現在の日本の企業収入を支える通例となり、またそれが債務を増やす一因となっているのなら、その構造はおかしく、それが法基準で認められるとしたらそれは余りにも軽すぎるといってもよいだろう。民主制において法が増えやすいのは、誰かの欲求が法によって叶うのならば、自分もそれを求め、それがハードルを低くさせるからであり、これは法基準を定められる主権者、すなわち国民自身の意識の問題が根深い。ただ、現在の日本の状況が、ここまで低迷し、消費喚起の方策がそろそろ種切れとなりつつあるのなら、私たちは基準に対する考え方を改める時期に来ているのではないだろうか。

2012年1月22日日曜日

国家の基準の再編(2)


大日本帝国憲法も、その基準が成立したことで、国家は一つの方向性を見出し、その方向性にそって国民は解放され、江戸時代に比べれば全く別の国家へと成長した。ただ、その基準がいつまでも続くと信じ、そしてその持続を願うためにその基準を護持し、その為に法を増やし続けた。基準は基準として、法は何も語らないが、法を守ろうとする国民はそこに恒久的な安定を見出そうとし、その欲求はそれを阻害しようとする者を排除し始める。そして法は増え続け、変質され、初めは護るべき者が後には迫害されるが、憲法は憲法として以前として屹立したままである。そのため私たちは、日本を戦争に導いたのは1に軍部であり、またそれを容認した当時の日本のシステムそのものであると非難する。もちろんそれは的外れではない。しかし批判者は、そのシステムがいったいどのようなものであるのか考えたことはあるだろうか。そのシステムの骨格たる帝国憲法、また教育勅語、軍人勅諭、そのどこにも国民の死は、一字一句、求められていない。国家に対する忠誠は求められているかも知れないが、それは現在でも同様であろうし、共存によって集団が成り立つのなら、それをどうして否定できよう。では共産主義国家は国民に忠誠を求めないか。その答えは歴史が語っている。自由の国アメリカはどうか。アメリカ国民は自分が忠誠を捧げられる国家になるよう努力し、それは現在も変わらないはずである。教育勅語や軍人勅諭の天皇という語句を、国家や国民、民主主義などに置き換えれば、私たちはそれを当たり前のものとして受け入れるであろう。ここに基準の、法の恒久性は見出せるのだが、私たちの変化は常に、それを全く別のものへと変えてしまうのである。しかしその基準の語句が変わらないため、同じ基準を守り通していると信じ込む。それゆえに国家を変えるのなら基準もまた変えねばならず、帝国憲法から日本国憲法へと変わったことで、日本は飛躍した。もし、敗戦後、帝国憲法を手直ししたものが新たな憲法として公布されれば、私たちは現在の日本に変われなかったかも知れない。再び同じ過ちを起すことはないだろうが、基準がさして変わらぬのなら同じ道を歩むことも容易いはずであり、日本はもっと短い間隔で硬直化し、変わらぬ基準を守り通すイスラムの国と同じように混乱した状態になると私は思う。そして私は日本国憲法に対しても同様のことを思い、私たちが変化による苦難を乗り越え、さらに飛躍を求めるのならば、新たな基準、すなわち憲法を私たちの手で定め、新たな日本へと一歩を進めねばならない。
ただ、これだけの理由で憲法の変更を求めるには、いささか観念的すぎよう。では実際的に基準としての憲法、また日本の基準そのものにどのような問題を見出せるかといえば、それは大きく2つある。1つは憲法の下、様々な基準、法などが増えすぎたため、私たちの手に負えなくなりつつあること。2つ目は基準に対する認識が曖昧になりつつあることである。そしてこれらは基準そのものの価値を下げる要因となり、また国民が基準に依存しその質を低下させる原因ともなっている。それ故に私は、基準を整理すべきであり、そのためにも憲法の変更は必要であると訴えたい。
まずは基準の増加である。
私たちの求める基準は、実はいつの時代であっても大きく異なる事はない。それはなぜかといえば、基準の本質だけを汲み出せば、それは共存を行うための社会の維持、持続、保護であり、その為に供出する個人の力である。共存関係は民主主義など理想的な国家形態にしか見出せないと思うかも知れないが、どんなに悪逆な専制政治下においても、その関係は原則的には存在する。悪王は自分の欲求だけで国民をいたぶり続ける者だけを指す訳ではない。むしろそのような王は、よほど狡知に長けていない限り国家を維持することなど不可能であろう。なぜなら共存関係を無視すれば、国民が王やその廷臣達を討ち滅ぼすことなど、数の上において実に容易いことなのである。それ故に最もたちの悪い支配者は、国家が共存関係であるということを多いに利用しながら欲求を追及する者である。王にとってみれば自身が国家であると喧伝するが、しかし王は国民なしには存在できないことをよく知っており、また国民も王無しには自己の属する共存関係を確立できないことを知っている。それは支配「する、される」の関係だけでなく、保護の関係もあり、また情報を与える関係にもある。その共存関係の中で王は国民を「生かさず殺さず」力だけを絞り取り、自己の欲求を叶えるのである。国民から武器など様々な力を奪い取るのは「治安」という共存関係を維持するための名目であり、この方便は当然ながら対外的な戦争にも使用される。国民も自己の属する共存関係が崩壊すれば、自分の生存が危うくなる、そう信じるからこそ、渋々ながら王に従うのであり、もし、その王の政策が属する共存関係にとって有害なものと判断すれば、国民は一斉に王の交替、もしくは変革を求めるであろう。
手短な説明ではあるが、このような共存関係、つまり個人の生存の持続の集まりが国家や社会であるのなら、そこで守られるべき基準の根底は、まずいつの時代も、どのような政治制度の国家でもさして変わらないものが存在し、それは骨格となる。国家はその創造者、それが専制者であっても国民自身であっても、によって大きな目的を持って構築され、それは基準に反映される。その大きな目的の変更、例えば政治制度が専制政治から民主制に変更されたり、直接の支配階級が貴族から武士に代わるなど、が行われれば、それは時代が変わるという事である事は、説明せずともわかるであろう。しかし、集団が共存のために、同じような目的を抱く事は多い。共産主義者が、共和主義者が、また天皇制主義者がこれからの日本の国家を建設し憲法を変えたとしても、その目的には現在と変わらないものが存在するはずだ。それを例えば「平和」としよう。そしてその目的のために基準は定められるが、しかし「平和のために戦う」か「平和のために戦わない」などの違いのように、その時の国家制度、主権者や指導者の思想動向によって選択する方法論が異なるため、常に基準は異なり、全く別物のように感じるのである。しかし専制者、また国家元首の変更によって国家の形態やその大きな目的は変わらずとも、方法論が変わる事がある。そしてその方法論が変わる時に行われる事が、続けられてきた基準の修正、そして基準の増加となる。言うなれば、基準が修正されたり増えたりする事はそれ自体が変化なのだが、大きな目的や制度といったものが変わっていない時、私たちはそれを安定の支配下におけるコントロールの一環とし、それが積み重なる変化の1つである事を自認しない。そのことは前の章で述べた。
国家の統治方法として様々な政治制度が存在するが、その中でも特に民主制は法が増えやすいと私は想像する。それはなぜかといえば、民主制における主権者が国民自身であり、それ故に欲求を法に投影しやすく、またそれを求める者も多いからである。自己の行動を正当化する時や、また納得できない時に、法を引き合いに出すのはその現れである。もちろん法が簡単に制定されるとは言わないが、民主制は合議によって集団の力を使う以上、たとえそれが一部の人の為、また些細なことであっても、何らかの基準を記した法を定めれば、衆を納得させそれを実現できる。ただこれを言い換えれば、衆の納得さえ得られれば、どんな場合においても法を定める事が可能であるとも言えるため、数さえ集まれば悪法の成立を妨げる事も出来ない。ある特定の地域が犠牲を払う基地やダムの問題は、国家の問題とされ国会で論議されることがあるが、該当地域の住民の意向を遠のけても法案化され、実行されることもあれば、それとは逆に、国会内において与党がその地域の住民の意見を、たとえ少数派であるといえど尊重すれば、それが法案として論議、可決されることもあるのであり、ゆえにその度ごとに基準が変わり、増加する。もし、それが専制君主の国家ならば、そのようなことを王の感情によって決定することも可能であり、その時は公的な基準を必要としない。専制君主の国家においてでも、もちろん基準たるべき法は存在するが、王そのものが基準とされるのが専制制度の特長であり、その王によって決定される事項は、国家の基準にとってみれば「例外」かも知れないが、余程の逸脱が無い限りそれは認めてしまう。巷間に伝えられる徳川家康と佃島住民の関係など、専制者の感情によって無税となった土地の伝説などは、探せば世界中で見つかるはずである。しかし、民主主義下においてこのような例外1つ定めるのにも、基準たるべき法案が必要になる。特別法や特措法など、また付帯文などによって、基準の中にさらに別の基準が設けられ、それが複雑な社会を画一的に仕切ろうとする基準を柔軟にできる反面、それが年月を重ね、あちこちで利用されれば、このような「例外」もまた基準の一部として無限に増え続けるのである。
このように基準が修正され、また増え続ける例として、まず交通規則を思い浮かべて欲しい。戦後の交通規則は昭和22年公布の道路交通取締法、そしてそれが廃され35年に道路交通法が誕生し、それは以後改正され続けているが、それは決して減ることなく増え続けている。例えば自動2輪車におけるヘルメットの着用は、道交法公布時にはまだ存在せず、昭和40年に高速道路での着用義務が追加され、昭和53年に全面着用となった。私たちにとってオートバイに乗ったらヘルメットをかぶることは当然の事と思っているが、高年齢者にとってみれば、その基準は当然の事と納得できても、増えた基準であることを思い出せるはずである。私たちの行動が社会に影響を及ぼすたびに、もしくはたった一度の大事故が大きな印象を私たちに残せば、法はすぐ改正され、増やされる。それはごく当然の政治的処方かも知れないが、問題はそのような増加はいったいどこが限度になるまで行われ、またそれらは本当に必要なのかということである。基準が増え続ける動機は無数に存在するし、そしてまた定められた基準はいつだって完全なわけではない。討議によって先送りにされた問題や、見過ごしにされた点、また人為的に作られた「抜け穴」など、基準が完全たりえぬ理由もまた、無数に見つける事が出きる。
貸金利息の問題は先年大きな断を下され、新たな基準がその効力を発揮し始めたが、あくまでも端的にこの問題を言えば、これは既存の基準の抜け穴を塞ぐため、新たに基準を増やしたのである。しかし、これで問題が解決したのかといえば、おそらく終わりではないだろう。なぜなら消費者金融の問題は借りる側にも問題はあり、その意識が変わらなければ、いつまでも抜け穴は掘られるだろうし、また弁護士による債務処理など新たに注目される業務が増えれば、当然そこにも問題は発生し、いつか焦点が当てられるだろう。室町時代の徳政令、江戸時代における棄捐令など、債務の強制法規を法令によって公的に行うことはかつてもあったが、それで借金という行為がなくなったわけではない。注目すべきはそのどちらもが複数回出され、室町時代の徳政令に至っては、それが幕府の財源へと転化してしまうように、既存の基準の穴を埋めるべく増やされた基準が、いつの間にか別の目的に取って代わることも間々ある事である。この事から考えても、基準の作成とは決して終わりが無いものである以上、そこに恒久性は見出せないといってもよく、どんな基準でも変えねばならない時がある事を示唆する。

2012年1月21日土曜日

国家の基準の再編(1)


「法とは何か」と問われれば、私は「特定の集団内における共通の基準」と答えたい。法は集団内における個人の行動の抑制、そして解放の基準であり、また私たちがその集団の為におこなう義務の基準でもある。この基準は主に私たちの行動、欲求そして共感が動機となって成り立ち、その数も各集団によって異なるが、憲法が存在するところではそれが基準たる法を統べる最高のものとなる。日本国憲法第98条には「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」は効力を有しないとあるが、この憲法の持つ最高法規性は他の国のにも記されており、むしろそうでなければ憲法の存在意義はない。どんな法や命令でも、それは憲法の定める基準を超えることが出来ず、またそれはどんな悪法であっても憲法との整合性を見出せれば成立するし、このことは戦前の日本における憲政史、法制史を知れば十分理解できるはずだ。
集団における基準である法の中の法である憲法は、国境線などと同様、国家を形作る範囲であるといえ、私たちは憲法が効力を発揮している限り、その範囲を越えられず、そしてそれは変え難いものとなる。しかし、そのような性格を憲法が持つ以上、その基準は漠然とした抽象性を確保しなければならない。それはなぜかといえば、私たちの行動や欲求は、個人によって全く違い、その数も個人の存在数だけあるならば、それは表現によって画一化できるほど容易くはない。国家や社会は一つの集団とされるが、それを構成する人間は全て似て非なるものであり、その立ち位置が微妙に違うからこそ個人を確立している。しかし、その個人が一人ではその生存を全うできないため、1つの集団となって共存を目指すしかなく、ゆえに共通の基準は必要となる。その基準が法であるのなら、原則的には曖昧であってはならず、誰もが守れるものであり、その集団内に属する人間を包み込むものでなければならない。
法が制定される動機は、その集団内における人間の行動の問題、もしくは集団の力を必要とする欲求である。ではそ初めからそれを予測し、基準に当てはめることが出来るのかといえば、私たち自身が未来もわからないように、先の事を知る術が全く無いのなら、それは不可能である。それゆえに同時代において、法は増えはするが決して減りはしないであろう。現在も国会が開かれるたびに新たな法律が立案、制定されるが、それは未来が読めなかったがゆえに現在起こる問題に対処しなければならないからであり、そして問題はこれからも際限なく増え続け、その終わりはない。人間の行動は日々変化するし、それを取り巻く技術や文化も多様的な変化をおこなうのなら、この事は一片の真理たりえるだろう。
漠然と歴史を眺めれば、私たちは一見同じような行動を繰り返しているにも見え、それを「歴史は繰り返す」と例えるが、刮目すれば、それは似て非なるものであることがわかる。それ故に基準は新たな問題に対して常に増え続けるだけでなく、時代に即して変化してゆけるようにもなっている。だが基準がたやすく変われば、朝三暮四という熟語があるように、私たちはそれをいちいち認識する事が難しく、またそれが変わり続ければそれこそが混乱の基となる。それ故に、私たちは不安定な存在であることを知るからこそ基準に対して恒久を求めがちだが、基準はいつだって私たちに合わせて変化し、私たちも基準が不変であると信じているからこそ、それを変えようと挑もうとするのである。そしてこの矛盾は常に政治によって解決が図られるのであり、集団において政治が変われば、また法も一変し、その恒久を願うのである。日本においてもその経験は十分に行ってきており、時代が変わり、主権者が変わる事に、その基準も変わっていった。当時の国民にとってそれは望む所ではなかったかも知れないが、敗戦より日本の基準が大日本帝国憲法から日本国憲法に変わることで、国家が変化し、その結果成長したことは紛れもない事実である。それはなぜなのか。

2012年1月19日木曜日

日本国憲法を変える理由(3)


しかし一方でこの自衛隊の問題は、それを日本国憲法の下で推し進めてきた者達に多大な責任がある事は言うまでもない。冷戦の始まりや朝鮮戦争の勃発など、国際社会における平和な時期があまりにも早く終わるとは、日本国憲法の制定時には予想していなかっただろうし、ましてやその緊張の舞台が日本の周辺地域であるならば、それから国民を守る手段を持つ必要はある。当時の日本は占領中であったため、米軍という巨大な力を擁していた事は確かだが、それに依存する事は独立した国家の要件としてふさわしくなく、それゆえに自衛の手段を早急に用意しなければならないという苦慮もあった事であろう。ましてや軍という力をその当時は鮮明に記憶していた時期である。
本来ならそのような時こそ、国民によって真摯に討議し、部分的にでも憲法を変えるという手段もあったはずだが、国民はその日々の生活に追われ、また国民にとってみれば民主主義は突如与えられたものであり、その力の行使は簡単に認識できるものではなかった。それは憲法が変わり、民主主義国家となったにも関わらず、戦前の政治家が各政党の領袖として君臨できたことからみても、またその系譜が現在に脈々と続いていることから見てもよくわかる事である。国政においてもそうならば、地方においてはそれ以上であろう。政治家はいまだ国民は治められるものであるという認識が、自衛隊の存在を合憲であると強行したともいえ、これもまた憲法の軽視に等しい。当時の実情から考えれば時間が足らず、仕方の無い事だったのかもしれないが、この一連の政治的な流れが国民に、かつての軍部に見た強引さを想起させても仕方のない事である。そして戦後日本における一時的な政治沸騰期である安保闘争や学生闘争は、皆、既存政治家のこの強権的な手法が原因となったものである。しかしその混乱の結果、日本国民は民主主義体制にも関わらず、政治意識を停滞させ、より古い政治手法を容認してしまった。政治とは誰か目立った才能のあるものが、もしくは政治家であり続けたものがおこなうものとし、政治家もまた国民が政治に口出しするのを喜ばず、政治的意思を持つものを異端視し、敵視する。それは企業においても見られることであり、自分たちの内部統制を確保するために、国民の政治参加を喜ばず、職場などにおいて政治の話をする事を自粛させるように、民主主義国家としてはあからさまな停滞を見せ、それは現在にも続いている。確かに消費税の導入など、自分たちの生活に直接かかわることに対して、国民は安定を求めるために抵抗したかも知れないが、それでも保守与党による政権は長く続いたことから見ても、この私の見方はあながち間違っていないと思う。そしてこの民主主義の停滞こそ、最も憲法の精神に反したものといえるはずなのだが、それを主張するものを私は知らない。
この政治的混乱の時期を境にして、国民はその政治意識を自粛の方向へと足を進めた。最も、その穴埋めを経済成長でおこなえたため、その停滞は投票率を見てもわかるように悪化の一途をたどり、それは今現在に至る。ただ現在の国民は、来たるべく大きな変化を察してか、少しづつ政治意識に目覚めつつあるが、その行動が今一つ表面的なものに過ぎないのも、私たち自身の政治意識がはっきりとしていないからであるといってもよい。それは国民の基準たる日本国憲法における、自由とは、平等とは、国家とは何かという事を自問してみればわかることであり、その答えが教科書の範疇をでないのなら、私たちはいまだ「与えられた」情報によってでしか物事を考えていないことがわかる。民主主義における個人の確立は、個人による知の確立であり、その知の多様性を多数決によって選択するのが民主主義国家の手法とも言える。ただ、私たちが余り考えることのないそれらの原義、日本国憲法におけるそれらがどのようなものであったのか、明確な答えを出せるものも多くはあるまい。むしろ誰もわからないのかも知れない。それは日本国憲法自体が「与えられた」ものに等しく、それが民主主義の手法を以て選択したものでないのなら、国民がそれを知る術はないだろう。そしてそれこそ、日本国憲法の急所であるといえ、日本が民主主義国家として変化に対応し、前進するのならば、私たち自身の手で、自由や権利などといった言葉を考え、その答えを新たな憲法に反映させねばならない。
以上のように現在の日本の諸問題が、日本国憲法の保護の下、積み重ねられた事実であり、そしてその問題の解決のためには、日本国憲法を今一度見直さねばならない時期に来ている。そして私たちが民主主義国家の国民として、再び成長を目指すのなら、「与えられた」日本国憲法ではなく、私たちの政治意識の結果としての新たな憲法を制定する必要がある。その運動を国民全体で推進することで、国民は国家や自由、権利などを再認識することであろうし、それは政治意識の成長へと繋がる。そして一方で、私たちが日本国憲法の下、抱え続けてきた問題を清算するためには、変化を受け入れねばならない。しかしそれが一部の人間に利するのではなく、国民全体が共に代償を払い、国民全体の成長を見据えるものにし、さらに現在有る問題を再び起こらせないようにするためには、国家の基準を再編しなければならず、そのためにはやはり憲法を変えなければならない。
これらの理由で日本国憲法を変えるには、十分足りると思うが、今一つ納得できないかも知れないため、もう少し詳細を書き記しておきたい。次の章ではまず、憲法の意義そのものに結びつく国家の基準について述べ、次にそれを護る私たち国民の意識について説いて行きたい。そして最後に平和的な変化の受容と、過去にしばられ続けている私たちの解放を記すことで、日本国憲法を変える理由を述べ終わりたいと思う。

2012年1月17日火曜日

日本国憲法を変える理由(2)


なぜ優れた法理念を持つ日本国憲法が、国家をそのような方向へと導いたのか。それはあまりにも理想的で、抽象的すぎる法理念、条文と、それを巧みに利用する国民精神の双方に原因がある。
法が国民の基準としての範囲を表し国家を形作るものならば、そこに様々な理念や理想を込めるのは当然な事である。しかしそれは全ての国民がそれを認識し、それを目指す為に法を遵守する事を誓わねばならない。ただ、法が国家の基準である以上、それは理想だけでなく現実的な側面も持たなければならない。憲法にどれだけ理想を込めても、国民が金銭など共存に必要な力を供出しない限り、それを支える事は出来ないし、国民全てが善人でないのなら、そのための罰則を設けなければならない。それは様々な各法によってなされるだろうが、しかしそれらの法も憲法の範囲を越えて制定することが出来ないのなら、親である憲法は国家の現実的な側面に配慮しなければならないのである。日本国憲法にも、様々な理念や理想が込められているが、それらは「国民の不断の努力」や「公共の福祉のため」という但し書きがついているように、あくまでも国民という共存集団の一員がまもる現実的な規範となっている。それなのに現実への対応よりも、その理念の達成に比重をおけば、現在の日本国民の幸福が国債に依存することによって成り立つように、将来の国民の権利、幸福など、何も考えない結果となる。現在の国民に限定した、さらに一部の国民のための権利や幸福の追求が、果たして日本国憲法の目指す理想や理念なのだろうか。
法には、大いなる理想と現実への対応とのバランスが大切になり、その乖離は法への軽視となって返ってくる。例えば自衛隊は、その存在からして日本国憲法との整合性に問題がある。ただ単純に憲法九条を読めば、自衛隊の存在意義、また紛争地への派遣などのことは、憲法の条文、理念に著しく反していると誰もが思わざるを得ない。しかし現実的には、第二次大戦以降、国際社会が平和を維持しているとは言い難く、またその解決には武力が用いられる以上、国家の自衛のため、そして国際社会の一員としてその秩序を支援するためには、自衛隊の存在は必要不可欠である。ここに憲法の理想と現実の社会事情との乖離が見られる事は、誰も否定できないはずである。
このような法の理想と現実との乖離がどのような現象を引き起こすのか、自衛隊の問題などでうかがえるように、まず一つの理由として、政治活動の進捗に常に影響し、法的な問題の論議がその停滞を助長する。例えば国会内における論議において、かつては自衛隊の問題が俎上に上がるたびにその憲法との整合性は問題になり、時にはそれが国会日程、政治動向を遅らせる事にもなった。さらに自衛隊と憲法の整合性の問題は、自衛隊の存在が現実的に必然性を帯びてくれば来るほど、国会において野党側の存在意義とその駆け引きの要因へと堕していったと私は思う。それは法案の一字一句、もしくはあまり影響のでない範囲での法案の修正のために野党は与党にかみつき、揚げ句の果てには牛歩戦術や、審議拒否など、国会そして議員を選択した国民を軽視するような行動をとるようになった事から見ても、果たして野党は本当に憲法に忠誠を誓っているのか、その行動は疑わしいものがある。本来、国会内の意見対立は、論戦によって行われるべきである。しかし自衛隊の存在が既成事実として認められ、覆しづらくなった時から、政党の存在意義としてだけ憲法の九条護持を高言するようになり、実際的な力を発揮する事は全くなくなった。自衛隊も、また天皇制も消極的ながらも認め、現実と折り合いをつけたなどと言うが、違う角度から見れば、これほど憲法を軽視した勢力を私は知らない。現在、彼らの多くは日本国憲法を護ろうとする立場にあるが、彼らは政治的信念から憲法を護るというより、日本国憲法が無くなれば彼ら自身の存在意義を失うからであり、なぜなら、もし自らの平和主義を押し通し、またその他の様々な権利について自らの考えを親権に訴えたいのなら、日本国憲法にこだわるでなく、自身が新しい憲法草案を出す事で、より良い未来への選択肢を提示することも出来るはずだが、それを全く行おうとしていないのならば、彼らはただ日本国憲法に自己を依存していると見られても仕方のないことである。日本国憲法の条文と現時点で実現不可能な理念を結びつけ、それを種として勢力を作る。それでも彼らが本当に護憲を目指すのなら、もっと手広く論戦などを行ない、国民を納得させようと務めるだろうが、彼らの政治活動を見れば、その主張は宣伝活動に等しく、また論争をおこなうよりも、ただ内輪のものだけを集めて寄り添っているだけに過ぎない。むしろ論戦になる前に、自らの理想的主観を前面に押し出し、ただそれを強制するという、実はかつての軍部が使用した手法と何一つ変わらぬことを行っている。彼らは、彼らの仲間内で異質な意見が出た場合、それに対してどのような態度に出るのか、そこに答えはあるだろう。憲法は全ての国民のものであり、一部の国民のものではないのだが、それを自己の勢力の存在意義とし、そこに利を見出しているならば、憲法を軽視していると指摘してもおかしくはないだろう。批判者として生活しているもののうち、他の国民と同じように社会の中で生産などの職業に従事しているものは、どれぐらいいるのだろうか。

2012年1月16日月曜日

日本国憲法を変える理由(1)


これまでの稿で、私たちの周囲は常に変化が起り、それゆえに私たちの生活の「安定」とは、波打ち際で砂の町を守り続けるような多大な労力を必要とし、それは幻想に近いものである事を述べてきた。ただ、これらの事は本題である、「なぜ憲法を新たに制定せねばならないのか」の前提に過ぎない。しかし、この前提を認識していなければ、私たちの変化を受け入れる姿勢は、ただ我が身を守るだけのような、後ろ向きのものとなるだろう。それは短期的には自己を守り通す事が出来ようが、その為に他者を犠牲にし、その連鎖を見過ごしにするならば、結果的には私たちの生存を支える共存集団である国家をも崩壊へと導くことになる。それゆえに私は国家を必要とする一個人として、その集団の持続を願うのならば、私たちの力を結集して変化を受け入れ、その為に新たな憲法を制定せねばならないと思う。
ではこれより、なぜ憲法を新たに、そして私たちの手で制定せねばならないのか、それをもう少し具体的に述べて行きたい。
日本国憲法の改正論議は、現在までの間に幾度ともなくあったが、皆、本格的な討議になる前に立ち消えになる。この理由として考えうる最も素朴なものは、「なぜ日本国憲法を変える必要があるのか」だろう。日本国憲法はその理念も、またそれによる恩恵も、どちらも私たちには印象深く、忘れてはならないものである。戦争の原因となった軍国主義からの解放、私たちへの自由と権利の授与など、日本国憲法が敗戦後の日本人に与えた政治意識は大きなものがあるし、それは現代人にとっても、平和に対する思いや幸福の追求など、様々な面で憲法を国家の良心としている以上、それを変える事こそ何か魂胆があるのではないかと疑い、恐れるのも、もっともな事である。
私も日本国憲法の法理念はとても素晴らしいものであると思うし、敗戦後の復興と成長の根幹になる基準として、その功績は計り知れないと思う。かつての様々な規制からの解放が、どれだけ国民に多様的な成長をもたらせてきたかを考えれば、日本国憲法の法基準は非常に優れていたものであったと言わざるを得ない。しかし、その法基準、法理念が、現在の日本の背景になっていることも否定しがたい事実である。現在の国家状況が主権者である国民の選択した結果の連鎖なら、それは日本国憲法の作用の結果でもある。財政を逼迫させ国債発行の理由である様々な権利や保障、政策と言ったものは、全て日本国憲法の範囲内でおこなわれている事実から目を背けてはならない。政治献金や選挙区の問題から、公務員の給与、独立行政法人の会計、そして生活保護や子供手当てなどに至るまで、あらゆる問題は理想的である日本国憲法下におけることであり、憲法が私たちの行動の基準となる以上、その問題の根本的な解決のためには憲法を論じることを避けてはならないのである。日本国憲法は大日本国憲法の拘束から国民を解き放ったが、その解放する力が更なる拡大を許し、今やそれをを止める術はない。自由や平等、個人や幸福といった憲法に記された言葉が、無分別に、ただ生活の「安定」のために使用され、今度は逆に国家を解体へと導いているのもまた事実の一端なのである。

2012年1月14日土曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(4)


「安定」とは現状を持続させたい、私たちの願望、または欲求である。そしてそれは巨視的に見れば、人類や地球、または国家、そして基本的な権利の存続になり、狭義においては、ただ、私たち自身にかかわる、生活や財産の維持となる。そして現在の私たちが求める「安定」とは、この狭義によるものが大であり、それがあらゆる政治活動の動機となっている。ところが、それによって実は国家は悪い方向へと「変化」しつつあり、「安定」への願望が不安定な将来の原因となっていることに、私たちは早く気付かねばならない。「そんなことはなく、安定こそがよい社会の実現への礎である」思うかも知れない。もちろん、私はその願望の全てを否定する気にはなれないし、その恩恵を十分に享受していることも承知している。ただ、その安定が過去からの受け継ぎに過ぎず、私たち自身で産み出したものではなく、またそれを維持する力も将来から借り続けているものであり、私たち自身の力のみで行っていないことを、私は疑問視し、変えなければならないと述べたいのである。
ではこのような「安定」の影響とはどのようなものかといえば、例えば高度経済成長の結果、その成長に比例して日本人の労働価値は高くなった。しかし現在のような経済下降期において、その経済力に比例して下がるのではなく、労働の価値を安定して維持しようと勤め、それは安定している。しかしその維持のために、企業は雇用体系を変革し、また合理化などをおこなわねばならず、それでも日本人の高い価値は支えきれないため、工場を世界各地に移転し始めた。その結果、かつては日本の基幹産業であった製造業の空洞化は避けられないだろうし、それは雇用にも直結している。実際に失業率と生活保護者数は増加傾向にあるし、現状の安定を望めば、それはもっと悪い方向に行くであろう。
また日本の経済的状況とは反比例し、経済通貨の価値は以前として強いままである。その為にものを安く輸入でき、社会全般がデフレ傾向にあるが、ものの価値が安ければ当然企業は薄利多売を指向し、それが競争原理となり、さらにその安さを維持するために製造コストが下がれば、私たちの給料が上がる術はない。そして日本人の労働力が高い価値のままなら、価値が安い国に製造を依頼するのは自明の理である。これを喜ばしい事のように言う人もあるが、もしこれが私たちの生活の安定の要因となっているならば、現在の高い通貨価値が下がれば、相対的にものの価値は上がるので、海外に依存している私たちの安定などは簡単に吹き飛ぶことになる。しかも輸入に依存し、製造や農漁林業など、国家が自給する為に必要な労働者が減り続ければ、通貨価値が下がり、再び自国での生産に切り替え用としても、それを行いうるだけの人的基盤はあるのだろうか。
経済的な面ばかり見てきたが政治においても同様であり、私たちは長い間政党政治に依存し、政治家を政党が生み出すまま受け入れてきたが、その結果は世襲の増加や、政治家の質の低下などに繋がっている。しかしそれよりも深刻なのは、政治的な安定を求めるあまりに民主主義国家の国民としての役割を果たさなかった(これは選挙の投票率を見れば解るであろう)、私たちの政治意識の低さである。日本国民は主権者として未來の選択をおこなわなければならない。その最終的な決定を議員に委託するとしても、その議員を選ぶのは私たちであるはずなのだが、その権利すら私たちは「安定」の為に放り出してきた。「政治は政治家に任せればいい」、「わからないくせに政治に口を出すな」と、年配の方ほど口に出すが、国民が主権者である以上、政治は政治家に任せるものではないし、政治や社会についてわからなければ、それを教えあい、国民の質を高める事が民主主義国家の、共存社会の持続に繋がる。戦後から日本が経済成長の頂点に上るまで、様々な形での政治的混乱があり、そのような混乱の恐れから政治的な安定の確保のために、国民による政治的自粛が行われている。もちろんその本当の動機は、経済的な成長と自らの欲求の達成に忙しくなったからかもしれない。しかし、だんだん政治的な関心が薄れた結果、政治を求心者にまかせ、その人間が高齢化すれば、前に述べたようにイエスマンの統治制度を、すなわち派閥や世襲を容認してきた。現在の国政、市政を問わず、その代表者である議員になる人のほとんどは、親兄弟、親族に政治家を見出すことが出来るだろう。そして彼らもまた自己の、そして次代の安定を望む結果、自身に近づくものだけを受け入れ、それ以外の人たちには特に大きく関心を払わなかった。もちろん政治家全てがそうだとは言わないが、公然と言われているように、選挙に必要な「地盤、看板、かばん」は、前任者から「与えられるもの」ならば、政治家を志す者は大なり小なりそれを受け継ぐ事を手段とせざるを得ない。初めは様々な理想や個性を抱いているだろうが、それを実現する手段を追ううちに、その初めに持っていたものは忘れ去られるのである。彼らは自分の政治的意思よりも、数による力での実現から抜け出せず、またその力を集めるために場当たり的な政策しか採れないために、変化の前にすくむしかないのである。このような政治家を製造する組織が現在の日本の政党であると言え、その結果、政治家の質は報じられている通り落ちたと言えよう。しかしそれよりも、そのような政治家を簡単に選択する国民こそ、当然質は低いと言わざるを得ない。この安定のための依存に慣れきった国民は、豊かな時も、現在のような苦境にある時も、国家や政府、社会という「何か力のあるもの」が何とかしてくれると思い、それを頼り、あくまでも自己の自由や権利を守り通そうとする。しかし、この求心力たる国家や政府、社会がどのようなものであるのか、過去に依存したままの私たちはすっかり忘れている。それゆえにいつまでも自らで行動しようとせず、時が流れゆくままに、誰かの助けをまっているのだが、国家や政府、そして社会が私たちが構成している集団である以上、誰かを期待することなど出来ないのであり、もし、誰かを頼らざるを得ないのなら、それは民主主義国家日本の終焉であり、敗戦より私たちの築き上げてきた大いなる国家の安定など、一朝にして終わるのである。
私たちは今、自分たちの生活という小さな安定を、今少しの間伸ばし続けるか、それともそれを幾分か振り捨てでも国家という大きな共存社会の安定をとるかという選択の岐路に立たされている。今まで過去に依存し、「安定」によってため続けてきた変化の力を、さらに支え続ける余力は現在の私たち自身には、もうない。それは何度も繰り返すように、日本の経済的な力、国民意識を見れば、そう遠くない時期にその時は来るであろう。そして現在の私たちの状況では、その変化を素直に受け入れられることすら難しい。国家が共存社会であることを忘れ、自分たちの力で変えられる政府をいたずらに敵視し、信頼していないのならば、変化を受け入れるための調整者はいったい誰がなるのであろうか。また、変化がきても自分たちの安定を護ることに専念すれば、そこに必ず争いは発生するであろう。変化の波にさらわれる波打ち際の人間と、高台にいる人間、もし共に国家という集団の構成員であったなら、互いに助け合わねばならないはずだが、自分の生活のことにかまけて共存する他者を助けねば、そこに嫉妬や恨みなどの争いの火種は必ず発生する。そして歴史を見れば、高台の護りやすい所にいても、いくらでも引き吊り下ろされる。もし、私たちが変化による争いを避け、それを成長への踏み台にしたいのならば、より共存の道を模索しなければならず、それは平等などの強制的な力などではなく、自らが進んで行うものでなければならない。
安楽に慣れ、またものの豊かさが当然のように思っている私たちには、それすら非常に困難と思えるだろうし、事実その実行には、かなりの努力を要求される。なぜなら現在の私たちは、「安定」の為に将来に大きな借りを作ってしまったために、返済のための相応の力が必要だからである。楽観的に考える事は簡単だが、現実が楽観にあわせてくれた事など一度もない。それゆえに私たちはもっと国家を、政治を、経済を、質実に考え、早く、また多くの犠牲がともなわないように代償を払う道を模索せねばならない。そして、私たち自身から我慢できる程度に現状を変えながら、患部を切り取り、耐えながらもより一層の向上を目指すべきではないだろうか。現状のまま「安定」を指向する事はたやすいが、その「安定」が破錠すれば私たちの生活が急落する事も簡単に予想がつくはずである。そのような急激な変化から身を守り、日本そのものの「安定」を目指すのなら、私たち自身の「安定」からの依存を脱却し、変化に進んで挑戦し、それに耐え、受け入れるしかない。時代は「変わる」のではなく、「変える」のである。ただ、そのためには基準の再編は必要であり、それは憲法の新たな制定へと結びつくのだが、そのことは後述する。
(補足1)最も変化を受け入れること事態、自己の安定の確保であるといえるかも知れない。ただ、この表裏を説明するにはいささか言葉足らずであり、また別の機会に譲る。

2012年1月13日金曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(3)


何かへの依存によって「安定」を確保する関係は、周囲を惹きつける求心力が要になる。わかりやすいたとえでいえば、太陽と地球の関係がまさにそうであり、太陽という巨大な求心力によって地球や他の惑星は安定的に運行している。ここからわかることは、安定的な関係を維持するための求心点は、常に一つだけであり、それがゆえに、人間においてこのような関係を築くには、常に専制者、もしくは専制的な制度を必要とすることは否めず、そしてこれこそが、「安定」が不安定になりうる答えの核心である。
「安定」の要となる専制的な力を持続させる者、いわゆるワンマン社長などは、人を引きつけ求心力になりうるだけの能力が優れていることは認める。しかしその地位にのし上がり持続できたのは、その持つ才能だけではなく、周囲の助力がある事を理解していたからのはずである。もし、自身の能力だけで勝ち上がれたと思っているならば、その勝利は短期で終わるだろうし、それは現在の日本における若手実業家に顕著に見られる、とだけ言えば理解して頂けると思う。長期的に専制権を持てた企業の社長は、よくも悪くも人の価値を知っている。つまり自分の能力や持つ力だけでなく、数において自分の賛同者が多ければ、それだけ自己の優位性は持続でき、自己の欲求の実現を達成できることを知っているのである。欲求の実現の途上はその達成のために力を使い、そして一度頂点に達すればその持続を計るために力を使用するだろう。その持続を求める欲こそ「安定」である。イエスマンの存在は、この欲求を実現するための数としての人の力に過ぎない。頂点を極め、求心力として君臨する優秀な専制者達は、周囲の変化を見過ごしにはしない。しかし変化が起っているからこそ、現在を失うことを恐れ自己の安定を図り、またその変化を過少し、力によって押し切れると思うため、そこにもつ力を集中する。しかし変化が常に起こる以上、そこに終わりはない。ゆえに変化に気付く周囲の人間は、力を求心力の安定、確保のためだけに使うことをいさめるが、自身の能力で変化を押し切る事が出来れば、その忠告者を自身の反対者として追放するのである。そうなれば当然残るのはイエスマン達ばかりであり、それゆえに専制者には数の力は確保できるためその地位を持続できるが、周囲の変化は止められない以上、それは波に漂う豪華客船であり、その客船が海に沈めば、残された人間は懸命にたどり着くところまで泳ぎきるか、もしくは一緒に沈むしかない。イエスマン達にしてみれば、求心者に依存することこそ、自己の安定の確保であったため、ワンマン社長がどのような要求をしようとも、自己の安定が脅かされなければ、それを受け入れ求心者の持続に懸命になるが、その求心者がいなくなれば依存の対象がいなくなるため、自己の欲求の達成の方法が失われる。彼らはそこで初めて変化の波に直接晒されるのだが、そこで泳ぐ能力があればよいが、なければ、新たに依存するものが見つからない限り沈むしかない。ワンマン社長の二代目が、往々にして滅び去るのは、自分自身の力で変化の波を泳ぎきることを知らなかったからであるといってもよい。そしてまた、イエスマン達が強力な統治機構、つまり派閥などを生み出すのも、自分が依存する対象を確保するためでもある。彼らにしてみれば、求心力の確保こそが自己の安定であると信じているため、求心者が持っていた力をそのまま受け継ぐ人間を探し出す。そこに世襲の妙があるわけだが、しかしそのような求心者、もしくはそれを生み出す派閥の質が時代を経る事に低下するのは、その派閥の長が自分の力によって派閥を形成したからではなく、力を受け継ぐだけの能力しか持っていないからだとも言える。それゆえに、実は変化という荒波をその人間が乗り越えられるかどうかはわからず、豪華客船も老朽化すれば、荒波でなくとも沈むように、力の継続のみでは変化に耐えきることは出来ないのである。これがどうしてか、ということについては、さらに思考を深くせねばまとめ上げられないし、それがこの稿の主題ではないので今は省くとする。
先にも述べたように、「安定」に根ざした関係は、自己存続を実行している強力な磁力を持つ者とその依存者によって行われるが、これは私たちの家族、社会の関係全てに見出すことは出来、それが昨今の日本の停滞の要因であると私は考える。現行の政治制度や法体系、また政治家の系譜も全て過去から受け継いできたものであり、私たち自身が築きあげたものとは言い難い。そういった意味では、私たちはイエスマンでしかないとも言えず、私たちは過去から受け継いできたものに対して何の疑問も抱かず、ただありのままに、流されるままに受け取っているのなら、それを否定することは難しい。増え続ける国債、それらの動機となる権利、そして補助金、補償金を生み出した政治制度や法にたいし、私たちはどのような疑問を持ち、行動し、そしてそれらについてどれだけよく知っているだろうか。そしてこれらにたいしての考えを私たち自身によって改めない限り、もし財政破錠すれば私たちは共に沈み、生活は急激に悪化するであろう。その時は現在守り続けている「安定」など、何の役にも立たないのである。

2012年1月12日木曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(2)


なぜ、そんなことが言えるのか。それは安定のために現在の日本の財政が、税収だけでなく、同額の国債を発行し、それを足すことで賄われるという極めて馬鹿げた、そして危険な橋を渡っているからである。もちろん、経済のみで国家を押し計ることは出来ないが、しかし経済力が戦後の成長における根幹であり、私たちの豊かさを支える価値であり、そして国際的にもわかりやすく、指標となっているのなら、この日本の財政問題は、まさに我が国の急所とも言える。しかし、現在の政治家や官僚が、どれだけ政策を実行しても国債の発行量が減少する兆しはいまだ見られず、また、よしんば減らしたとしても、今まで発効してきた量の償却にはどれぐらいの期間がかかるのか、奇妙な事に常に「経済効果」などをさえずる政治家も、そしてメディアも全く述べようとはしない。しかし単純にいえば債券や借金とは未來における労働の約束であり、それは将来の日本人へ確実な負担となる。そして、もしそれを怠れば国民の保有している国債の額面価値も全て無に帰するだけでなく、ことの重大性によって日本は国際的な管理下となるはずであり、第二の敗戦を迎えるであろう。そしてその占領者はアメリカか、はたまた中国か、それはわからない。私たち自身の借金やローンも返却できなければ住居や財産を差し押さえられ、路頭に迷い、豊かさとは無縁となり、現状の安定など望む術もない。それと同じ事は、お金を主とした価値観を共有する私たちの社会では、個人でも国家でもその効果が変わらないことを私たちは忘れてはならない。「生活の安定」、また「未来への成長のために」という名目で国債によって将来に借りを作り続けているが、それによって将来の見通しが確実に立つ訳でもなく、現状の安定も限定的なものと言わざるを得ない。
「安定」とは何であろうか。通勤で駅を使用していると選挙が近づくにつれ、候補者がそこで政治主張をおこなう光景を見る。それを聞くと各者、各政党の政策の主張にそれぞれ違いはあるが、しかし近年、その核心は「現状生活の安定」に一致している。ある候補者は「現状の生活を維持するために、消費税の増率を」と唱え、またある候補者は「現状の生活安定のために、消費税の増率には反対」と述べるように、その方法論は違えど、結論においては一致している。特に現在のような経済的な不安をひしひしと感じる時期は、いつ自分の生活が脅かされるのかという思いが、「安定」をさらに信仰とさせている。しかしよく考えてみれば、私たちの経済が成長期にある時も生活的な変化は大きく、決して安定的であったといえなかったはずだが、私たちはそれに対して不安を抱く事はなく、期待を持ってその変化を受け入れていたはずだ。人は、自分の欲求が実現したりする変化には黙っていることが多いが、失う事に関しては非常に過敏である。自分の現在の立脚点からの上昇は受け入れるが、そこからの下降は認めない、そしてそれを拒否し、そうならないために「安定」を願う。現在の政治に大きな影響力を持っている世代は、皆、バブル経済絶頂期をすごしてきた。この次代から、経済の停滞状況に有る現在までの間、同生活が変化していったのか、若い世代の人間には感じにくいだろうが、バブル時代によき経験をした人たちにとってみれば、そのサービスや享楽が失われた今は、変化をひしひしと感じるのであり、それは「昔はよかった」というぼやきに繋がる。そう考えると、私たちは変化に対して鈍感であるというよりも、実は鋭敏すぎると言えなくもない。(補足1へ) 
私たちの周囲が常に変化で満ち溢れているのなら、実は「安定」という言葉はまやかし同様のものにすぎない。私たち自身に寿命があり、いつか死という終わりが来るように、物にも必ず終わりがあるように、そして老いが自分の最もよい時期と比べれば全くの別人となり、物にも同じような経年劣化が起る。ただ、これは善し悪しの問題ではなく、絶えず物事は変化し、その変化に対して人も物も、何らかの力を使い続けるために、次第に衰え、終わりがあるだけである。
しかし「安定」という言葉には、そのような変化を悪しきものとして拒絶し、「永遠」や「不変」という叶わぬ望みを潜めた抵抗がある。例えば、私たち自身大きな財産を得たら、それを自己の欲求の実現のために使い、さらにそれを保持し、持続させることを望むだろう。さらにそれだけではなく、持つ財産を次代にも引き継ぎ、一族の繁栄を願うことも考える。最も次代の繁栄をも望むのは、次代の人間のためだけでなく、自身が老いた時その生存活動を保障され死までの期間を安楽に生きたい、もしくは死までの間、自己の欲求を可能な限り実現させたいと思い、次代の人間や一族にその支えとなってもらう欲求は否定できず、この欲求は自己の「安定」に言い換えることも出来る。そう考えると、年をとっても自分が持つ権力、すなわち人を使役できる力である金銭や土地などの財産を手放そうとせず、可能な限り次代の人間に引き渡そうとしないのは、その本人の才能が優れているからというよりも、我執が強いからであり、自己の安定を持続させるために、全く別の他者をも自己と同化させようとする。それを結果論から見れば善し悪しの判断は難しいが、次代の人間を信ぜず、またその持つ可能性を押しつぶしている側面があることは否定しがたいはずである。ところがおかしなことに、人は自身が押し殺されるような長く続く力を尊重し、それに従う事で自己の安定が簡単に手に入ると思い込んでいる。これは例えば企業においては、いわゆるワンマン社長とその周辺のイエスマン達、政治の世界においては議員と秘書、並びにその支持者たち、宗教界における教祖とその信者達、そして日本の政治現状では既存政党と国民にその関係は見られる。しかし、このような関係は誰かが敷いたレールの上を走る列車同様に、レールが続く間は「安定」的に持続が確保されるだろうが、そのレールが途切れたり、レールを敷く者が死などによっていなくなるなど、何らかの原因で終わりを告げた時、その列車の命運はそこで途絶えるのであり、そこから先において自分が生き残るか否かは、自分の命運次第という、全く不安定で、さらには危険な境地に身を置くことになるのである。結果として「安定」は突然の大きな変化に対しては全く効力を失うだけなのだが、これはなぜであろうか。

2012年1月11日水曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(1)


さて、私たちは認識の範囲を越えて変化に関わっている以上、そこから逃れる術はない。そして逃れられないのなら、それに向かうべきでり、日本も敗戦以降、必ずしも望んだ変化とは言い難いかも知れないが、結果的には過去の日本から変わることで大きく成長したように、変化をどう受け入れるかで、その後の未来は大きく変わる。ただそうはいっても、現在の日本からの変化は歓迎するが、それは自己の現状維持が前提である人も多いはずであり、物質的な豊かさがなおさらそれを望ませ、それは表面上の変化だけを求め、結果的には何も変わらない、いや、むしろ悪化しつつある現在の状況を見ても解るだろう。
この表面的な変化の具体例を挙げれば、私たちは選挙によって代表者である議員を選ぶが、その議員は政党から出された候補者が圧倒的に多い。そして私たちはその候補者達の事を詳しく知っているかといえば特にそうではなく、メディアに露出する候補者以外は、顔と名前を選挙ポスターによって確認しているだけの人も多い。ただ、その候補者を生み出す母体である政党がどのような事を考え、行っているのかを、連日メディアの報道によって確認出来るため、これを参考にして候補者本人よりも政党を選ぶのが現状である。つまり、私たちは自分たちの代表者になるはずの候補者を知らなくても政治的変化を求めるならば政権政党を変えればよいと思い、その候補者を自らの手で送り出したり、候補者達を比べ検討して選ぼうとはせず、また候補者も自らの政治的信念よりも政党の力を頼りにする余り、その意志に迎合しその信念を押し出そうとはしない。それゆえに選挙によって政権政党は一変するが、しかし議員当選者の顔ぶれを見ればおなじみの顔が揃い、議員が政治的な失策をおこしても政党が何らかの力の求心力として彼を望めば当選を果たし、力の継続である世襲も容易に行われる。つまり私たちは政治的な変化を望み行動するが、政党に頼り切り、私たち自身の積極的な政治参加によるものではなく、あくまでも他力本願的なものであれば、表面的な変化しか望めない。そしてその視点から考察すれば、現代日本における政党は、宗教団体と特に相違はないとも私は思えるが、それは後述する事にしよう。
私たちがこのような表面上の変化しか望めないのは、全て現状の維持という欲求、言い換えれば「安定」への依存が、変化に対して身を固くさせているからである。日本が良き将来へと進路を変えるには、現在の「豊かさ」をある程度放棄しなければならず、変化によって「私たちの望む」安定は終わりを告げるだろう。それを私たちは薄々感づいているが、しかしその影響を自分の生活だけは受けたくないし、その変化に対して率先して行動することで、責任をとりたくないからである。ただ、私たちが望もうが望むまいが、現在の状況を「安定」によって維持し続ければ、間違いなく豊かさも、そして「安定」も失われるだろう。

2012年1月8日日曜日


続き
変化とは、ある日突然訪れるものではない。変化には、時の進行という逆らえない流れと、私たち自身や自然が行為によって起すものの二通りある。私たちにとって時とは何か、それは難しい問題だが、例えば人間の老化を何らかの方法で止めたとしても、また地球の自転が止り四季が移り変わらなくなったとしても、時だけは止まることなく進み続ける。しかし、そのようなことが起こりえることはまず無く、全てのものが時に従って進み続け、変化し続け、それを私たちが止めることは出来ない。また人間や自然の行為が起す変化も、私たち自身の身体能力ではその全てを認識することは不可能であ利、自分が得た情報以上の変化を知ることは出来ない。私たちは、自身で関知できる変化には何らかの反応を見せるが、社会や国家という広い範囲における変化は、そこに属する人間の変化が集積と、さらにそこに事件や報道などの何らかのきっかけが加わらなければ、それに気付くことはない。しかし、一度それに気付かされれば、それは「時代が変わった」という共感となる。
このような時代の変化に対して、私たちは直接関わってはいないというかも知れない。だが例えば、江戸時代から明治時代への大変革は、歴史を動かした当事者だけでなく、多くの無数の民衆もその変化には十分寄与している。そしてその行動や結果は歴史史料にも十分残されているが、ただ、私たちは歴史を知るために、最も簡易な方法、つまり変化の急所を追うため、それに触れないだけであり、歴史を知れば知るほど、一つの出来事から、無数の広がりを伺い知ることは出来るのである。しかし、この簡易な方法で歴史を知ろうとしているため、私たちは舞台での演技者だけしか知らず、その裏方や、また客達のことを知らないだけなのである。そしてそれがゆえに、私たちは自分で歴史を変える力はない、もしくは才能ある偉人達しかその力を持っていないとするが、それは大きな間違いであり、かつてより、どんなに強力な身分制度が存在しても、また恐怖による王の支配があっても、私たち自身は常に変化を求めて自ら行動し、それを得てきたではないか。そういった意味では民主主義という言葉は、現在では政治制度の言葉となっているが、実はどの時代の変化も多くの民衆の同意によって行われる以上、常に民主主義であったとも言えるのである。そして私は、私たち自身が時代を変える力を持っていることを再び認識してもらうために、先人と同じように筆を執ることにしたのである
日本は敗戦より経済大国として復興したが、それは絶頂を迎え現在は衰退の途にある事は、誰もが感じているはずだ。その分岐点となったバブル経済の崩壊は、一つの時代の変化であるが、しかしその時よりも現在の方が大きな危機感を私たちは抱いており、それはより大きく変化する時代の前兆であるとも言える。なぜなら、バブルの崩壊から現在に至るまでの間は、まだ日本には余力があり、経済史的には「失われた10年」と言われているが、この10年の間で目立った生活の変化はない。世代によっては、バブル経済時代に利用した様々なサービスが受けられないため、生活が変化したと思うだろうが、途上国などから見れば、私たちの豊かさなど全く変わっていないように見えるだろう。この余力とは、日本という国家の信用と印象が大きく締めているが、現在それは地に落ちようとしている。もし、ここに衝撃が加われば、私たちはそれに耐えられるだけの力があるだろうか。それゆえに私たちは、来たるべき危機から身を守り、早く時代が変わり、その危機が去ってもらいたいと願うが、しかし時代の変化に私たちが関わっているのなら、誰もが自己の身の安全を考えているだけでは、時代は現在よりも悪い方向へ変化し、私たちの持つ不満も解消されない。もし、これからの時代が良き方向になるよう願うのならば、それは願うだけでなく、私たち自身の知恵と力と、そして勇気によって、変化を自らの手でおこない、それを引き寄せなければならない。
「昔は良かった」だの、「あの時代はこうではなかった」と、ぼやく事は簡単である。しかし「昔」を知り「あの時代」を知る者は、その変化を経験しているのであり、その変化に対して積極的でなかったがゆえに、不満がぼやきとなって現れるのである。ただ、現在はかつてと違い、一部の人間が国家の運命を担うのではなく、私たち自身で国家の将来を選択できる民主主義の世の中である。国民は主権者であり、そして政治に参加する事は義務であり、表現や言論の自由、様々な権利は憲法で保障されている。それは変化に対して私たちが様々な方策を立て、将来を切り開いて行く事が出来、またおこなわなければならない事を示している。私たちが生きそして常に変化して行く以上、時代は変わる。そこから逃れる術はない。しかしその変化に私たちが積極的に関われば、「時代は変わる」のではなく「変えられる」のである。そして現在私たちは変化をおこなうべく模索し、それが昨今の政権交替などに表れているが、なかなか思うように結果が出ない。私はそれを考察し、その原因は日本人自身の政治的意識と、古くなった基準にあるという結論に達した。それをこの原稿に書き著し、この後の大きな変化を私たち自身、日本国民の手で執り行い、現在、また将来のためにも道を切り開かねばならないことを訴えたい。

2012年1月7日土曜日

時代は変わる・・ならば変えることも出来るのではないか

私たちは、時を止める事が出来なければ、時をさかのぼる事も出来ない。その一方通行の流れの中で意識を持って生き、身体が、そして五感が働く限り、常に新たな情報を手に入れ、それは新たな欲求を生み出す基となる。その欲求こそ、個人の中において最も自由なものであり、その違いが個人を確立させているといってもよく、人はそれを様々な方法で実現しようとする。
個人が大なり小なり、そして意識していようがいまいが、欲求を実現しようと心がけているのなら、私たちの周りは常に変化し、それは生存している間、また同じ世界に属する以上、たとえ遠い場所であっても、直接的な関わりがなくとも、無数の変化との繋がりは否定できない。私たちの行動は欲求が原動力となる。自己の行動の影響がどのように周囲に、また遠くに波及しているかを感じることは難しい。しかし行動がどのようなささいなものであれ、それを知る者に、記憶や印象などの、何らかの形で残れば、そこからまた新たな欲求や行動が生み出される可能性があるのなら、私たちは全て何らかのつながりを持つと言えよう。例えば適当に電話番号を押して誰かがそれを受けたとし、その人間と何らかの話をすれば、それがついさっきまで無関係だった人間の何かを動かし、変化を与えることもある。また国家間の戦争に反対し、自己が戦争とは一切の関わりの無いことを表明しても、落ちたミサイルの衝撃波はそれを避けることが出来ないように、私たちは他者と目に見えないつながりを持つ。このように、自己の行動が他者に対して何らかの影響を与え、またその逆もありうるのなら、私たちの周囲は常に変化しており、そこに繋がりを見出せるのならば、それを避けることは出来ない。
 ところが私たちはこのような変化に全く関係が無いという態度を見せることがある。例えば、「最近の子供たちはゲームなど、屋内の遊びばかりで外にいって遊ぼうとしない。自分の時はそうではなかった。」など、子供たちの変化を、自分達は無関係であり、子供たちが勝手に変化していったとして批判的に見る事がある。
しかし、なぜ子供たちが屋内で遊ぶようになったのか。ゲーム機の発達や広場の減少など、自分が知らないところで技術、嗜好、そして環境の変化はあったかもしれない。だが仕事で忙しい時、また家で安らぎたいときなど、子供たちが目の届かない外で遊ばれるよりも、より管理しやすい屋内で遊ぶようにしたのはいったい誰であろうか。塾や習い事などで、日の出ている時間に子供が屋外で遊べないようにしたのは誰の望みなのか。共有地の使用方法として、ボール遊びなど子供の好きな遊び方を制限しているのは誰の都合なのか。また、単純に他者との協調、つまり「みんな持っているから」という動機によってゲームや携帯電話を買い与え、その資金を出したのは誰なのか。日本は、工業、そして技術によって高度経済成長を達成し、その成長によって社会に娯楽やサービスが発展し、その変化を受け入れたのは、まさに私たち自身である以上、子供たちの変化に関わっていない人など誰もいないはずであり、子供たちが望み、自主的に変わってきたとして、その責任を押し付ける事は出来ないだろう。それでも私はかかわっていないと言い張る人がいるかも知れないが、共存する社会の中で直接的には関わらずとも、移り行く変化を黙認しているのなら、それを容認しているのと同義である。社会という連環する繋がりの中で、変化に関わらない者はおらず、その変化が悪いものと感じれば、それを芽のうちに潰すことも行う以上、目に見える変化に対する責任は、その社会に属する誰もが負うべきであり、現在の日本の様々な変化に私たちが関わっていないことなど無いのである。

2012年1月5日木曜日


続き
では私たちは見えない変化に対して何ができるのか。それは日常における、政治的意識の基盤を築くことではないでしょうか。それは、教育の普及度や国民の道徳観念の充実さ、自国を、民主主義を国民がどれほど理解しているのか、これらの意識によって変化への対応はかなりの違いを見せるでしょう。これらの意識が未だ未熟であったフランスでは、民衆が変化によって利己的な行動へと走り、国家に混乱をもたらす、そして新たな独裁者を迎え入れるという結果になりました。しかし、これらのフランス国民の行動を、私たちは決して愚かという言葉で済ませてはなりません。彼らは何よりも、自分たちの手によって王政を打ち倒して民主制を手に入れ、現代に繋がる変化の受容者としての先べんをつけたのであり、その結果はともかくとして、その行動は、まさしく私たちに大きな足跡を残しています。フランスはこの後のナポレオンの登場からその退位、そして王政復古から革命、そして共和制から革命、また共和制へと、大きな変化を繰り返す事になります。その過程は一連のフランス文学から伺い知れますし、このような体験を踏まえたフランス国民が民主主義国家の旗手である事を自負する事は当然の事でもあり、私たちはこの体験と歴史から多くを学ばなければなりません。
一方で民主主義意識が基盤にあり、歴史的変化を経た国もあります。それはアメリカです。彼らは既存の権力からの逃亡集団としてメイフラワー号に乗ったときより、その精神は清教的な拘束によって共存関係を結んでおり、それは新国家への基盤となりました。農業を中心とした産業はその共存関係を維持させ、また直接的な王の統治を受けなかったことは、国民自身による政治意識を高め、新たな政治思想としての啓蒙思想はそのまま制度へと直結しました。もちろんアメリカはフランスと違い様々な幸運、王政という既存の権力がなく、またイギリスの支配も海の向こう側からであり、敵国に囲まれてはおらず、国民を自給するための広大な土地があった、という幸運に恵まれた事は言うまでもありませんでしたが、何よりもこの国家が強大で、それを持続し続けられる理由は国民が常に変化を受け入れる意識を基盤として持っているからです。彼らは自分にある機会と力を知っており、しかもそれを行使するための自制心も持っていた、トグヴィルの「アメリカのデモクラシー」を読んで、私は当時のアメリカに対してそのように感じ、そして現在の日本に必要なのは、まさしくそれではないかと思います。
ただ、このような意識が日本において今一つ慎重になるのは、老荘、儒教を主とする日本人の精神の根底にある道徳的思惟がそれを拒んでいると、私は考えます。これらの道徳的思惟は、個人の自制心を養うためには最良のものである事は言うに及びませんが、しかし主権者としての政治的行動をも自制させてしまう教えでもあります。「ただあるがままに任せて何もしない」、「上位の人間の言うことを素直に聞く」、これらの考えは民主主義という政治制度を経験した上で整えられた思想ではなく、あくまでも主従関係を下にした専制政治の体験による思想であり、その秩序と世界の維持に主眼をおいたものです。老荘思想はこのような秩序などをも越えた考え方と捕らえることも出来、また儒学も普遍的な道徳思想としては現在にも通じるものはありますが、政治思想としては、その批判にあるように前近代的なものかもしれません。
政治思想は、他の何ものとも同じように、歴史的な経験を積めば積むほど、それが確固となり、少しづつ染み入るように、精神に定着します。その種が芽生えることで思想的な転回を見せる事はありますが、しかし既成の思想枠を超える事はなかなか難しい、これは江戸時代の様々な思想家、学者が、誰も末期になるまで幕藩体制を、武士を廃そうと思わなかったことからも考えさせられることです。たった一つの事件がそれらを打ち砕き世の中は変化しますが、しかしそれまでその思想をよりどころにしていた精神に新たな思想を植え込む事は難しく時間もかかります。日本人の精神にもかつての思想が現在にも残り、それが政治的行動を拒んでいる事は否定できず、私たちはそれをも越えねばならない、そしてそれは知る事、話すこと、論じることなど、双方向の情報伝達によって達成されると思うのです。
日本国民がその思想に従ってこのまま何もしない、それも選択の1つなのですが、物事が常に動いている以上、何も選択しない訳にはいきませんし、私たちが主権者なのなら、何もしないという事は、主権者としてそれを選んでいるとも言えるので、その責任は私たち自身に課せられます。そして行動の自粛は、その可能性や機会を狭め、それが社会を停滞の方向へと向かわせるのなら、いつまでたっても成長の兆しは見えず、私たちが過ぎゆくままそれを傍観しているうちは、やった者勝ち、言った者勝ちという行動者の一方的な勝利が続くでしょう。それは人をいじめる者が常に見過ごしにされ、また政治に金銭の力が影響しつづけている事を見過ごしにしているようなものであり、悪的行動をも許容してしまうあきらめと同じなのです。それ故に私は、この3つ目の、変化に対して何もせず、時の過ぎゆくままにしておく事を何よりも恐れます。
以上が私がこの稿を書き記し、なぜ憲法を変えねばならないのかという動機の核心でもある訳ですが、しかし文才未熟にして、また学歴、学識もあるわけではないので、心余りて言葉足らず、といった文章には退屈しがちかも知れず、また所々で重複した文章も見られる事でしょう。ただ、文章を書き人に伝えることも、そして政治について話すことも、それを専門にしている人のみが行えるという特権がないのなら、私はただ、自分にある機会を利用するだけあり、もちろん、私は書くことだけではなく、出来たら実際的な行動を取る予定でいます。しかし一般的な生活を行ないながら、正道によってその力を得るためには、まずは表現によって同意を得ねばならず、それがゆえにこういった形で発表する事にしました。難解かもしれませんが、どうぞ最後までお読みいただくよう、よろしくお願いします。

2012年1月4日水曜日

自由討論会について
 新歩会の規模が少し大きくなったら、街頭活動などで関心を持ってくれたり、参加してくれる人が20人ぐらいになったら、自由討論会活動を始めたいと思っています。


 講演会やシンポジウムに参加した時、私はよく質問したりするのですが、時間の都合などによってカットされたり、一方的な、浅い回答で終わったりします。こうしたことが理解出来なくはないのですが、一方で最近どのような立場の会に行っても、講演者は聴衆に対し、高い意識を求めたり、哲学を持って欲しいなどといいますが、、対話に対してあまり積極的でない彼らの姿を見ると、本当に個人が意識を高め、哲学を持ってもらいたいのかと感じます。「むしろ、困るのでは」、こう思うのは深読みしすぎでしょうか。

 日本において、講演会やシンポジウムは盛んにおこなわれていますが、ここにおける情報の流れは、上から下へというような一方的なものであり、双方向なものではありません。私はこうした現状を考え、そして本当に国民が意識を高めるにはどうすればよいのか考えた時、聴衆による討論会を行うべきではないかと考えました。
 私たちは各個人、その環境も、すごした時も異なる以上、物事に対する見方は1つではありませんし、もちろん正解もありません。しかし国民が主権者として政治に参加出来る民主主義では、この認識を一人一人が持つことは大切なことであり、誰もが違う立場にあり、異なる意志を持つことを尊重することは大切なことなのです。
そしてそれを知ることで、どうすれば国民全体、つまりその集まりである国家が良い方向へ進めるかを考えることが出来るのであり、自己主張が必ずしも良い政治主張であるとは限りません。偏狭さは、国家の可能性を狭めるものなのです。
 それゆえに討論会によって各人の意見を交換し、またそれを聞くことが大切なのですが、現在の日本にはそういった会が少ないため、ここ新歩会でおこないたいと思っています。

 また、討論会というといかにも勝ち負けが存在する、良く相手を「論破」する事を誇りにする人間がいますが、この自由討論会はそういったスタンスではありません。
 もちろん討論過程において、優劣を感じることはあるでしょうが、それはその時の論者のレトリックや調子などに左右される要素がある以上、問題の本質を明確に表しているとは限りません。私たちが討論会をおこなわなければならない理由は、多くの物事を知り、自分なりの答えを出すことではないでしょうか。もちろんそれが正しいとは限らないですが、自分が出した答えには、それなりの「覚悟」がついて回ります。人の答えを聞いてそれに従っていても、それは浮ついたものに過ぎず、流されるだけです。現在の国民の姿勢、メディアに流されやすいのは、自分なりの答えではなく、与えられた答えにうなずいているだけなので覚悟が無いからです。
 多くの考えを聞き、答えを出すことは非常に面倒くさいことかもしれませんが、現在の日本の問題の解決は、制度的転換よりも、私たち自身が政治的意識を持つことの方が比重が大きいと思います。例え憲法を変えたとしても、それが上から与えられたものであり、私たちの意識が変わらなければ、日本は何もかわらず、このまま沈みゆくだけです。こうならないためにも、私たちは討論会などをもっと積極的におこなうべきであり、そしてそれを聞く姿勢、もちろん論者としての姿勢も少し改めなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。

2012年1月3日火曜日


続き
しかし変化とは言うほど簡単なものではなく、私はこれからの日本の変化に対して、3つの恐れを感じています。1つは変化が混乱へと繋がる事であり、このような変化は自分の環境などを変えるための機会であると、これを利用し、乗じる人間は必ず現れます。良き国家を創るのと、自分の環境が良くなる事とは、全く別の事ですが、変化が人間の欲求を刺激することは間違いのないことであり、またそれが変化の動機となることも確かなことです。良き国家を創れば誰もが良き環境に属する事が出来ると私は思っていますが、しかしそれが物質的なものである事は保障できない以上、物を持つ事によって満足感を得られている人にとって見れば、また物を獲得する事によって変化を感じる人にとっては、私の論はつまらなく思え、より直接的な混乱を望むでしょう。私は、そういった人間の機会を得させるために変化を求めているのではない事を、先に記しておきます。政治的変化には、欲求に迎合した大衆のダイナミズムを必要としますが、わたしは出来るだけ民主主義制度にのっとって、日常生活や労働環境を侵す事なく、また血や破壊などの闘争を求める事なく、あくまでも言論と、他者との繋がりと、そして投票によって日本が変わる事を望み、それが最良であると信じ、この稿を書いています。
2つ目の恐れは、現在の日本が民主主義制度に飽きる、または自分たちの力に自信をなくし、不安を抱き、このままでは何も変わらないと性急に判断し、その結果、一人の人間、または党に強権を持たせ、この変化を彼らの与える力に依存しようとすることである。都道府県知事や市町村長の選出、またスポーツ選手などの著名人の政界進出に、これらの意志は如実に表れており、この危惧が明確化するのも時間の問題です。昨今の政権交替などをみるように、一朝にして巨大な権力が転がり落ちることは、これからの選挙でも見られそうですが、今はその力を大きく振りかざしはしていませんが、これから先、このような政治的変化が続けば、間違いなく機会を捕らえたものは大胆に行動をとるでしょう。ただ、本来の民主主義の考え方によるならば、国民の選択によって一つの大きな力が誕生したのなら、それは正当な力として行使されるべきなのです。しかしその結果がどうなるのか、今までの歴史を見れば、よい想像は出来ませんし、だからこそ政権政党もその力に躊躇していると考えられます。しかしここに一人の、有能と思える人物が出てきたら、私たちは彼をどう迎えるでしょうか。
私たち自身の選択する力は不安定なものであると思い、才能があるように見えるものを代表者として、熱狂的に迎え入れるかもしれません。しかし彼がその才能によって、真実の彼の姿や欲求を隠していたとしてら、どうなるでしょうか。力を手に入れた彼は、簡単に私たちを拘束し、そして自らの望む方向へ動かすでしょう。そしてもしその方向が、一時的にも正しかったのならば、民主主義に不審を抱く私たちはそれを放り出し、彼の力による時代の持続を望むのではないでしょうか。しかしそれはほんの一瞬にすぎないことは、ナポレオン、アドルフ・ヒトラー、毛沢東やポルポトの時代をしればよくわかるはずですし、それが本当に国民を幸福へと導いてきたのか、疑問です。
国家を建て直すには確かに強権的な力には魅力を感じますが、しかし私たちは民主主義という最良の制度を手にした以上、それを壊してまでその力を手にする必要はないと思います。また、私たちが良き人間になりさえすれば、何か一つの力に頼る事もなく、私たちの持つ力のつながりによって、より大きな力を求めることはできるでしょうし、それは私たちの他者に対する受容性によって決まるとするならば、それほど難しいことではないはずです。
そして三つ目の恐れは、このまま国民も為政者も何もせず、ただ時の流れゆくまま、変化に対してすくみ、何もしない事です。このような形で国家が歴史的変化を体験した例として、近年ではソ連の崩壊から続いたロシアの苦難があります。ソ連の崩壊は、成立したときほどの大きな革命はなく、多くの血が流される事はありませんでしたが、しかしこの解体による転換に国民の積極的な姿はなかったと私は思います。もちろん市民的な行動がなかった訳ではありませんが、それはレーニン像を壊すような象徴的なものに過ぎず、新たな政党の成立や憲法改正運動が市民から出され、それが注視されたという記憶はありません。ソ連の解体は、モスクワや現在のロシアである地域よりも、東欧やバルト三国での民衆運動が引きがねとなったソ連の影響力の低下と、そしてゴルバチョフという一人の政治家が演出家となり、混乱のない形で幕引きしたと解していますが、そのような与えられた変化の結果は、力に依存し続けた国民の決して短くない混乱に見ることができます。国力の低下はそのまま経済の低迷へと、そしてそれは秩序の崩壊へと繋がります。歴史的に見ても、革命後の混乱は強力な権力者によって収束される事が多いように、ロシアもまたプーチンという権力者を登場させました。彼の治政はその強権による混乱の収束というイメージによって、まさしく専制君主や独裁者を彷彿とさせますが、プーチンが今後、彼らと同じような行動をとるかどうかはわかりません。ただ、このような強権手法は所々で堪え難い不公平を生み、それは国民の不満を蓄積させるでしょうし、その権力を長く続けようとすれば、それをかなえるための強力な力を国民に与えるに与える事は言うまでもありません。
私たちは自分の先のこともわからないのに、歴史的変化など予測できない以上、それに即座に対処することなど、それに対して確実な回答を出すことなど不可能であると言えるかもしれません。過去の世界をみても、そういった例は見つけられません。例えばフランス革命はルソーなどの啓蒙思想家によって下地が出来、シエイエスなどによって準備されましたが、しかし力の主役たる民衆は、自らの変化に対して理想以上の予測はできなかったでしょうし、その理想も個人的な欲求の実現の範囲を超えることなかったと思います。

2012年1月1日日曜日

 3月におこなう街頭活動までの間、主催者である山田忠弘の考えを公開してゆきます。コメントなどあればお読みください。




私は相模原市在住の、一介の給食センター職員です。特に目立った学歴もなければ、学識がある訳でもありません。そしてこのような著述を行うに至った動機である、「より良く、次代へ繋げることの出来る国家造り」を望むようになり、政治について、憲法について考え始めたのも、20代の後半にはいってからであり、それまでは選挙に行くこともおろそかにし、また公共のために何か行うことなど考えもしなかった、いたって普通のベビーブーム世代の若者でした。
私たちの世代にとって政治とは、つい最近までは全く関心の無いことであったと思います。もし政治に関心のある者がいれば、それは自己の立身出世のため、もしくは特定の政治思想団体員か宗教団体の信者であると感じる人が多いのではないでしょうか。私自身、自分が思索の道にはいるまではそのように思い、そのような人間の笑顔を警戒すらしていました。しかしそんな私が政治的な関心を抱き、このような著述をおこなうように至ったのは、一つには小泉内閣の郵政選挙における圧倒的な勝利にみた選択の力と、子供の誕生という2つの出来事です。郵政選挙は、それまで日本において余り感じられなかった、民主主義における私たち自身の力の存在を明確に感じさせ、子供の誕生は自分たちの現在の状況だけでなく、将来における日本も私たち国民の手で、責任持って作らなければならないという自覚を芽生えさせました。いったん考え出すと、それは枯れ野に火がつくように広がり、なかなか消えぬものです。ただ、現在の日本において政治的行動をとるという事を、人に勘違いされないように行うという事は難しく、またそれを跳ね返すぐらいの勇気は、妻子を食べさせねばならないことを考えると、なかなか持てないものです。現在、政治などに疑問を持つ多くの人たちも、同じような気持ちを抱く人が多いのではないでしょうか。
沈思する事何年か、その間様々な出来事が私の中にありましたが、ようやく落ち着ける環境になった時、1つの行動を起しました。行動というものは人によって色々な選択があり、どれが正しいのか答えはありませんが、私としては民主主義の枠にそった正攻法、つまりは言論によって、また現在の日本を変えるためには憲法を変えなければならないという結論は出ていたため、1年半をかけて私案憲法とその集解を書き記し、それを居住区の市議会(相模原ではない)、その他政党や新聞、雑誌社、また学者の方、果てや図書館や博物館にまで送りましたが、まあそういうところには、このような奇矯な論文は幾編も送られてくるのか、ほとんど相手にされませんでした。ただ市議会に対しては、陳情という形で、市議の皆様に憲法を変える意志の是非と、自由民権運動の先駆けの地として、憲法を変えるため、国民の政治参加のためのルール作りをおこない、国政に意見して欲しいという旨を送り、付帯として私案憲法とその集解をお配りして、総務委員会で審議するという所まで行きましたが、否決と相成りました。このとき多くの市議の皆様は健全な態度で私の陳情を受け入れてくれましたが、一部の市議が大声で、「国民は選挙にさえ行けばいいんだ」と叫んでいたのは、今でも耳に残ります。こういった意見は私の親族にも、また周囲にも、一定の年齢以上の人ならばだれしも持つ意見であり、現在の日本を変えるにはここが急所であると、改めて思索の種が出来たので、意義深い経験でしたが、そう言った様々なことを基に「なぜ憲法を変えねばならないのか」という事を書きはじめるとなかなか大変であり、現在に至るまで二年半の時が経っています。三度にわたって書き直し、この稿もまた昨年の終わりより書き始めたものですが、もうそろそろ何がしかの踏ん切りをつけて発表すべきと思い、今回の挙に至ります。
日本の現状に満足せず、より良い方向に変えて行きたい、そう思っている人はおそらく無数にいるはずですし、実際に行動している人間も多くいます。しかし私が思うに、どうもそのような行動者たちと国民の間には大きな隔たりがあり、国民は政治に対して、選挙以外での行動ににためらいが見えがちです。それはなぜなのか、その私見はこの後の本稿を読んで頂きたいのですが、ただその核心は、行動を志す者とそれを傍観する者の差には、自己の周囲に対する思いと考え、そして勇気の差ではないのかと思っています。こんなことを書けば、いかにも漫画チックであり、馬鹿げていると思うでしょうが、しかし私たちがおこなってきた変化の歴史を見れば、このような単純な力こそが最も動機にふさわしく、それは自然界における共存本能にも結びつく、一つの真理ではないかと思います。
しかしながら、政治的な行動者には、国家や他者のためという隠れみのの裏に、自己の欲求のみ実現を隠し持っている者がいることも確かです。現在の政治家の言論には、それが明確に表れており、それゆえに彼らの政治思想には芯がなく、たやすく数や金の力に流されがちです。それが日本の政治的な混乱と停滞の原因であると感じれば、その人間は政治的行動をとる者に、警戒心を抱き、また小馬鹿にします。
ただ、考えてみてください。政治的な行動を信ぜずして、私たちは将来のために、何が出来るのでしょうか。私たちは共存によって自己を存続させています。そしてその共存集団の認識できる大きなものが国家なのですが、その主権者が私たち自身なのならば、かつての主権者である王や貴族同様に、私たちが政治的行動と選択をおこなわねばなりません。もちろん、私たちはポリティカル・アニマルといわれているように、通常の生活においても政治的行動をとりますが、国家の主権者たる以上、公のため、つまりは他者と自己は国家という共存社会の中で互いに繋がっている事を意識することで、政治的行動をとらねばなりません。そしてそれこそが主権者の役割であり義務なはずです。民主主義国家としては、いまだ発展途上に有る日本にとってこのことは見過ごしにされ、忘れ去られていますが、このような変革期こそ、まさに国家としての成長階段を上らねばならず、そしてそれは為政者だけでなく、彼らを選ぶことのできる、主権者たる私たち自身に課せられた使命です。それゆえに私はこの稿を書き、公論を喚起して日本に変化を促したいとおもっています。
今後の活動予定
 3月ごろより、私の住む相模原市南区において街頭活動を行う予定です。
 道路使用許可を申請するのに、1ヶ所2千円がかかり、私の小遣いが1万円のため多くは出来ませんが(笑)、機会があれば随時おこないます。その模様は動画でアップする予定です。
 その他に、何か良いお知恵のある方は、ご連絡下さい。
 これは、2011年、夏、国政議員に送った請願書です。新歩会の目的に添っているため、公開します。


 日本国憲法の改正手続に関する法律 (国民投票法)の改正に関する請願書

  請願事項

1・国民投票によって憲法の改正案などの是非を国民に問う前に、国民が憲法の改正
  を望むか否か、また新たな自主憲法を制定するべきか否か、国民投票によって確
  認してもらいたい事。

2・憲法の改正、もしくは新たな憲法の制定に対する国民投票は、その公示より投票
  までの期間を定め、その間に国民より、できるだけ多くの意見、起草案を募集し、
  国民がその持つ機会を活用する事を保障する事。また、これらの国民の意見、意
  志は「日本国憲法の改正手続に関する法律」に定められた「協議会」など
  の機関によってまとめられ、適宜に国民に知らせ、またその結果を国会の
  場で審議し、それによって憲法改正案、もしくは新たな憲法案を起草して
  もらいたい事。

3・憲法改正、また新たな憲法の選択肢は、総合的な一括案ではなく、憲法の
  各章、もしくはテーマごとに、また各章の改正点、もしくは重要な条項は
  分別し、それぞれ複数の選択肢を設ける事で、より国民の選択の機会を増
  やしてもらいたい事。
  また、その為に、国民投票は一回のみでおこなうのではなく、複数に分け
  て、国民の十分な論議と考えをまとめる機会を与えてもらいたい事。

4・憲法という、日本国の最高法規を選択する国民投票であるため、国民の投
  票の義務化、もしくは80パーセント以上の最低投票率を定めてもらいた
  い事。

5・憲法が日本国の最高法規であり、その選択の機会は主権者である日本国
  民一人一人にあるならば、その案や論議、意志表現の自由を最大限に活か
  せるよう、憲法論議のルールを明確にしてもらいたい事。


請願事項、要旨

1・国民投票によって憲法の改正案などの是非を国民に問う前に、国民が憲法の改正を望むか否か、また新たな自主憲法を制定するべきか否か、国民投票によって確認してもらいたい事。

 現在の日本国憲法の改正手続に関する法律は、国会で審議された起草案の賛否を国民に求めるだけであり、その前提となる国民の憲法改正の意志、また新たな憲法の制定に対する意志などを、省略したものとなっています。しかし、始めにこの意志の是非を問わなければ、国民が同じテーブルに座ることは出来ません。なぜならば、短兵急に国会において改正案を提示しそれを国民に問えば、護憲的指向を持つ人間には
、その選択自体が不満となり、どんなに優れた改正案を提示しても彼らの不満は解消できず、また一方で、それは新しい憲法を求める声を無視するものとなり、それも不満へと転化し、その感情が両者を同じテーブルにつかせようとしません。
 このような不満を解消し、憲法論議を無用な混乱にさらさないためにも、まずは国民の意志を問う事によって、憲法に対するこれからのアプローチを一本化する事が必要であると思います。憲法が国家の最高法規である以上、それは国民の総意によって変えられるべきであり、国民の意志が、日本国憲法の改正なのか、現状のままなのか、また新たな憲法を必要としているのか、多数決によってその意志を問い、国民の意志が改憲、もしくは新たな憲法の制定を望むのであれば、そこに大義が出来、憲法論議もスムーズに、そして活発におこなわれるものと思います。
 憲法の改正、また新たな憲法の制定というのは、時代を変える事に等しく、それは何らかの思想や考えの下で一方的に行われるのではなく、日本が民主主義国家であるならば、国民が等しく同じテーブルにつく事によって、より良い結果が望めるのではないでしょうか。日本の憲法に新たな息吹を吹き込むのは、全ての国民であらねばならず、そこに無用の摩擦を生じさせないためにも、憲法論議の手続きはきめ細かくおこなうべきであり、そのためには国民への意志確認が必要であると思います。
 

2・憲法の改正、もしくは新たな憲法の制定に対する国民投票は、その公示より投票までの期間を定め、その間に国民より、できるだけ多くの意見、起草案を募集し、国民がその持つ機会を活用する事を保障する事。また、これらの国民の意見、意志は「日本国憲法の改正手続に関する法律」に定められた「協議会」などの機関によってまとめられ、適宜に国民に知らせ、またその結果を国会の場で審議し、それによって憲法改正案、もしくは新たな憲法案を起草してもらいたい事。


 日本において政治不信は、深刻な問題となっています。政治家と国民が職業的な階層として分化し、その距離が開いた結果、国民は政治家が様々な実情を知らないのではないかと疑いを持ち、またそのような政治家が独善的に事を進めているという不安が、より一層その不信を増幅させている、この事は世論調査や選挙における投票率から見ても明らかだと思います。日本国憲法の改正論議も、一部の議員がきりもみ的に事を推し進めようとしている印象にある以上、それは政治不信を抱く国民にとってみれば権力の強行と映り、それがどんなに良質のものであっても、その同意を得られる事は非常に難しく、また多くの不満も生まれます。
 しかし憲法の改正を含めた論議は、現在の停滞、下降中の日本において、新たな可能性を切り開く一大方法でもあり、この論議の火を絶やす事があってはなりません。それがゆえに、私は「日本国憲法の改正手続に関する法律」の改正をおこなう事で、日本国民がより一層憲法論議に関心を持つようにすべきであり、自分たちが主権者として、「決定する機会」を持っている事を意識させるべきだと思います。
 日本国憲法の第96条を見るに、国会が発議し、国民に提案する事は、あたかもその改正には議員しか関与できない、ととる事が出来ますが、しかし日本国憲法における民主主義制度は、請願権などに代表されるように、国民の直接的な政治参加が認められており、さらに国民は主権者である以上、国家の最高法規の改正、または新たな制定に対して、その意見を存分に伝える事は当然の権利であるはずです。
 しかし現在の「日本国憲法の改正手続に関する法律」では、その点の記述が不十分なためか、国会のみにで審議された選択肢を選ぶだけの制度と解されており、そこに多くの疑いが生じています。それを払拭し、憲法の改正が一部の議員、もしくは政党が主導しておこなうものではない事、またその選択肢に国民の意見を反映させる事を確約し、国民の持つ疑いを取り除くためにも、現在の法制度を改正する必要があるのではないでしょうか。
 日本における憲法論議は、どうしても9条を中心におこなわれています。私は自衛権の明確化のため、また認められるべきものを認めるために、その改正は必要であると考えていますが、しかしその改正一事をとってみても、私の意見は自衛権の確立には賛成ですが、核や大量破壊兵器の保有や行使は望んでおらず、集団的自衛権には懐疑的です。多くの国民も皆それぞれ異なる意見がある以上、重要な事柄の選択肢には、その意志を確実に反映させなければなりません。それは現在の9条の条文をそのまま、もしくはその理念を残しておきたい人達にも、それを選択肢とする機会を認めるべきであり、対立する選択肢があるからこそ、より広く、発展的な論議が期待できるのではないでしょうか。そしてこのような論議を国民が認識する事で、国民の中に様々な決定的意識が醸成され、それが良い結果を生み出す力になると思います。

 では、このような国民の意見をどのように取りまとめればよいのか。
 国民の意見も種種あり、その玉石は混交し、また重複する意見も多いでしょう。そしてそれら全てを選択肢としてあげる事は不可能であるため、それゆえに審査機関は必要であると思います。
 日本国憲法の改正手続に関する法律には、国民の意見を知るための機関として「協議会」の設置が記してありますが、私としては、その協議会は意見を聞き、それを公表するだけではなく、その意見を取りまとめ、最終的な選択肢を作る国会での論議の下地を作成するところにすべきであると思います。
 人間は皆、その環境や経験から立ち位置が違えば、その持つ信念や視点が異なるものであります。それゆえに色々な意見が出てくる事は当然の事であり、そのどれが有益であるか、最終的には国民に委託された立法府である国会においておこなうべきですが、その前提となる国民の意見は、なるべく多く徴集すべきです。この「協議会」を通じて、国民個人、また政治家もその属する党や組織にとらわれず、自由に意見を提出できる環境を作り、より発展的な論議をおこなうためにも、「日本国憲法の改正手続に関する法律」における「協議会」の制度の拡充、そしてその明確化は必須であると思います。


3・憲法改正、また新たな憲法の選択肢は、総合的な一括案ではなく、憲法の各章、もしくはテーマごとに、また各章の改正点、もしくは重要な条項は分別し、それぞれ複数の選択肢を設ける事で、より国民の選択の機会を増やしてもらいたい事。
 また、その為に、国民投票は一回のみでおこなうのではなく、複数に分けて、国民の十分な論議と考えをまとめる機会を与えて欲しい事。

 憲法が国家の最高法規であるならば、国民はその憲法の定めた基準を逸脱する事は出来ず、またそれは多くの国民の行動の制限と開放の基準となるならば、それは国民個人の集合である国家を包み込む範囲となります。
 憲法がそのような重要性を持ち、また範囲の広大であるならば、国民の総意によって憲法を改正、制定するには、多少の月日をかけてでも綿密におこなうべきです。
 日本を含め、どの国家の憲法史を見ても、それは少数の代表者が決定した1つの選択肢を承認するものであり、多くの国民の関与によって創り上げたものはいまだありません。それゆえに、このような試みが国際社会の中では日本が最初になるならば、今後の民主主義国家のあり方に一石を投じるものになる事は間違いなく、その成功は確実な栄誉となる事に間違いはありません。
 
 憲法の改正、ないしは新たな憲法の制定の全ての作業に国民が関わる事は、その起草から決定までの作業効率性としては、非常に悪いものかもしれません。  しかし多くの国民が真剣に憲法を考える事で、それはより良い結果を生み、また国民の政治意識が良質なものへと喚起される事で、そして国民の力で憲法を定められたという自信は、将来における日本の発展の促進剤になると思います。付け加えれば、憲法に対して関与が深まれば深まるほど、その遵法性は期待できる事も上げなければなりません。
 これらの事を実現するために、私は憲法の改正、また新憲法の制定を、1つの起草案によっておこなうのではなく、憲法の各章、またそのテーマ、そして重要な条項ごとに複数の選択肢を用意するのが、最もよい方法論であると思います。
 1つの総合的な選択肢では、例えば国民の権利の部分は承認できるが、安全保障の部分は承認できないなど、範囲が広範なため論点を絞る事は不可能であり、また憲法の存在意義を考えると、その1つ1つの論点を見過ごしにしても、党派間の取引材料とする事も許されません。憲法の改正、ないしは新たな憲法の制定が、将来の国民に対して遺憾なき効力を発揮するならば、それを決定する私たちは重い責任を負っていると自覚せねばなりません。それを考えると、包括的な一つの案を選択する事は、効率的な方法かもしれませんが、そこに綿密な意思決定をおこなう事は不可能である以上、断然承認できないものであります。
 また包括的な一案に対する承認となれば、それは一部の起草者に多くの決定権が寄与され、国民の憲法に対する意志、選択は小さなものになり、結果として多大な不満が残る事は間違いありません。このような不満を放置しておく事は簡単ですが、しかしそれが燻り続けていれば、何かの切っ掛けによって引火し、それは国家に対して大きく悪影響を及ぼします。憲法の範囲が、そのまま国家の範囲となるならば、そこに不満を残す事はできるだけ小さい方がよく、そのためにも、各章、またテーマ別に選択する方法が、各論点ごとに十分な理解を得た上での決定となるため、最もよき決定が得られる事になると思います。
 しかし、ただいたずらに時を費やすのも考えものであり、国民から意見を徴集し、国会においてその選択肢を決定するのに一年。それから国民にその選択肢から投票によって決定してもらう作業に一年で十分であり、投票の機会は2から3ヶ月に一度おこなうという形にすれば、十分な論議が期待でき、またその論議が弛緩せずに良質の憲法が誕生すると、私は信じます。


4・憲法という、日本国の最高法規を選択する国民投票であるため、国民の 投票の義務化、もしくは80パーセント以上の最低投票率を定めてもらいたい事。

 憲法は、一国の最高法規です。最高法規というのはその下に、その国の全ての法規を従える事ができる権限を持ち、そして国民はその憲法の範囲を越える事は原則的に許されません。それゆえに憲法を改正する、また新たな憲法を制定するという事は、全ての国民に関わる一大事件であり、民主主義国家日本において、国民が主権者であるならば、その関与は義務であると私は思います。
 現在、選挙の投票率などを見るに、政治に対して無関心な国民は多いようですが、しかしこの無関心層を考えると2通りあり、1つは全く無関心な者、つまり自己の安定が保障される限り、全く政治参加に関心が無い者であり、もう一つは、政治には多いに関心があるが、現在の政党、確立した組織の党派制に疑問、もしくは嫌気を抱き、選挙に参加しない者がいると思われます。
 本来、民主主義において、国民は自身の代表者を選出し、政治の専業者とする事は義務であり、そのような意識を持った国民こそが、様々な形で国家の原動力となり、繁栄を導きます。しかし現在の政治に対する無関心は、そのまま政治の乱れとなり、政治、経済、モラルなどにおいて、様々な悪影響を及ぼし、日本は下降しつつあります。国民の政治参加には確かにその自由が保障されるべきですが、しかしその結果が国家にとって悪しきものとなるならば、それを防ぎ、正す事が法の効用ではないでしょうか。

 私は、憲法の改正、及び新たな憲法の制定論議というものが、改めて国民の政治意識を目覚めさせ、それによって新たな日本の可能性が開けると信じていますが、今まで政治に対して無関心だった者が、すぐにそれに目覚めるはずもない事は誰にでも想像でき、それがゆえにこの投票を義務とする事で、多少は強引ながらもその関心を振り向けさせられれば、日本の可能性はさらに広がると思っています。
 さらに憲法が国家の最高法規である以上、それに関わる事の出来なかった者は、その動機はともかくとして、それは根強い不満者になる可能性もあり、そうした不満者が新たに生まれ変わった日本を、悪しき方向へと向かわせる要因になる事も指摘せねばなりません。
 それゆえに、私は憲法の改正、また新たな憲法の制定は、国民の総意であらねばならず、行使の分別がつき、また生活より政治的意識が理解できるようになる現在の有権者の年齢から、その投票を義務とし、また自発的な権利の放棄を認めざるを得ないのなら、最低投票率を定めるべきであると思います。

 昨今の政党政治において、その党利、党派性を維持するために、全ての国民が選挙に関心を持つ事を望まない、特に宗教系の政党はその信者の数を活かすためにもそれを望むでしょうが、そういったものは許されるべき事ではありません。民主主義国家では、資格ある国民が有権者として自らの代表者を選ぶ事は義務であり、本来、これに反する者は共存社会である国家に対して、その公益だけを受け取り、その国家に対して貢献しない罪を負わねばなりません。現在の日本は、憲法も民主主義も敗戦という事件の結果、占領国から与えられたものであるため、その本質的な意味を認識せず、いまだに前近代的な力の継続による安定にたより、その変化を極度に恐れ、結果としてバブル経済の崩壊よりこの20年間、停滞状況が続いているといっても過言ではありません。
 こうした状況を打破し、再び日本の隆盛を望むのならば、国民が変化に参加する事を恐れず、その変化こそが自己の本当の安定となる事を信じ、それがゆえに、私はこの投票を義務とする、もしくは最低投票率を設け、それに参加する意識を芽生えさせなければならないと思います。


5・憲法が日本国の最高法規であり、その選択の機会は主権者である日本国民一人一人にあるならば、その案や論議、意志表現の自由を最大限に活かせるよう、憲法論議のルールを明確にしてもらいたい事。

 日本において政治が停滞している要因の一つとして、国民の日常における政治的論議の少なさが上げられます。
 私たちは様々な政治的情報を、テレビや新聞、本やインターネットで手に入れますが、それらの情報を個人の中で咀嚼した結果を、周囲に漏らす事はなかなかありません。情報に対する認識が人によって異なるのならば、それを比較、検討する事によって、より良い判断材料となります。正常な民主主義国家ならば、国民が大いに政治的意志を表明し、そしてそれを話し合いや討論などによって昇華することで、良い国家を築くための材料となるのですが、現在の日本において、そういった政治的意志表示の積極性のなさが、ただ、与えられた情報をそのまま鵜呑みにし、それに流され、国民の政治的意識は少しも向上しません。こうした結果を考えると、それは日本の民主主義というものが、敗戦によって米国から与えられたものであり、それを自得したものでない事を上げる事が出来、それは日本国憲法の制定過程に如実に表れています。そしてそれは私たち自身の憲法に対する認識、自由や平等、国家や公共の福祉というものが、あまりにも私的に解釈されすぎ、その自由の基準が乱れている事からも推察できる事です。
 私はこのような日本の現状を変えるためにこそ、憲法の改正、もしくは新しい憲法の制定、そしてその論議が必要であり、これらの行動こそが国民の政治的意識を目覚めさせるものだと思っています。

 政治とはいかなるものか。私はそれを自己と他者、個人と集団が、そこに共存するための関係性であると考えます。人間は一人では成長も生存も行えず、その結果他者との共存の道をとらねばなりませんが、しかしどうしても自己の欲求を優先させようとする。しかしそれが行きすぎると、その共存関係は壊れてしまう。それを防ぐために、私たちは政治的な関係を結びます。
 それゆえに政治的行為の本質は調整にあり、そしてこの調整をおこなうために必要なのが、自己の立場を表明し、また他者の立場を理解する、このような意志の疎通、交換が必要となります。
 かつての専制時代、その意志の疎通は一部の特権者、つまり政治にかかわりを持つ事のできる資格者のみがおこなう事のできるものでしたが、現在は国民が主権者であり、その意志の疎通は、憲法の範囲内である限り、誰にも妨げられません。
 しかし現実はどうでしょうか。企業や公共の場などにおいて、その敷地内で、またその休み時間に、堂々と政治を論じる事などできるのでしょうか。学校において、学生がその主張を表明する事が許されているのでしょうか。何らかの党派が主催する集会に行き、初めてその政治的な意見に触れる事は出来ますが、そこにおいて一市民が発言する事、もしくはその党派とは異なる論をもって質疑した場合、それは受け入れられるでしょうか。
 このような民主主義下における政治の自粛的行動は、いまだに日本人が過去のくびきから抜け出す事が出来ず、また60年代における数々の政治闘争が強く印象に残るため、それを上から強いているような感じがしてなりません。しかしそれが結果として日本の政治的停滞に現れているのならば、それを変える事が政治家の使命なのではないでしょうか。

 日本における最高法規である憲法の改正、そして新たな憲法の制定は、少なからず国家そのものの形を変える事になる以上、日本国憲法に定められた国民主権を厳守し、その意志の疎通の自由は保障しなければなりません。そして現実的にはその法令が認知されていても、実情としてそこにいまだ自粛の影があり、個人の政治的な発言を封じる動きがあるならば、それは何らかのルールによって改善されるべき事と思います。
 特にこの点において強調されなければならない事は、まず、いかなる党派、団体、組織、宗教などにおいて、個人が発する政治的意見を危険なもの、異質のものと見なして疎外してはならない事。また、政治的論議において、いかなる強制、または圧力、暴力は許されてはならないこと。そして政治的意見の持ち主を追跡し、その私生活においてまで事細かく調べ上げ、それを中傷、または政治的意志の変更の種にしてはならない事などです。
 日本国憲法の改正、また新たな憲法の制定は、その事の重要性から見ても、数々の困難が待ち受けているのは想像に難くないです。しかしその困難を乗り越えるために必要なのは、組織などによって数をまとめ上げ、効率的に事を進めるよりも、あくまでも民主主義国家としての正道を歩み、個人の意見、意志を最大限に尊重する事で、多くの可能性を引き出す事ではないでしょうか。そしてその結果、多数決の選択により、個人が集としてまとめ上げられ、それを決定する、それでよいと思います。
 様々な議員の意志、動向を見ても、それは1つの党派として括られるほど簡単なものではありません。しかし現在は、力による安定とその効率化を計るため、無理やり党としてまとめ上げ、政治家個人の意志を圧殺する風潮があります。派閥や党議拘束、また比例代表の名簿などは、その典型的な方法ともいえ、中でも党議拘束は、国民から信任された議員の行動を封じる悪しき慣例となりつつあります。こういった慣例から憲法論議を守り、政治家が国民の代表者としてその意志を存分に表明する、また国民も、その政治的指向が経済活動と切り離された上で表明されるならば、それを十分に尊重しなければならずその下地は作るべきだと思います

 憲法論議は国民の総意でおこなわれるべきであり、その始まりから終わりまで、国民がかかわる事で、新たな日本の可能性が生まれます。そして国民はその機会と権利を既に有しています。しかしながら現行の「日本国憲法の改正手続に関する法律」では、不十分な点も多く、その結果、国民は多くの不信を抱いています。それが民主主義国家日本の下降を促進させるものであるのなら、それを改善すべきであると思い、この請願をおこないます。






「日本国憲法の改正手続に関する法律 (国民投票法)の改正に関する請願書」の送付について


 私、山田忠弘は、神奈川県相模原市在住の3人の子を持つ父親であり、そして神奈川県で働く一市民です。特に何らかの政治団体にも、宗教団体にも属してはいない、右でも左でもなければ、保守でも革新でもない人間です。
 そんなごく普通の生活を送っている私ですが、かねてより日本の現状を憂え、この日本をより良く次代に引き継ぎ、なおかつ更なる隆盛を実現するためには、日本国憲法の全面的な改正、もしくは新憲法の制定が必要であると考えています。
 現代民主主義国家は、そのほとんど全てが憲法を最高法規とし、そしてこれが国家の基準となり、それがゆえにその国家を形作る範囲となっております。我が国においても、敗戦という一大事件を経て、占領者である米国より、現在の憲法を与えられて以降、それまでの国家の範囲は拡大し、多くの自由と権利によって、国民はその努力が報われるという恩恵を受け、経済大国として発展してゆきました。
 しかるに、現在の日本は、その拡大した自由と権利が、日本国憲法の持つ本来の精神とは裏腹に、私的に応用され、動機のある者、もしくはそれを押し通す力のある者だけが、その恩恵を享受でき、声を上げない国民は国家の経済が低迷と共に、その生活水準は押し下がっています。
 自由とは何か、それを考えると種種様々な答えが出てくるでしょうが、しかしそれがどんなに善的な動機によるものであっても、それをかなえようと望むものであるならば、それは欲求にしか過ぎません。日本国憲法において、自由の範囲は飛躍的に拡大しましたが、それはまさに欲求の拡大といってもよく、それこそが日本の経済発展の原動力となったのですが、経済的地位が頂点に達し下降しつつある現在でも、その拡大した自由を維持しようと望むあまり、国債の現状に現されているように、国民の負担は不必要に増すばかりです。

 国家とは、その構成者たる国民個人の集合であり、そしてその国民が生存のために自らの自由を制限して他者と繋がりあう共存社会です。誰もが自分は生き抜きたい、その生を安泰にすごしたい、そう願いますが、しかし自分一人では生きられません。父母に育てられ、師友と共に学ぶなど、身の回りにいる人間から様々な手を差し伸べてもらう。またその一方で、見知らぬ人間がそれぞれ自分の役割を果たす事で、私たちが出来ない事を補ってくれる。このような大きな分業形態が、この共存社会を支えています。
 しかし現在、それはどうなっているでしょうか。社会保障はある程度充実し、自己の問題を国家が金銭によって解決する事もありますが、その結果毎年度の赤字国債の発行は累積し、今やGDPの150パーセントの債務を抱え、しかもそれはとどまるところを知りません。今ある自分の問題を自己の力で解決を図らずして、将来の国民にその力を借り自己の安定を持続させようとする、いつから日本人は、このような恥ずべき国民へと成り下がったのでしょうか。 
 自己の問題を解決するためには、まず自己の身の回りの者達と協力しあう事が大切なはずですが、現在は自らの自由を守るため、それを省略し、姿の見えない他人、つまり広義の国民を頼り、金銭をもってその解決を図ろうとしています。またその一方で、自己の立場を守るため、他者を平気でけり落とし、その行為を法の保護にあるとする、例えば派遣切りがそうですが、こういった問題もまた金銭によって解決を図ろうとする国民、それが現在の日本人です。
 
 こういった現状に対して、国民が経済的な繁栄と共に堕落していったからだと捉える事は簡単ですが、しかしこういった行為が全て日本国憲法によって保護されているのであれば、そこにある種の間違いを認めざるをえません。日本国憲法が施行され既に60年以上経過しますが、その歳月と共に、その法の理念、本義が薄れ、また現代社会に適合し辛くなってきているのならば、それを変えない限り、現在ある問題を解決する事は不可能です。
 では、誰がそれを変えるのか。それは権限を持つ議員なのか、それとも知識を持つ有識者なのか。限られた人間がその力を行使し、大衆を無知な者だとしておとなしくさせるべきか。
 そうではありません。変えるのは、民主主義国家として主権者である国民自身です。国民が自分の持つ知識、また信念を発揮すれば、その力は手に入ったも同然であり、私たちが憲法の制定に望む事によって、日本の新たな可能性は開かれることになるでしょう。
 誰もが様々な立場から、多くの意見を持っています。それを交換し、また討論によってそれをさらに深化させる、そうして最終的には投票による多数決で決定する、これこそが民主主義国家における正当な政治意思決定のプロセスではないでしょうか。
 しかしそうは言っても、現在政治には無関心、もしくはメディアなどによる与えられた情報に流されやすい国民が、それをできるのかどうか、その答えを信じてよいのかどうか、そこには不安と未知数だけがあります。
 確かにそういわれてみると、現在の日本人は、その政治的な機会を行使せず、また通常の生活において、政治は不満以上の情報にはなりえていません。上が公私の別を守らないのならば、誰がそれを理解できるのでしょうか。自己の立場、その欲求そのものの実現のために政治が存在する、そう思う人間が多ければ、不満者は常に、どこにでも存在する事になります。そういった政治意識が国民に深く根ざしているならば、彼ら自身の手によって国家を変える事は難しいかもしれません。
 では、このままで国家はよくなるのかと問えば、答えは「否」と答えるしかないと思います。私たちは現在、問題をただ先送りにして、時による解決を待ち望んでいるようですが、実際に時が進み、その中で無数の変化が行われているのならば、その中でただ待ち望み自己の安定を維持しようとする事は不可能です。そしてそうであるならば、私たちはその能力がなくとも、困難を乗り越えなければならないのではないでしょうか。変化に立ち向かい、自らの手によって問題を解決するならば、私たち自身でそれを行うしかなく、いたずらに時が過ぎるのを待つのはかえって問題を悪化させるだけです。それゆえに、私たちは勇気を持ってこの国難に当たり、私たち自身の能力を尽くす事で、国家の大法を定め、それによって時代を切り開かなければならず、私たち日本人はそれができると信じています。
 
 今回、この請願書を送るにあたって、一私人なりに、憲法の事、安全保障の事を真摯に考えているという事を証明するため、私が起草した「新日本国憲法私案」とそれに基づいた安全保障に関する提言を合わせて送付します。この「新日本国憲法私案」は私自身が作成したものですが、私は現在の日本、また日本国憲法公布以降の問題の解決を考えた結果、いささか硬性的な案となりました。拡大し続けた自由、そしてそれによって乱れた基準と共存関係を直すため、そして国債の発行残高、また日本の国際的な競争力を考え、これから経済的に悪化し続ける事を考えれば、それを回復させるのは国民自身の力であると思い、その協力を義務として求めています。
 ただ、誤解のないように言っておけば、わたしは自由と統制、解放と制限、この2者の良質な対立による均衡こそがよき国家を築く条件であると思っています。現在の日本はいささか自由に傾きすぎ、解放されすぎた部分が多いと感じるため、このような憲法案となりましたが、もし、憲法の改正、また新たな憲法が、統制的な国家として国民の制限が激しければ、私はその実情を変えるための新たな憲法案を提出して、その将来のために主張しようと思います。


この請願書についてですが、私は若輩の一私人であるため、始めから同意してもらえるとは思っていません。また、私の改憲活動は、右や左、保守や革新といった党派を超えたものが理想となるため、各政党、また各党より神奈川県を選挙区としている方、私の方で選んだ方にお送りさせていただきます。
また、その請願の可否を問わず、できるだけ多くの方よりご返答いただけましたら幸いです。

請願書を送付した政党、議員

民主党・本村賢太郎議員(神奈川14区)
    笠 浩史議員 (比例南関東ブロック) 
    前原誠司議員 

自民党・河野太郎議員(神奈川15区)
    小泉進次朗議員(神奈川11区)
    安倍晋三議員
    石破 茂議員

たちあがれ日本・平沼赳夫議員

国民新党・亀井静香議員

みんなの党・江田憲司議員(神奈川8区)

社民党・阿部和子議員(比例南関東ブロック)

共産党・志位和夫議員(比例南関東ブロック)

 公明党、幸福実現党は、宗教勢力が多大な背景となっているため、政教分離の原則に基づき、送付を控えさせていただきます。また一部メディアにも送付しました。ご意見をいただければと思います。

 主催者 山田忠弘の「憲法私案」です。
 ただ、これが会としての案ではなく、あくまでも個人の1案であることはご理解下さい。また自分で案をお持ちの方は、この場で紹介したいので、ご連絡下さい。

 新日本国憲法私案

        第1章  憲法

第1条(最高法規)
 憲法は、国民によって選択された、国の最高法規であり、憲法に反する法律、命令、規則、国務等の行為はすべて認められない。また、国民は憲法によって様々な権利を保障され、同時に憲法の遵守を義務とする。

第2条(憲法の解釈)
 ①憲法の解釈は、その制定時の意義に準拠して最高裁判所が判断する。個人、組織による解釈はこれを公 
  式には認めない。
 ②憲法は、国民すべての意志に基づいて作成されるものであり、広益制を持つものであ
  る以上、その解釈を一部の利益のためだけに利用してはならない。

第3条(憲法の非恒久的性質)
 ①憲法は、国家の最高法規であるが、時代や国際的な環境の変化とともに見直さなけれ
  ばならず、恒久的なものではない。
 ②この憲法の効力は最長でも50年限りとし、期限前に国民投票による改変、持続の是  
  非を問わなければならない。

第4条(国際法規の遵守)
 ①日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要
  とする。
 ②憲法の記載と反する国際条約、又は国際法規への調印を求められた時は、議会によっ
  てその是非を審議し、憲法の改正後に調印しなければならない。

第5条(憲法の改正)
 ①憲法は国民の意志の総意であり、憲法の改正、追加の決定はすべて国民投票によって行われ
  る。
 ②憲法の改正、追加発議は、議会の議員3分の2以上の賛成、もしくは、十万人以上の
  請願によって行われる。また、改正、追加における選択肢は、議会で定められる。
 ③憲法の施行より50年を経た時は、憲法の改変を国民投票により決めなければな
  らない。

第6条(国民投票)
 ①国民投票は、日本国籍を有する有権者によって行われる。
 ②国民投票は、3分の2以上の得票によって可決される。
 ③国民投票に不参加の国民に対しては、別法で定めた、応分の処置がとられる。

       第2章  国民の権利及び義務

第7条(国民主権)
  日本国の主権はすべての国民にその機会が与えられ、国家の運営、国民生活の保持、国 
 民幸福の追求は、主権者である国民によって選択され、決定される。

第8条(国民の要件)
 ①両親のどちらかが日本国民であれば、生まれながらにして国籍を取得する事が出来
  る。
 ②国籍の離脱の自由はこれを保障される。ただし復籍を望む者は、裁判所の審査によら
  なければならない。
 ③二重国籍はこれを認めない。

第9条(国民の政治的身分)
 ①民主主義制度の良質さを維持するために、国民の政治的身分は、主権者、受護者、
  制限者、皇室に分けられる。このうち政治的有権者は、主権者と、それを望む受護
  者となる。
 ②その概要は以下の通りになり、別法で要件を定める。
  主権者・20歳の成人以降、60歳までの日本国民となる。主権者は参政権などの政
      治的義務を果たさなければならない。
  受護者・20歳までの児童、未成年、または60才以上の者、また不自由者登録を受
      けている者、また、国家の保護を受けている者を指し、受護者は保護者とそ
      の責任を共有する。そして児童、未成年以外の受護者は、参政権などの政治
      的義務の参加は自主選択となり、他者がこれを強制してはならない。
  制限者・日本国民としての義務を果たさない者、また犯罪によって量刑を受けた者、裁
      判所から指定を受けた者は、その権利を制限される。その制限の期間、内容
      は、裁判所によって決められる。
   皇室・皇室については別章にて定める。

第10条(国民の持つ自由と権利)
 ①国民は、個人の自由、諸権利を憲法、またその他の法令によって保障される。
 ②個人の持つ自由、諸権利を行使するために、他者の持つ自由や権利,公共の福祉、普
  遍的な道徳を侵害することは許されない。
 ③個人の持つ自由や権利の範囲を狭めたりする動機にならないように、人間の良心や法秩
  序を悪用した行為に対しては、厳然たる対処を行ない、自由や権利の範囲を出来るだけ
  おおらかにするように、国民は努力しなければならない。

第11条(法の下の平等)
 ①国民は、法の下の平等を保障される。
 ②個人は他者を,性別、出自、人種、個人の履歴、財産、信仰、政治的見解、身体又は
  精神的制約などの様々な相違によって差別してはならない。
 ③個人に与えられた、栄誉、恩典は一代限りである。
 ④一部の人間や集団に対する特権的、永続的な制度は、存在してはならない。

第12条(国家の尊重)
 ①国家は、国民一人一人によって形成される共存社会であり、その機会によって選択し
  た決定は尊重しなければならない。
 ②国旗、国歌は法で定められたものを尊重し、使用しなければならない。
 ③国内、及び諸外国での滞在においても、日本国民は、自国の尊厳をけがすような行為を
  してはならない。

第13条(請願権)
 ①国民は、それぞれが持つ自由と権利を侵されたとき、国および公共の機関に救済を請
  願することが出来る。
 ②国民は、法、命令、規則などの集団的意志に対し、制定、廃止、改正などを、国、又
  は公共の機関に請願することができる。
 ③国民は、官民問わず、様々な集団、組織に不正、不法行為が見られる場合、国または
  公共の機関に調査を請願することができる。
 ④国民の請願に対し、請願を受けた公共機関は真摯に向かい合い、誠実に答え、請願者
  の秘密を守らなければならない。また請願者に対し、あらゆる集団、組織は、差別待
  遇をしてはならない。
 ⑤国民の有権者十万人から同一の請願又は署名があった場合、国民投票を実施しなけ
  ればならない。
 ⑥国民からの請願は、立法機関の下に設置される審査局を通し、該当する公共機関にゆ
  だねられる。

第14条(言論、表現、報道、出版の権利)
 ①言論、表現、報道、出版の自由は、国民の良心に基づいた自由であり、公共の機関、
  又はあらゆる集団、組織、個人による独占及び強制は認められない。
 ②言論、表現、報道、出版の自由を、明確な理由なく規制してはならない。
 ③虚偽、又は道義的行為から外れた言論、表現、報道、出版は認められない。
 ④いかなる組織も検閲を行ってはならない。また組織的な力を背景にして、言論、表現、
  報道、出版の自由を奪ってはならない。

第15条(思想、信教、信仰の自由)
 ①思想、信教、信仰は個人が持つ自由であり、他者、集団、組織による強制や強要は認
  められない。
 ②いかなる宗教団体も、政治な公権力は存在せず、またその持つ資産、財産を政治団体、
  または議員本人に寄付してはならない。
 ③公共の道徳、道義的行為から外れる宗教団体は認められない。

第16条(学問、芸術の自由)
 ①学問、芸術の自由は保障される。
 ②学問、芸術は万人のものであり、特定の組織等による独占を行ってはならず、あらゆ
  る差別から無縁である。
 ③学問、芸術に対する批評活動において、その手法の正当性、または良識を保持している
  者に対して疎外してはならず、妨害を加えてはならない。

第17条(著作、発明の自由)
 ①著作、発明の自由は、これを保障される。
 ②著作、発明の権利はすべてその案者等が持ち、当事者限りの権利となる。
 ③著作、発明の権利を売買してはならない。また貸与も案者等の許諾が必要となる。
 ④著作、発明の権利保護機関は、国によって中立的に運営される。また著作、発明の権
  利による利益は、すべて案者等の持つものとする。

第18条(集会、結社の自由)
 ①集会、結社の自由は、公共に対する濫用が認められなければこれを保障される。
 ②集会、結社の中で、他者への圧力、強制は認められない。
 ③集会、結社の規約は憲法の範囲を逸脱してはならない

第19条(居住、移転、海外への渡航、海外への移住の自由)
 ①国民は居住、移転、海外への渡航、海外への移住の自由を保障される。
 ②地理的、環境的要因の不具合は、居住する人間が責任を負わなければならない。
 ③海外情勢によっては、出入国を行政が判断し、規制することができる。

第20条(生活権)
 ①国民は、その生活を自由意志によって選択し、個人の良心の下、他者への不当な侵害
  がない範囲での、幸福の追求を認められる。
 ②国民は、家族、及び地域共同体などの相互扶助の下、最低限度の生活を保障され、国
  家はそれを全力で支援する。
 ③国民および日本国に存在する公的、私的機関は、国民の社会保障、福利厚生、公衆衛
  生の向上につとめなければならない。

第21条(保護権)
 ①国民は、他者をいかなる理由があろうとも、虐待、酷使、監禁してはならず、以上の
  ことが行われていることを知ったとき通報、保護する義務を持つ。
 ②国家は、国民に対するあらゆる圧迫、強制等から,保護する権利を持つ。
 ③保護者がいない受護者に対しては、地域共同体及び国家が責任を持つ。
 ④受護者は、保護者を選定することが出来る。
 ⑤判断力を持たない受護者に対し、不当な利益を上げる行為、性交渉の同意の判断、
  強制的な労働など反道義的行為は、保護権の観点から法を作成し、制限、禁止するこ
  とができる。
 ⑥受護者が保護者によって保護されていないと判断された場合、裁判所が保護者を選定す 
  ることが出来る。

第22条(家族権)
 ①国民個人は、最小の社会構成である家族に所属し、理由なくこれを放棄してはならな
  い。また独身生活者は単一の家族として認められず、その血縁親族の一員となる。
 ②家族内の受護者を、正当な理由なく放棄してはならない。
 ③家族内における選択は、個人の尊厳とあらゆる公平さに立脚されて行われなければなら
  ない。
 ④家族内における相続は、家族内の保護者を中心として行われる。

第23条(結婚、離婚)
 ①結婚によって新たな家族が形成される。
 ②当事者双方の合意があれば、結婚、離婚の自由は保障される。
 ③離婚の際、特別な理由がない限り、親権は、子供の成人まで夫婦双方が責任を持つこ
  とを義務づける。

第24条(生死の選択)
 ①国は倫理的な医療行為を保障し、国民に対して十分な環境の中で生死の選択権を与
  え、これを強制、侵害してはならない。
 ②生死の選択は、基本的に当事者本人がおこなうものである。
 ③生死の選択に関する状況、情報は、可能な限り公開し明碓にすることを義務づける。

第25条(参政権)
 ①国民は、未来へ続く国家を形成する一員として、その政治的選択をおこなう権利を持
  ち、またその参加は義務となり、これを拒否、放棄してはならない。
 ②国民個人の政治選択は、絶対秘密とされ,それを探ってはならない。また政治的意志
  を、個人の責任として問わない。
 ③国民は、国、又は公共機関に公務を要請された場合、特別な理由なしにこれを断って
  はならない。
 ④あらゆる組織、権力は、国民個人の参政権に対し、圧力、強制をかけてはならない。

第26条(選挙の原則)
 ①20歳以上の成人で、その資格のあるものは、すべて選挙に参加し投票しなければならない。
  90パーセント以下の投票率の選挙はやり直さなければならない。
 ②選挙は秘密投票とし、いかなる権力、機関、団体等もその公表を強制できない。
 ③選挙は個人の良心を持って選択されるべきであり、いかなる権力、団体、機関もその
  選択を強要してはならない。
 ④得票率が40パーセント以下の候補者は当選できない。
 ⑤選挙区は、行政地域によって選定され、人口の多寡によって分割してはならない。
 ⑥選挙の投票は、投票日以前に半年以上居住していた地域、もしくは3ヶ月前に在住し
  ていた地域で行う。
 ⑦その他詳細は別法により定められる。

第27条(地域共同体への行政義務)
 ①国民は、その所属する地域共同体から指名された、行政義務を放棄してはならない。
 ②あらゆる集団、組織は、国民の行政義務、地域共同体への奉仕を、特別な理由なく制
  限してはならない。
 ③行政義務の詳細に関しては別法によって定められる。

第28条(納税の義務)
 ①国民は、公共の福祉等、国民が選択した国家の政策を推進、持続させるため、財産、
  収入、購買等から、納税する義務を持つ。
 ②国家は、国民の納税に対し責任を持って対処し、その会計を明快にする義務を持つ。
 ③理由なき義務の不履行に関しては、国及び公共の機関は厳正なる態度をもって臨む。

第29条(教育の義務)
 ①教育は、あらゆる国民に対して機会を与え、また未来を発展させるための人間形成の基
  礎であり、国民は、国が定めた基礎教育を受ける義務をはたさねばならない。
 ②教育に対する権利は平等であると同時に、個人の能力を尊重し、その成長に準じた教
  育をおこなう必要を求められる。
 ③学校は学問を中心とした教育の場であり、人間教育は家族内における保護者によってな
  され、その責任を共有し、これを放棄してはならない。
 ④学校などの教育機関に対して、最も要求するのは公正さ、公開性であり、その努力が認
  められない場合、教育機関としての資格を取り消すことが出来る。

第30条(勤労の権利)
 ①すべての国民は勤労の権利を持ち、職業選択の自由を持つ。
 ②勤労の権利、職業選択の自由への機会を、個人の履歴、環境等によって差別し、挑戦
  する権利を奪ってはならない。
 ③国家は、国民の勤労の機会を維持する為に努力することを義務付けられる。
 ④賃金、労働時間、労働条件等は、法で定めた規定を遵守しなければならない。
 ⑤勤労者が団結し雇用者と交渉することは、法を逸脱する行為がない限り、これを保障
  される。
 ⑥雇用者は、勤労者が法を遵守し、正当な権利を述べる場合、たとえそれが雇用者に対
  して不利益な行為であっても、差別的な待遇及び圧力をかけてはならない。

第31条(財産権)
 ①私有財産の保持、相続は、その公正さが認められる限り、これを保障する。
 ②不法行為等によって得られた財産は、すべて国家に帰属し、被害者等に分配される。
 ③緊急時における私有財産の公共による収容は、これを十分に保障する。

第32条(環境権)
 ①日本領土内における全ての自然、環境は、全ての国民に影響をあたるため、その使用者
  は、これを考慮し、その配慮が義務となる。
 ②新たな環境の開発は、その所有者の独断によってではなく、その周辺の住民、また行
  政、自治体の理解を得なければならない
 ③敷地内において環境破壊が起こり、それが問題化した場合、その責任はその所有者、及
  び利用者に課せられる。

第33条(個人行動の責任の所在)
 ①国民個人の行動は、法にのっとった者であれば、それを保証される。
 ②国家、自治体、所有者が、警告、注意を喚起した物事に対しては、それ以上の強制を課
  す必要はなく、それを無視して自発的に行動をおこなった者に対して、国家、自治体、
  所有者はその責任を問われない。
 ③国家や自治体が法として禁止した物事、また所有者が法に乗っ取って禁止した物事に対
  して国民が自発的に行動した場合、国、自治体、所有者はその責任を取らなくてもよ
  く、また罰則を課す事が出来る。

第34条(情報の秘密)
 ①個人情報および通信の秘密はこれを保障する。
 ②利益,娯楽のために本人の同意無く、また悪意ある行為、流言などで個人情報を利
  用、公開してはならない。
 ③犯罪の捜査、医療行為など、公共の利益となり、また公認された組織、機関による、
  個人情報の取得を妨げてはならない。但し、その情報を公開することは、十分な注意
  を払うことを義務とし、その責任は全て公開者が負う。

第35条(権利機関の設置)
 ①国家は、国民個人の権利を保護、審査する機関を、司法機関とは別に設置しなければ
  ならない。
 ②権利機関は、権利のバランスに十分配慮し、中立的な立場で審査に臨まなければなら
  ない。
 ③権利機関は、いかなる圧力にも屈せず、また不正、不法行為を許してはならない。
 ④権利機関の審査者は、該当地域以外の住民から無作為に選出、構成される。

第36条(裁判を受ける権利)
  国民は、裁判所に於いて裁判を受ける権利を保障される。

第37条(法定手続きの保障)
  国民は、法律の定める手続きによらなければ、その生命又は自由を奪うことは出来ず、 
 刑罰等を科することは出来ない。

第38条(逮捕の要件)
 ①国民を逮捕する権限は司法官憲が持つ。 
 ②現行犯として逮捕される以外では、理由を明記した令状を保有しなければ逮捕できな
  い。

第39条(自由権の制限)
 ①国民は、法に従った、明確な理由を記してある令状によって、一時的に自由権を制限
  される。
 ②理由を明示された令状の所持、及び緊急の保護、拘束の場合、何人もその指示に従わ
  なければならない。
 ③理由を明示された令状を所持しているものの捜査に対し、妨害、隠蔽をおこなっては
  ならない。
 ④司法官憲による捜査時には、捜査の対象となるすべての書類、物品を押収できる。
 ⑤国民の自由権の制限期間中は、該当者の言動、行動等はすべて記録され、裁判官の許可
  をもって公開される。
 ⑥誤って国民の自由権の制限をおこなった場合、その国民に対し十分な保障をおこなわ
  なければならない。
 
第40条(拷問、残虐刑の禁止)
  すべての人間は、あらゆる拷問及び残虐刑をおこなってはならない。

第41条(刑事被告人の諸権利)
 ①すべて刑事事件においては、被告人は、公平で迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
 ②刑事被告人は、いかなる場合でも、資格を持つ法律士を依頼することができる。被告
  人が自ら依頼することができないときは、国で補助することができる。また、法律士
  に依頼することを拒否することも出来る。
 ③刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を与えられ、また公費によって被
  告人のために強制的手続きにより証人を求める権利を有する。

第42条(不利益供述の不強要、自白の証拠能力)
 ①何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
 ②強制、拷問、強迫又は不当に超機関拘束された場合による自白は証拠とすることは出
  来ない。
 ③何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とすることが
  できない。

第43条(刑事罰の公平性)
 ①すべての刑事被告人は、原則としてその行為を持って裁かれ、犯行時の状況、責任能力
  等だけで無罪にすることは出来ない。
 ②すべての犯罪に対し、時効による訴求中止をしてはならない。
 ③明確に立法化されていない事案でも、その行為が憲法にある国民の権利を侵し、またそ
  の道義性に疑問があれば、裁判所の判断によって刑事事件として取り扱われ、その事案
  に対しては、裁判官の判断によって求刑される。

第44条(刑事事件の補償追求)
  刑事事件において、受刑者から利益の供与を受けていた人間は、裁判所の審査を受け、
 その利益を被害者等に返還しなければならない。

第45条(訴求処罰の禁止)
 ①何人も、実行の時に適法であった行為に対しては刑事上の責任を問われない。
 ②最終審において確定した無罪に対し、刑事上の責任を問うことは出来ない。

第46条(刑事補償)
  自由権が奪われ被告人となった後、無罪の判決を受けた時、国はその人間に対し十分
 な保障をしなければならない。



       第3章  天皇

第47条(天皇の地位)
 ①天皇は日本国の歴史、伝統、文化の象徴的存在であり、憲法によって保障される。
 ②天皇は代表的日本人であり、その政治性は絶対的中立を保ち、関与してはならない。
 ③天皇は、伝統的な祭祀を保護、継続し、また国内の神社すべてを統括する。

第48条(皇位の世襲と継承)
 ①皇位の世襲、継承は皇室会議によって選定され、国会の承認によって遂行される。
 ②天皇の心身が国事行為等の責務に耐えられない場合、皇室会議を経て議会の承認を得
  れば、摂政への一時的な譲位、又は退位をすることができる。
 ③皇位の世襲は、伝統的な男系によるものとする。

第49条(天皇の国事行為)
 天皇は、国会の助言、承認を下に、以下の国事行為をおこなう。
  一、国会の開会式等、国政儀式への参加
  二、行政官吏の任免、大使の信任状を授与すること
  三、栄典を授与すること
  四、外国の大使および公使,国家の賓客を接受すること
  五、国民、また各外国の国民への日本の歴史、文化、伝統の啓蒙活動
  六、各外国の儀式への参加

第50条(天皇の祭祀行為)
 ①天皇は、日本国の豊穣と安寧に対し、祈りを捧げる。
 ②天皇は、伝統的な秘儀、祭祀を継続していかなければならない。
 ③天皇は国内の神社を統括し、各地の伝統祭祀、またそれを基にした文化、史跡、史料
  を保護しなければならない。
 ④天皇の祭祀行為は、皇室会議と議会より選出された助言者によって選定され、宮内庁
  が責任を持って執り行う。

第51条(皇室会議)
 ①皇室会議は天皇もしくは摂政が招集し、議長として運営する。
 ②皇室会議は、法で定められた皇族、また国会、行政府、司法の代表、そして各分野より
  選出された助言者が参加する。
 ③皇室会議での決定事項は、個人の情報を侵害しない限り告知される。

第52条(皇室の歳費、財産)
 ①天皇の国事行為、また日常生活の歳費は、すべて国税によってまかなわれる。
 ②天皇の行う伝統的な祭祀は、すべて神社等から得られる寄付金によってまかなわれる。
 ③皇室会議で選定された文化事業等は、すべて寄付金等でまかなわれる。
 ④天皇、皇族による利殖行為、又は特定の集団への利益となる投資行為は禁じられる。
 ⑤天皇、皇族による財産の出納は、すべて国会に報告され公開される。

第53条(皇室典範)
 ①皇室典範は、天皇、皇族の法規である。
 ②皇室典範は、議会の承認を受け、制定、改正、廃棄される。
 ③天皇、皇族に対する権利、裁判等は皇室典範を基におこなわれる。

   第4章   議会 立法権

第54条(議会の地位)
  議会は、国民の意思を反映させた国権の最高機関であり、国法を制定する唯一の機関
 である。
 
第55条(議会の構成)
 ①議会は、全国の各地域から直接選挙によって選出された議員によって、構成される。
 ②議会は一院からなり、議会総会と、行政府と対応した各小委員会、国家予算を検討す
  る予算委員会などによって構成される二審制となる。
 ③各委員会での採決結果は、議会総会によって再討議され、総会での決定が最終のもの
  となる。

第56条(議員の独立性)
 ①議員は国民から直接選出された代表者であり、議会における言動、行動、選択に対して
  議員としての自覚を持っておこなわなければならない。
 ②議員の政治的選択、行動は、いかなる権力、党派、団体、機関に拘束されてはならず、
  一部の利益のためではなく、国家全体の将来を考え、議員個人の持つ良心を持っておこ
  なわれる。

第57条(議員の任期)
 ①議員の任期は5年とする。
 ②任期中の議員が精神的、身体的に公務に耐えられないと判断された場合、議員本人に
  よる自発的な申し出による離職、もしくは選挙区からの要請によって討議され、解職
  することができる。
 ③議員が不法行為の疑いを抱かれた場合、また現行犯逮捕された場合、即時に議員資格
  を停止され、行政裁判所の審査を受ける。審査の結果により、議員資格の復活、もし
  くは解職の手続きがとられる。
 ④何らかの理由で、議会において3分の2以上の賛同を得た場合、該当の議員は解職さ
  れる。

第58条(再選挙)
  何らかの理由で議員が離職、解職したとき、その日から30日以内に再選挙がおこな
 われる。

第59条(議員の資格)
 ①議員は、選挙区に一年以上在住する住人が、一定数の推薦を受け立候補できる。
  1. ②国政議員の被選挙権は30歳以上から与えられる。
  2. ③3期連続で職務に就いた議員は,次の選挙で立候補,推薦される資格はない。
 ④日本国籍を有するものであり、選挙区居住者であれば、選挙資格を差別してはならな
  い。但し、受護者と制限者は別である。
 ⑤立候補者は、各選挙区の代表者であることを自覚し、いかなる虚偽、不正等を許さな
  い。もし該当した場合、直ちにその資格を停止される。

第60条(選挙の審査)
 ①選挙の審査は、各地の行政裁判所と選挙管理委員会の双方がこれを担当する。
 ②投票は即日開票とし,当落情報はすべての開票終了後、開示する。みだりに当落の流
  説を報じてはいけない。
 ③選挙の審査に意義がある場合は、議会に直接訴えることが出来る。

第61条(選挙管理委員会)
  選挙管理委員会は、国民の行政義務の1つとして、行政裁判所が選挙区より候補者と家
 族、親族関係にないものを無作為に抽出し、選定する。

第62条(議会の会期)
 ①議会の常会は、毎年2期に分け、首都において開催される。
 ②常会の会期外であっても、議員の4分の1の要請があれば、臨時に議会を招集するこ
  とができる。
 ③内閣の要請があれば、議会の非常召集が出来る。特に安全保障や大規模災害などの緊急
  時には六時間以内に行われ、3分の2以上の出席があれば、開催される。
 ④毎年指定された期間、議会の常会は、定められた地方都市において開催される。

第63条(議会の解散と選挙後の招集)
 ①議会は、議員の任期が切れたとき解散される。
 ②議会解散から40日以内に選挙をおこない、また選挙開票後30日以内に議会を招集
  しなければならない。
 ③選挙時に内閣により議会の非常召集がおこなわれた場合、前期の議員によって開催さ
  れる。また非常招集によってとられた採択は臨時のものであり、選挙後の議会の開会
  10日以内に新たに裁決をとる。

第64条(議員の諸権利及び規制)
 ①議員の歳費は、法律で定められた額を国庫から支給する。
 ②議員が使用する交通費、文書通信費は国庫から支給される。
 ③議員が採用する秘書2名までの歳費は、国庫から支給される。交通費、文書通信費も
  同様である。
 ④議員は立法、又は国民の請願に対する調査を、行政裁判所の同意を受けて行うことが
  出来る。この調査は国民の代理で行うものであり、公務員と同等の権利を持つ。
 ⑤議員は、個人よりより無制限に政治資金の寄付を受けることができる。政治資金は公
  人としての立場でのみ使用することが出来、政治資金を使用し貸与、利益供与をおこ
  なってはならず、またそれを使用して他議員、公務員への圧力をおこなってはならな
  い。また、政治資金の利用は細大漏らさず会計局に報告し、監査を受け公表される。
 ⑥議員は、いかなる団体からも直接的、間接的に金銭、物品の授受をおこなってはなら
  ない。また公人として、その尊称を使い、特定の団体のためだけに奉仕してはならな
  い。
 ⑦議員同士の金銭、物品のやり取り、また公務員からの献金は認められない。これは議
  員、公務員の親族にも適応される。
 ⑧議員が持てる支援団体は、一人につき一団体とする。また、その資金は議員が政治資
  金の中から出費し、支援団体に対する寄付行為等は禁止する。
 ⑨議員本人、また親族に対して、個人的な欲求による働きかけ、口利きは禁止する。また
  法で定められた範囲以外での、金銭、物品の授受は禁止する。ただし、私人として、冠
  婚葬祭などにおいての常識的な贈答は、これを認める。

第65条(議長、役員の選任)
 ①議会における、議長、役員は、選挙後はじめの常会開催時に、議員の3分の2の同意
  をもって、選出される。
 ②議長、役員は、国会に置ける議事進行を円滑にし、議員は議事進行に対し議長、役員
  の意志を尊重しなければならない。

第66条(小委員会)
 ①議会の常会は、各小委員会に分化され進行される。各小委員会の討議終了後、常会の
  総会が開かれる。 
 ②国家的な問題が発生し行政府より依頼がある場合、また議員の4分の1の請願がある
  場合、特別委員会を開催できる。
 ③小委員会の目的は、各省庁に対応した立法案作成と審査、各省庁の行政監査、国民か
  らの請願に対する対応である。
 ④小委員会の構成議員は、常会開催時に無作為に選別される。
 ⑤特別委員会は、各小委員会から無作為で選出された人数を持って構成される。

第67条(定足数、評決数)
 ①議会内のあらゆる議事は、出席者の3分の2以上の出席がなければ開けない。
 ②議事は、この憲法に特別に記載されていなければ、出席者の5分の3以上を持って可
  決とする。
 ③議会の審議を、理由なく休んではならない。
 ④大規模災害等で規定人数に達しない時は、議長の判断によって行われる。

第68条(参考人の招致)
 ①総会、小委員会は、必要に応じて参考人を招致できる。
 ②参考人の招致は、総会、各委員会ともに出席議員の半数の同意が必要である。
 ③参考人は議場において、虚偽の証言、責任無き発言をおこなってはならない。これらの
  行為に対しては、行政裁判所によって審査され、応分の罰を下される。

第69条(立法)
 ①議会の小委員会において賛意を得た法案は、総会において審議される。
 ②法案には、その法解釈の根拠として、必ず法制定の趣旨と、憲法との整合性を記さなけ
  ればならない。
 ③総会において賛意を得た法案は、施行される。
 ④立法案には必ず施行日時を記載しなければならない。法は公布3年以上から、再検討
  を許され、どんなに持続しても、50年後には、必ず再検討されることとする。
 ⑤法の施行3年以内は、半数の議員の同意がない限り、再検討されない。

第70条(行政監査)
 ①議会は、各行政省庁、また公益団体の監査を行う。
 ②行政監査は、法の施行、予算、人事を中心におこなわれ、各行政省庁、公益団体は虚
  偽、隠蔽等をおこなってはならない。
 ③行政監査の結果は、総会にて報告され公開される。

第71条(請願)
 ①議会は、国民の請願に対し真摯に答えなければならない。
 ②国政への請願は、議会直属の審査局を通し、重複等を選別してから、各委員会におい
  て検討される。
 ③議会は、請願に対し調査する権限を有する。この調査への協力は国民の義務であり、
  虚偽、記録の破棄等調査を妨げる行為は許されない。また調査に関する記録は、議会
  の同意を得て公開される。

第72条(集団被害の代理)
  請願があれば、被害者が特定できない事件の被害者代理を議会が行うことが出来る。

第73条(国民投票による裁決)
 ①十万人以上の国民から同一の請願、署名があった案件に関しては、国民投票を実施
  しなければならない。
 ②国民投票の裁決結果を、議会によって覆してはならず、立法化しなければならない。

第74条(議会の人事権)
 ①皇室会議で選定された、皇位の継承及び皇室人事を審査承認すること。
 ②首相が指名した国務大臣を審査、承認すること。
 ③裁判官の人事を審査、承認すること。
 ④国防軍の人事を審査承認すること。
 ⑤各人事の弾劾、及び罷免を審査承認すること。

第75条(情報の公開と機密)
 ①議会におけるすべての発言は記載され、原則公開される。
 ②議場内の撮影、録音は、原則公開される。
 ③安全保障上の問題等は、議員の半数の同意をもって秘密にすることができる。
 ④議会内における議員の発言は、非道儀的な発言をのぞけば責任を問われない。

第76条(遅延行為の禁止)
 ①議会の質疑、投票などにおいて遅延行為をすることは許されない。
 ②一言をとらえ議題本来の討議からそれる討論は遅延行為とみなされる。
 ③議員個人に対する疑惑等は、行政裁判所にて取り扱うものであり、議題にはされな
  い。
 ④野次、その他討議に不必要な言動は遅延行為ととらえる。
 ⑤遅延行為に対し、議長は法に則った処置をとることが出来る。

第77条(審査局)
 ①議会は、国民の請願を審査するため、審査局を設置する。
 ②審査局は、請願の内容を分け、各委員会に報告する。
 ③国民の請願内容は、議会の許可なく公開してはならず、審査局において改変等を行っ
  てはならない。

第78条(人事局)
 ①内閣から提出された公務員人事案、司法院より提出された司法官の人事案、国防軍よ
  り提出された防衛官の人事案等は、議会の承認を受けてから、人事局にて施行され
  る。
 ②人事局は、公務員等の労働環境を調査し、国民の労働環境と著しく不公平にならない
  様に、時宜に適したものを議会に提案する。
 ③公務員等の待遇改善等の労働条件に対する請願は、人事局から議会に提出される。そ
  の際に、人事局の見解を明らかにする。
 ④人事局の局長は、議会が指名する。公務員及び議員など公共の職に就いてるものの、
  兼職は認められない。
 ⑤その他の要件は、別法にて制定されるものとする。

   第5章  内閣 公務員 行政権

第79条(行政権と内閣)
  行政権は、内閣に属する。

第80条(内閣の構成)
 ①内閣は、国民より選出された首相と、首相の指名した国務大臣によって構成される。
 ②首相、および国務大臣は、文民でなければならず、また他のすべての職種と兼任でき
  ない。

第81条(内閣の任期)
  内閣の任期は3年となる。

第82条(首相の資格)
 ①首相は国民によって、直接選挙で選ばれる。
 ②首相は一回の予備選挙を経て、二人の候補にしぼられ、決選投票によって選出される。
 ③首相は30歳以上の日本国籍を有したものであり、百名以上の推薦人を確保すれば立
  候補できる。
 ④首相は、いかなる団体、機関にも所属してはならず、一部の利益の為に奉仕してはな
  らない。
 
第83条(国務大臣の資格)
 ①国務大臣は、首相に指名され、国会の監査を受け就任する。
 ②国務大臣は、30歳以上の日本国籍を有したものが選出される。
 ③国務大臣は、いかなる団体、機関にも所属してはならず、一部の利益の為に奉仕して 
  はならない。

第84条(首相、大臣の離職、解職)
 ①首相、大臣に、精神的、身体的に国務に耐えられないと判断された場合、議会で3分
  の2以上の同意があれば離職できる。
 ②議会の行政監査により不適格との決議を受けた場合、即時に解職される。
 ③解職請願が、議会の投票で3分の2同意を得た場合、解職される。
 ④首相の離職と同時に、内閣は解散する。
 ⑤首相の離職後30日以内に選挙をおこない、新しい首相を選出しなければならない。
 ⑥大臣の離職後10日以内に、新たな大臣を首相は指名しなければならない。

第85条(首相、大臣の代理)
 ①何らかの理由で首相が休職する場合は、議会の同意が必要である。また、大臣の休職
  は、首相の認可が必要となる。
 ②休職の期間は、30日までとし,それ以降は状況による判断とする。
 ③休職中の首相代理は、国務大臣より首相が指名することにする。
 ④休職中の大臣代理は、担当省庁より首相が任命する。
 ⑤首相および大臣が不在の場合は、あらかじめ指名してある副官が代理を務める。緊急
  時に不在、もしくは欠けたときの代理順は別法で定める。

第86条(首相の職権)
 ①国務大臣を選定し、議会の信任を得ること。
 ②内閣を代表して議案を国会に提出し、説明すること。
 ③国務および外交関係について、議会に報告し監査を受けること。
 ④行政省庁および大臣の指揮、監督。
 ⑤国防軍の最高指揮権。
 ⑥緊急の安全保障問題発生、または大規模災害時に、議会の承認を得ずして人事、会計な
  どの特別措置をとる事ができる。ただし、一週間を過ぎた後、議会の承認を改めて受け
  る事。

第87条(国務大臣の職権)
 ①担当省庁の人事を選定し、首相に報告すること。
 ②担当省庁の指揮、監督、また首相への報告
 ③担当省庁において議案を作成し、内閣に提出すること。

第88条(内閣の職権)
 ①一般行政事務、および法律の施行。
 ②外交関係の処理、条約の交渉、条約案の国会への提出。
 ③予算を作成し、国会へ提出すること。
 ④公務員人事の策定、国会への提出。
 ⑤安全保障上の問題、緊急災害時の議会の非常招集の要請。
 ⑥国防軍の構成、人事、補給等の策定。
 ⑦憲法およびその他の法律に抵触しない範囲で、政令を制定する。
 ⑧法律に則った刑の減軽、執行の停止、復権の決定。
 ⑨栄典等の候補者の策定、議会への報告。

第89条(政令)
 ①政令は、内閣によって制定される、時限的な拘束力を持った命令である。
 ②行政を滞りなく進行させる為、及び国民の生活を緊急に保護しなければならないと
  き、内閣によって政令を公布できる。
 ③政令は公布された次の会期の議会によって審議される。このとき、議会によって否決さ 
  れた場合、その政令を取り消さなければならない。

第90条(公務員の職権、身分保障)
 ①公務員は行政組織や一部の奉仕者ではなく、国民と行政の間を円滑にする調停者でな
  ければならない。
 ②公務員は給与の他に、交通費、通信費を支給され、また住居を保障される。
 ③公務員は、その公共性を盾にして強圧的になってはならず、常に、行政と国民の間
  の問題を解決するよう努力しなければならない。
 ④すべての公務員は、職務中に不法行為等を発見した場合、司法官憲に逮捕されるまで
  の間、当事者を拘束することができる。
 ⑤公共の調査の為に2人以上の同道であれば、立ち会い調査の権限がある。また調査予
  定は厳正な秘密とされ、予告してはならない。
 ⑥公務員の労働環境及び給与等は人事局を通じ議会の承認を持って決定される。また、
  公務員の生活環境も、国によって保障される。

第91条(公務員の制限)
 ①公務員は全体の奉仕者として、国民の規範とならなければならない。
 ②公務員の団体労働運動はこれを禁止する。労働に関する請願は人事局によって審査さ
  れ、改善、報告される。
 ③公務員、及び特定の親族は、法で定めた定額以上の金銭、物品の授受をおこなっては
  ならない。また、特定の団体、企業等の接受を受けてはならない。
 ④役職のつく公務員は、すべて会計監査を受けねばならない。また、公務員の投資活動
  は親族にわたって審査を受ける。
 
第92条(公務員の資格)
 ①18歳以上であり、日本国籍を有するものであれば、公務員の資格を有する。その資
  格には何の差別も許されない。
 ②公務員の採用は、すべて人事局がおこなう採用試験によるものとする。
 ③公務員の職にありながら、不法行為及び非道儀的な行為をおこなったものは、行政裁
  判所等で査問を受け、資格の存否を問われる。
 ④国民より公務員の解職請願を受けた場合は、人事局によって審査され、議会に報告さ
  れたのち、採決される。
 ⑤その他の人事規定は別法によって定める。

第93条(準公務員の規定)
 ①国家資格を持ち、なおかつ国、公共機関から委託された業務をおこなうものは、準公
  務員と規定される。
 ②その他準公務員に対する規定は、別法で定める。

第94条(公益団体)
 ①公益団体は、公共の理念に沿って設立される団体であり、過剰な利益追求、および一部
  のみの利益になるような行為は認められない。
 ②公益団体の維持は、原則的に団体の会員からの運営費用によってまかなわれ、それ以
  上の費用は立法議会への請願によって審査され、まかなわれる。
 ③公益団体は、不適当な公益サービス、及び団体に所属する職員のサービスの為の出費を
  禁じる。
 ④公益団体の監査は、議会によって行われる。
 ⑤公益団体には、活動実体のない役員、職員の存在は許されない。また公益団体の役
  員、職員の兼任は規制される。
 ⑥公益団体職員は、全て準公務員として身分を保証される。

   第6章  裁判所 司法権  

第95条(司法権)
 ①すべて司法権は、最高裁判所と、その下に設置される各下級裁判所、行政裁判所、司
  法官会議に属する。
 ②特別裁判所はこれを設置することは出来ない。また行政機関、及び自衛軍が独自で裁
  判を行うことは出来ない。

第96条(司法機関、裁判官の独立)
 ①すべての司法機関は、法及び道義的な良心に忠実となって職務を遂行し、その権限の
  独立はこれを保障される。
 ②いかなる権限を持った国民、集団、組織であっても司法権に対し、法で認められる範
  囲以外の運動及び圧力をかけてはいけない。
 ③裁判官は、その身分に伴う公平性を確保するため、いかなる組織にも属してはならず、
  法で認められた範囲以外での利益も受けてはならない。

第97条(最高裁判所の規則制定権)
 ①最高裁判所は、訴訟に関する手続き、法律士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に
  関する事項について、司法官会議で検討された内容を、規則として定める権限を持つ。
 ②検察官は、最高裁判所の定める規則に従わなければならない。
 ③最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任すること
  ができる。

第98条(違憲審査制)
  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則、処分が憲法適合するかどうか決定する権限
 を持つ終審裁判所である。

第99条(最高裁判所の法規解釈権)
 ①最高裁判所は、すべての法規に対して、法規公布時に公式の解釈を開示する。
 ②法解釈は、議会、行政官庁の意見陳述、司法官会議の提言を基に行われる。
 ③国会は最高裁判所の法規解釈に対し、議員の賛意を得れば異義を唱えることが出来
  る。

第100条(裁判官の資格)
 ①裁判官は、30歳以上の日本国籍を有するものが、資格試験の結果によりその権利を
  取得できる。
 ②裁判官は人格、公平性を保つため、永続的な資格ではなく、10年ごとに資格審査を
  受けなければならない。
 ③裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務をとることが出来ないと決定された
  場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。また裁判官の懲戒処分は、
  行政裁判所による検討を経て、国会において決定される。

第101条(最高裁判所長官、裁判官)
 ①最高裁判所の裁判官は、司法官会議によって推薦された候補者より議会によって選定
  される。
 ②最高裁判所の長官は、最高裁判所の裁判官の中から国民の投票によって選ばれる。
 ③最高裁判所の長官、及び裁判官の任期は5年とする。裁判官は、国政議員の任期が切
  れる前の議会で選定される。そして最高裁判所の長官は、国政議員選挙と同様の日程で
  選挙がおこなわれる。
 ④最高裁判所の裁判官の報酬、定年等は別法にて定める。

第102条(下級裁判所の裁判官)
 ①下級裁判所の裁判官は、司法官会議に推薦によって、議会で選定される。
 ②裁判官の任期は5年とする。
 ③その他裁判官の報酬、定年等は別法にて定める。

第103条(裁判所の構成)
 ①すべての裁判所は、最高裁判所の下、設置される。
 ②一般の法律に対する審査は、地方裁判所によって審査され、また再審査として、高等
  裁判所が設置される。
 ③地方裁判所内に、簡易裁判所、家庭裁判所が設置される。
 ④行政権の審査、議員、公務員など公務に携わる者の、軽犯罪以上の裁判、また国民の
  義務への不参加理由などの審査は、行政裁判所によって行われる。その再審査は高等行
  政裁判所において、再終審は最高裁判所となる

第104条(司法官会議)
 ①司法官会議は、最高裁判所の補助機関として設置される。
 ②司法官会議は、すべての裁判官、検察官、法律士から選定されたものによって構成さ
  れる。
 ③司法官会議は毎年2回開かれる。
 ④その他の要件は、別法によって制定される。

第105条(司法官会議の職権)
 ①裁判官等の人事の推薦。
 ②法範囲解釈及び、法の改廃に対する議会への提言。
 ③裁判官、検察官、法律士の規則、規定の改廃を最高裁判所に提言
 ④裁判官、検察官、法律士の労働環境に対する提言。
 ⑤義務教育における、法社会教育の内容等の提言

第106条(裁判の公開)
 ①裁判の審査及び判決は、公開法廷でおこなわれる。 
 ②国の安全保障上の問題、また犯罪被害者への配慮等の理由で、裁判の全または一部の
  非公開が要請されたとき、裁判官の全員一致によってのみ、その条件をかなえられる。
 ③政治犯罪、国民の権利が問題となる事件に関しては、常に公開しなければならない。

第107条(裁判の迅速化)
 ①裁判官は、裁判の迅速化を促すため、その資料の提出、審査の日時などを指定するこ
  とができる。
 ②意図的な裁判の遅延、妨害は処罰することができる。
 ③裁判における、承認、参考人は、裁判所の指定した日時を優先的に従う必要がある。
 
第108条(法律士の職権、制限)
 ①法律士は担当する案件において、公務員と同等の調査権を持つ。
 ②法律士は良心に基づき法に相対せねばならず、法の及ぼす範囲を理解し、利益のため
  に曲解してはならない。
 ③法律士は、依頼人の代理として裁判に参加し、検察に対し助言できる。
 ④その他詳細は別法にて定める。

  第7章  安全保障

第109条(国防軍の設置)
  日本の安全保障、世界の平和維持、大規模、広域災害の鎮圧、救助のために国防軍を設
  置する。

第110条(侵略の禁止)
 ①国防軍は安全保障の観念のもと設置され、いかなる侵略行為にも協力してはならない。
 ②軍の力によって、他国の領土の割譲、及び租借を行ってはならない。
 ③他国の侵略活動に対し、国家、国防軍はいかなる協力をしてはならない。

第111条(災害救助活動)
 ①国防軍は、各地で起こる広域事故、災害に対し、内閣の判断によって救助活動を行う。
 ②広域事故、災害発生時には、該当地の国防軍は出動し、各地域公共団体の首長の指揮
  を仰ぐ。
 ③地域の災害訓練活動に参加し、防災等の啓蒙を行う。

第112条(国際活動)
 ①国防軍の海外派遣は、国際機関の承認、要請によって行われる。
 ②国際的な侵略及び破壊活動の阻止、及び治安維持のために国防軍を派遣する時は、議
  会による承認が必要となる。
 ③大規模な災害が起きた場合の救助活動で緊急派遣を行う時は、内閣の承認のみで行え
  る。その後議会に対し報告を行う。

第113条(大量破壊兵器、化学、生物兵器の製造、保有禁止)
 ①国防軍は安全保障のために存在し、無差別に人命を奪い、また国土を破壊する核兵器等
  の大量破壊兵器、化学、生物兵器の製造、保有を禁止する。
 ②大量破壊兵器等の指定は、議会によって行われる。
 ③国防軍は、国民に対し大量破壊兵器、生物、化学兵器に対する危険を啓蒙し、その防
  衛に心がけなければならない。

第114条(交戦権)
 ①交戦権に関する判断は、すべて内閣が行い、議会の承認を受けなければならない。
 ②交戦に関する記録は、すべて内閣に提出しなければならない。
 ③緊急交戦のある可能性の時は、内閣にその判断は委ねられる

第115条(文民統制)
 ①国防軍の最高意思決定者は、首相となる。
 ②国防軍の使用に関しては、国会の同意が必要となる。
 ③緊急時の安全保障及び災害救助に関しては、内閣の同意が必要となる。
 ④軍政を行ってはならない。
 ⑤国防軍内における犯罪等の裁判は、行政裁判所にて行われる。
 ⑥軍の構成、人事、補給等はすべて内閣で策定され、国会の承認を必要とする。

第116条(軍人の制限)
 ①軍人には参政権は与えられない。
 ②軍人の職務上の行動はすべて記録される。
 ③軍人は政治的に中立であり、いかなる政治組織にも属してはならない。
 ④軍人は金銭、物品の授受を行ってはならない。また、会計局の監査を受けなければな
  らない。
 ⑤その他、国会で決定された法令に従わなければならない。

第117条(国民による国防、救助義務)
 ①国家の安全保障は、その専従的な力を極力抑えるために、国民自身の力によっておこな
  われ、この協力を義務とする。
 ②全ての国民は18歳より25歳までの間に一回、また40歳より50歳までの間に一
  回、期間を半年として国防軍の訓練に参加することを義務づける。その間の給与等は国
  家が一律で支給する。
 ③国防、救助の訓練義務は、該当する年齢次に抽選によって選出される。その義務の拒
  否、また延期に関しては、行政裁判所の審査を受ける。
 ④訓練時は国防軍の指揮下にはいり、その配属は議会の決定に従う。
 ⑤訓練終了後も、2年間の間は国防軍の軍属として所属する事が出来る。その間の給与は
  国家が支払う。
 ⑥安全保障の緊急時、または大規模災害の発生時において、議会より非常呼集を受けた場
  合、それに応じなければならない。

第118条(日本国内における武器、凶器の携帯禁止)
 ①日本国民、及び日本国内に滞在する外国人は、許可なく武器、凶器を携帯、販売、使用
  してはならない。
 ②武器、凶器については別法で詳細を定め、新たな追加は議会によって為される。
 ③武器、凶器を保有するものは、必ず届けを出し、審査をされなければならない。また定
  期的に監査を受けなければならない。

第119条(国土の利用)
 ①軍の要請があり、議会の承認があれば基地を建設できる。その場合、周辺の住民に対
  し、十分な説明と保障が必要となる。
 ②国防軍による公共施設の使用等に対しては、事前に通告しなければならない。
 ③夜間、早朝等の演習に対しては、周辺の住民に十分配慮した計画を立てなければなら
  ない。
 ④緊急時に国土を収容しなければならないときは、内閣の許可が必要であり、事後に十
  分な保障を行わなければならない。

第120条(情報の公開)
 ①国防軍に関する情報は、安全保障上の問題の為、すべて内閣を通して公開される。
 ②安全保障上の情報に関して議会が公開を要求した場合、内閣はこれを否認してはなら
  ない。ただし議会は情報を許可なく外部に公開してはならない。
 ③国民から安全保障上の情報請求があった場合、議会でこれを審査し答える義務を持つ。

第121条(軍の緊急判断権)
 以下の場合、軍の出動、行動判断は現場の裁量に任せられる。但し、事後の行動は全て記
 録されなければならない。
 ①日本国領界内において、武器を保有した人間、建築物、乗り物などが確認され、
  相手方より発砲された時。又、武器が強力である故に牽制の必要を感じた場合。
 ②日本国領界内において、国民が武器による攻撃を受け、助けを求めてきた時
 ③日本国領内界において、武器によって攻撃され、その攻撃が原因で通信手段がとれず、
  引き続き攻撃を受ける時。
 ④緊急災害時に、通信手段がとれず、尚かつ救助活動を行わなければならないと判断し
  た時。
 ⑤緊急災害時に、国民が助けを求めた時。
 ⑥国際協力派遣時に、担当地域で上記のような条件が起きた場合。
 緊急判断権の事後の検証は行政裁判所が行い、その後国会にて報告される。

第122条(非戦闘員の保護、捕虜の尊重、文化遺産等の保護)
 ①交戦において非戦闘員と判断されたものは、これを保護しなければならない。
 ②戦闘地域での略奪、及び非戦闘員に対しての暴行、脅迫は認められない。
 ③降伏し、武器の形態が認められない兵士は、捕虜として保護しなければならない。
 ④捕虜に対しての暴行、脅迫及び過酷な労働は認められない。
 ⑤戦闘地域における文化遺産等の保護には十分配慮しなければならない。

第123条(外国駐留軍)
 ①外国の軍隊による永続的な駐留は認められない。
 ②外国軍による補給、救助等の要請は、内閣によって判断され、議会の承認を受ける。
 ③大量破壊兵器、生物、化学兵器の国土への持ち込みは、外国の軍隊であっても認めら
  れない。

第124条(国防軍の解散)
 国防軍は、以下の目的が達成された場合解散する。その場合、災害救助などを主とする新
 たな部隊は設立される。また安全保障は警察、もしくは別に設立する新たな部隊に任せら
 れる
  ①日本国国境の国際的な認知と確定。
  ②大量破壊兵器及び生物、化学兵器の全廃。
  ③国際的な共同軍が創設されたとき。もしくは軍事力の廃絶が国際決定したとき。
  ④国民投票によって廃止を決定したとき。

  第8章  財政

第125条(財政処理の基本原則)
  財政は国民から徴収された税が中心となるものであり、その健全性は常に確保され、そ
 の処理する権限は、議会の採決に基づいて、行使しなければならない。

第126条(租税法律主義)
 ①新たに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によ
  ることを必要とする。
 ②租税制度は簡明でなければならない。

第127条(国費の支出及び国の債務負担)
  国費を支出し、又は国が債務を負担するには、議会の採決に基づくことを必要とする。

第128条(国債、及び自治体、公的機関の債権)
 ①国債などの、公的な債務は、全て将来の国民が負担するものであり、その不履行は認め
  られない。
 ②国債、自治体、公的機関が発行する債券は、その年の予想収入の3分の1を越えてはな
  らない。
 ③5年以上連続して、同一機関で債券を発行する事は認められない。

第129条(予算の作成と議決)
  内閣は毎会計年度の予算を作成し、議会に提出して、その審議の採決を経なければな  
 らない。

第130条(予備費)
 ①予想できない事態に対処するため、議会の採決に基づいて予備費をもうけ、内閣の責
  任でこれを支出することができる。
 ②予備費の内容については議会に報告しなければならない。

第131条(皇室財産、皇室費用)
 ①天皇の国事行為及び一般支出は国費から出され、議会の承認を得ねばならない。
 ②皇室の持つ財産は、すべて国に属する。

第132条(公の財産の支出、利用提供の制限)
 ①公金を一部の組織や団体の利益のために使用してはならない。
 ②宗教行為に対する公費の使用はこれを許可しない。
 ③国で認められない、慈善、教育、文化、博愛の事業への公費の支出は認められない。
 ④公費の補助を受けている団体に対しては監査を行い、目的から逸脱した使用等に関し
  ては、利用の制限及び返還を求める。
 ⑤年金は、功労金として国家に特別に寄与した人間に与えられるものであり、永続的で普
  遍的な制度にはなり得ない。

第133条(軍事費負担の制限)
 ①軍事費の国庫負担は最大で10パーセントを超えてはいけない。
 ②軍事上の理由で、新たに税制度を設けてはいけない。
 ③軍事費の詳細の公開は、議会の承認が必要である。

第134条(国費による利益約束の制限)
  財政は、現在の国家活動等で使用されるものであり、債務をのぞき、国、又は公共機
 関が、将来の金銭的な利益を約束することを禁じる。
 
第135条(会計局)
 ①行政、司法、国防軍、皇室の会計監査は、議会直属の会計局がおこなう。但し、会計
  監査およびその業務は公平性を保つため独立した権限を持つ。
 ②会計監査時に何らかの疑義が生じた場合、会計局に独自の調査権が与えられる。この
  調査権には、関与する人間の拘束及び資料の押収などの権限も与えられる。ただし、
  調査はすべて記録され、行政裁判所に提出される。
 ③会計監査において不正等を確認した場合、即時に議会へ報告し、議会より行政裁判所
  へ審査依頼をする。
 ④会計局は、年次監査を議会へ提出し、またそれを公開する。
 ⑤会計局長は国民から議会が指名する。公共の機関に属するものの兼職は認めない。
 ⑥その他の要件は、別法にて制定されるものとする。

第136条(内閣の財政状況報告)
  内閣は国民に対し、少なくとも毎年2回、国の財政状況について報告しなければなら
 ない。

  第9章   地方自治、地域共同体
第137条(地方自治体の区分)
 ①国家の中における行政、政治的な区分として地方自治体を設ける。
 ②地方自治の区分は以下の通りとなる。
  都、府、県・・都は首都としての機能を持つ地方自治体であり、府は県の地域的集合で
         ある地方の首府的な存在となり、県は市町村をまとめた区分となる。
  市・町村・・・市は各県の中において区分された自治体であり、町村は市の中で区分さ
         れた地域共同体の名称となる。
  地方・・・・・地方は広域の県の集合となり、その中心は府となる。
  離島、島嶼部、山岳地域・これらの地域は国の直轄化に入る。
 ③地方自治体の区分は、議会の承認をもって行われる。

第138条(地方自治の基本原則)
 ①地方自治体の組織及び運営に関する事項は、すべて憲法の理念に則った法律で定め
  られる。
 ②地方自治の政策、行政事務の責任は、すべてその規定された地域が担う。
 ③地方議会、行政の制度、組織は国に準じ、憲法で定められた範囲を超えてはならない。

第139条(地方公共団体の権能、条例制定権)
 ①地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、行政を処理する権能を有する。
 ②法律の範囲内で条例を制定することができる。条例の拘束力は10年までとし,罰則
  を付帯できる。
 ③条例の、憲法の整合性と解釈権を確認は、行政裁判所によって行われる。

第140条(地方公共団体の制限)
 国は、公共的な面から以下の地方自治の権限を制限する。
  ①義務教育学校の運営
  ②主要幹線道路の運営、管理
  ③司法の広域捜査の権限
  ④廃棄物回収、処理の権限
  ⑤その他議会によって法令化された権限

第141条(特別法の住民投票)
  特定の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地
 方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、議会はこれを制定す
 ることができない。

第142条(地方債の発行)
 ①地方公共団体の発行する債券は、法令によってその発行量を制限される。
 ②地方公共団体の財政が再建による依存度が高い場合、政府は地方公共団体に対し警告
  を発する事が出来る。
 ③再建の依存による運営が大きい地方公共団体の財政は、国の会計局による監査が必要
  となる。

第143条(離島、島嶼部の自治)
 ①国内の離島、島嶼部の自治権は、法の定めた海域によって集約される。
 ②離島、島嶼部の予算は、国の予算配分を各自治体が議会で策定する。
 ③行政事務は、国によって一元化されるが、予算の範囲であれば各自治体で独自のサー
  ビスを行う事が出来る。

第144条(山岳地域)
 ①自然環境、資源を守るため、また自然災害に備えるために、自治体の範囲を越える山岳
  地域は国の直属下とする。
 ②山岳地域の土地の売買いは、原則として認められない。
 ③山岳地域の保護、開発は、国の管理下に置くものとする。またその利益も、国庫に収容 
  される。

第145条(地域共同体の意義)
 ①地域共同体は最小の行政組織となり、町村としてその区分が定められる。
 ②すべての国民は、居住地域の地域共同体に帰属し、参加しなければならない。
 ③すべての国民は、地域共同体に化せられた行政義務を公平に分かち合わなければなら
  ない。

第146条(地域共同体の限界)
 ①地域共同体は、公共の義務以上の制約や強制を、個人に課す事は出来ない。
 ②地域共同体における規則制定は、所属する住民の同意が必要であり、憲法その他法律の
  範囲を逸脱してはならない。また、罰則を設けてはならない。

第147条(地域共同体の運営)
 ①18歳以上65歳未満の成人は、地域共同体の構成員としての役割を公平に果たさな
  ければならない。
 ②地域共同体の運営予算は、地方自治体から支給される費用と、共同体員からの毎月の運
  営費の徴収によってまかなわれる。
 ③行政義務は、各1年間、持ち回りで執行しなければならない。また、行政裁判所に認
  められた理由以外、これを拒否してはならない。
 ④地域共同体の構成員は運営に対し忠実に履行しなければならず、義務について無断で
  代理を認めたり、金銭、圧力による交代などを行ってはならない。同一の職、義務を連
  続でおこなってはならない。

第148条(地域共同体の行政義務)
 各地域共同体は、以下の行政義務を所属する個人に課さなければならない。行政義務
 を施行する国民は、準公務員として扱われる。
 ①地域共同体の長、及び役員業務
 ②地域共同体の保安業務
 ③地域共同体に所属する義務教育対象生への道徳教育
 ④地域共同体の環境整備業務
 ⑤地域共同体に所属する受護者の生活補助、介護補助
 ⑥地域共同体の伝統的な行事、及び文化事業の実務者
  細則は別法にて制定する


  第10章   教育   

第149条(教育の理念)
  日本国における教育は、国民の持つあらゆる未知の機会のため、また未来へと続く民
 主主義社会の為に、学問、道徳、法社会に渡るすべての内容を国民に対し公平に行い、同
 時に個人の才能の育む、均衡のとれた教育を目指し、実現することを国家が保障する。

第150条(義務教育の平等)
 ①義務教育は、すべての国民に平等に行われ、これを阻害してはならない。
 ②義務教育は、公的な機関を利用する事に限り、無償で行われる。
 ③義務教育は、国によって運営され、地域による格差を是正しなければならない。

第151条(義務教育期間)
 ①義務教育の期間は、原則として初等学校6年、中等学校3年、高等学校、高等専門学校
  3年の計12年となる。
 ②個人の能力によって早期修了、又留年は認められる。

第152条(教育の内容)
 ①教育の内容、カリキュラム、教科書は、原則的に国の教育行政によって定められる。
 ②義務教育における地域教育の内容、また副読本などは、各教育委員会によって定めら
  れる。
 ③義務教育学校の教師は、生徒に対し、個人の思想、信条等を強制してはならない。ま
  た政治的志向を教育上で現してはならない。
 ④定められた教育の期間中、教育の妨げになるような活動行為は禁止される。

第153条(学校の設立)
 ①国家は義務教育に関わるすべての学校の、施設、環境を整え、学校を開設する義務が
  ある。
 ②私立の学校の設立は、これを認める。但し、公共の財政からの支援は制限される。ま
  た私立学校生への行政による援助は行わない。

第154条(大学校)
 ①国家は必要な人材を育成するために、大学校を設立する。
 ②国立の大学校の地域格差は是正される。専門的な学習は、その部がある地域に出向き、
  学ばなければならない。
 ③大学校の研究等で生じる利益は、その案者と学校によって二分される。また組織、機関
  等からの契約に基づく利益は、契約者と学校によって二分される。
 ④大学校への入学を人数以外に制限してはならない。学習を必要とする国民が、選考で及
  第すれば誰にでも門戸は開かれる。
 ⑤大学校は教育のための機関であり、それとそれに準じる活動以外は認められない。

第155条(教育委員会)
 ①地域公共団体の枠の中で、義務教育に対する諮問機関として教育委員会を設置する。
 ②教育委員会の委員は、該当地域から選挙によって選ばれ、任期は3年となる。
 ③教育委員会の委員の連続しての再選は認められない。
 ④教育委員会は、該当地域からの教育上の請願を受けたとき、調査する権限を持つ。
 ⑤その他細部の要件は別法にて定める。

第156条(国家資格)
 ①国家資格はすべて10年の期限を持つ。
 ②3期にわたり資格を継続したもの、及びその資格に対し十分貢献したと認められたも
  のは、永続的な資格を得ることが出来る。
 ③国家資格に対し、公認されていない学校による教育は認められない。また、資格は、
  十分な知識、経験を必要として得られるものであり、資格試験専門の学校、私塾、
  教科書などは認められない。

  第11章  産業  金融

第157条(公平な競争の維持)
 ①産業、金融の育成、発展を阻む独占的な企業及び企業連合の設立は禁止する。
 ②巨大な寡占力を背景とした不当な原価価格の引き下げ、設計の開示等のあらゆる企業
  圧力を禁止する。
 ③公平な競争の維持を確保するため、公平競争維持委員会を設け。議会に直属する。

第158条(労働報酬)
 ①利益を目指すすべての企業、組織は、雇用者に対し、正当な労働報酬を支払わなくて
  はならない。
 ②労働報酬の種類は、金銭等だけではなく、雇用者との契約によっては、住居、物品等
  での支給も認められる。但し、生活を補償する金銭の支給は行わなければならない。
 ③労働経験、資格以外での、男女、年齢、学歴、外国人等の条件による労働報酬の差別
  は認められない。

第159条(産業、企業、組織の遵法、広益性)
 ①日本国に籍を置く、企業、組織、代理店は、すべて日本国の法例を守らなければなら
  ない。また、企業の定める規則等は、憲法の定める範囲を逸脱してはならない。
 ②すべての産業、企業、組織は、広益性の下に存在している。
 ③広告、表示、説明において、誇大な表現、虚偽等は認められない。
 ④道義的に認められないものに関しては、制限されることがある。

第160条(生産、製造物責任)
 ①日本国内におけるあらゆる生産、製造物には、生産、製造者の責任が求められる。
 ②生産、製造物には責任期間が設けられ、その間の販売に関しては、生産、製造者の責
  任を求めることができる。責任についての判断を下すのは、裁判所となる。責任期間
  後の販売はすべて、購買者の責任となる。
 ③輸入製品等に関しては、すべて販売者が責任、及び責任の代理を負う。裁判によって、
  生産、製造者に責任が認められた場合、販売者が代理で保障をおこなう。
 ④生産、製造、販売において、未確認及び理解できないものを消費者に提供した場合、
  その責任はすべて生産、製造、販売者に帰属する。

第161条(不当価格の禁止)
 ①商品、サービスの通常価格は、原材料、開発設備、労働力等から割り出される公正な
  ものでなければならない。
 ②購買力を以て、生産者に価格圧力をかけることを禁止する。
 ③虚偽の情報による価格操作はこれを認めない。

第162条(過剰な金融投資の制限)
 ①過剰な金融投資は制限される。
 ②金融投資の制限は、国際市場の動向と協調に従い、議会によって決定される。

 第12章   外国人

第163条(外国人の身分)
①外国人に対して日本国民に課せられる義務は発生しない。
②外国人の長期滞在は、本国の許可と、日本における審査が必要となる。
③外国人の身分は本国に帰属し、その保護や保障も、原則的には本国に責務がある。

第164条(外国人の制限)
①外国人の土地取引は原則的に認められない。また第三者を通じての所有も認められない。
②外国人に対して、人道的な危機が見られない限り、特別な権利や公的な支援は与えられな
 い。
③滞在中の外国人の不法行為は、国内法によって裁かれる。ただし条約によっては、その刑
 務は本国に送還の上、服するものとする。

第165条(外国人の日本国籍取得)
①外国人が一定期間を日本ですごし、また本国への帰還の意志が無いとき、審査を経てに日
 本国籍を取得する事が出来る。
②日本国籍を取得の際に、新たな姓氏を設定する事が出来る。ただし、その姓氏に続く名前
 を変更してはならず、出身国の名前を使用するものとする。

第166条(外国人の保護)
①国内において事故、または災害に被災したとき、国家は外国人を保護する義務を持つ。
②外国人の政治的亡命は、議会の承認を経て、認められる。
③外国人の労働報酬等は、国内の基準と同じであり、差別してはならない。
④国際機関より、外国人の保護要請があった場合、議会の承認をもって受け入れる事とす
 る。







                   山田  忠弘