2012年4月29日日曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(3)


しかしながら、私たちはこのような繋がりを認識し辛い。家族や友人、職場の仲間や同人サークルは、皆、自己を中心とした目に見える繋がりであり、これらの他者は、自分の生活に直接的なかかわりを持つものであるため、認識しやすい。自己に情報を与え、その感情形成に大きな影響を与えた人達であり、また自己の肉体的な成長に対しても、大きな力を与えてくれた。これらの身近な他者がいなければ、自己の成長、生存の持続はあり得なかった事である。またそれらの他者は、自分の将来においても、力強い協力者にもなる。自分たちが困った時、また助けを必要とした時、彼らとの繋がりが緊密であれば、その助けを得る事が出来るだろう。そして逆の場合、他者が助けを求めた時、それを助ければ、他者との緊密な関係は維持され、それは信頼となって返ってくる。そういう関係こそが、国家の基盤となるのである。
だが、それと同じぐらい、見知らぬ他者、つまり直接的なかかわり合いを持たない人間達も、自己に影響を与えている事を見過ごしにしてはならない。彼らがいなければ、私たちの生の存続は無い。彼らが様々な職業につき、その役割を果たしているからこそ、私たちは自分の役割を果たせ、その結果自己の価値を、つまりは給与などを得る事が出来、その生の存続が達成されるのである。もし見知らぬ他者がいなければ、私たちは彼らが生産するものを、自己によって生産しなければならなくなる。自分が学生なら、サービス業、製造業に従事しているのなら、農業を営む者がいなければ食料が手に入らない。またたとえ各種の職業に就く人間がいたとしても、学生時代がなければ、健全な、次代を切り開く人間は育たない。そういった観点から見れば、私たちは目に見えなくても、相互に関連した生活を営んでいるのであり、そしてそれによって共存をおこなっているのである。
国家とは、この共存社会をより持続させるという、一つの目的を持つ集団である。その手段は「分業」、「自衛」、「祭祀」など様々あるが、様々な歴史を踏まえた現在では、さらに「教育」や「金融」、「社会福祉」などの手段によってその集団を持続させようとしている。しかし共存社会を保つ手段として最も必要なのは、「分業」による「自給」と「自衛」であろう。

2012年4月27日金曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(2)


ここで誤解を招く前に1つ言い添えると、私は国家と政府を混同しない。国家はあくまでも個人の集合体であり、それは様々な情報の共有によって繋がる集合体としている。政府はその代表機関であり、また執行機関であるに過ぎない。ゆえに家族や地域社会、学校などにおける人とのつながりが、皆、国家の構成者なら、また様々な規範、権利などが最終的に国家に帰属しているのならば、私たちの生活は国家の恩恵を受けているといえ、またそれを必要としているのならば国家を必要としているといえるはずである。
「一人で生きられないという事はない」、そう言い切る人間もいるだろうし、また進んで他者との関係を絶ち一人で生きようとする人間もいる。私たちは生きてゆくために様々なものを必要とするが、現代社会においては、それを自分が持つ金銭で購うい、そろえる事が出来る。食料から家電製品、また様々な情報まで、金銭によって手に入らないものはなく、また多くの機械は生活をサポートする能力がある。だがよく考えると、それらのものは、自分一人の力で手に入れられるものでは無く、必ず関わる見知らぬ他者がいるといえるだろう。例えばテレビを自分の物とするのに、いったいどれぐらいの人間の手を経るのか。その原料から、製造工場、流通業者から販売業まで、またその製造を支える工作機械や、販売における宣伝など、1つのものに対して、実に多くの人間の関連性が伺える。それは食料品においても同様であるし、またサービス業もそうである。自分の使っているパソコンは自作だから、他者の手を経ずオリジナリティ溢れたものだというかもしれないが、では、それを構成する部品1つ1つ、CPU、やグラフィックボード、ディスプレイまでを自作したのか、その材料は集めてきたものなのかと考えると、最終工程は自作とは言え、やはり多くの人の手を経てきた事には変わりない。たとえ一人で部屋に籠っていたとしても、食料の調達、部屋の電気、トイレにおける水に至るまで、一人で生み出せるものなど全く無いのであり、常にそこには他者の手が関わっている以上、私たちは他者との繋がりを避ける事は出来ないのだ。
また世捨て人、という人間種もいる。彼らは自己の生活を自身の手で執り行い、その欲求を捨て、他者と関わらない生活を送っている事を誇りとするが、では、彼らが国家に庇護されていないのかと言えば、決してそうではない。彼らが国家の規範外の人間であるならば、その身の安全は保障しかねないが、彼らが生存し続けられるのは、国家と言う様々な規範を守る集団内にいるからである。また彼らが同ここまで成長したのかを考えれば、それは一人で成長したのでは無い以上、国家の庇護を受けていたのである。その事を忘れ、自分一人だけ国家の圏外に置こうとする行為は、私には忘恩の行為であるとしか感じられない。

2012年4月25日水曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(1)


国家とは何か、私たちは既に生まれた時よりそこに属しているので、そのことについて知ろうとする事を忘れている。日本という国家が、「現在どのような状態であるのか」、「今後どのようにするべきか」、「昔はこんなによかった、悪かった」、などを論じる事には熱心であるが、「国家とはそもそもなんなのか」、という事を語っている人間はあまりにも少ないように思える。理想論などではない、方法論でもない、ただ「それはなんなのか」、私たちは常にそれを見過ごして国家を論じようとするが、それを深く追求しない為に、自己の欲求と国家を同期させてしまう。それゆえにいつまでも政治が先に進まない、私にはそう思えて仕方がない。
では、改めて国家とは何か。それはまず個人の集合体である。
個人の生存目的、それは個々人の意識においては全く違うものである。しかし、人が死によってその終わりを迎えるのならば、その死まで生き続けようとするのは人間共通の欲求である。どんな崇高な意識を持っていても、自己の生存が危ぶめば、それを護ろうとして懸命になる。また、自己の死が既に決定的になった時、その死によって他者を生かす事が出来るのなら、またその死に意味を持たせようとするのなら、それもある種の生存の欲求である。肉体的には死すが、しかし他者の感情の中、記憶、記録の中で自己の行為が刻まれるのなら、それは生き続ける事と同義であろう。肉体の死だけでは無く、完全に忘れ去られる事、それもまた死であると言えるのでは無いだろうか。
そして個人は自己の生存を持続させようとして、他者と繋がることを求め、その繋がりが国家となる。そして国家とは原則的に自給によって維持され、その為に分業が行われる。これを一言で現す事は難しいが、しかしその存在意義で言えば、国家とは「共存社会」なのである。
「国家とは何か」に対しての答えを得る為には、まず「なぜ国家が必要なのか」という方面から攻めるのも良いだろう。
私たちは生まれてくる時、国家を選べない。成長したらそこに属するのを拒否する事も可能かも知れないが、しかし現実には、私たちはそこを離れられないでいる。それはなぜかというと、私たちは決して一人では生きられず、また私たちが成長出来たのは、周囲の人間と国家の恩恵を少なからず受けている事を認識しているからだ。

2012年4月23日月曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(5)


どんな政治運動を志す人間でも、これを心に刻み、たとえその身に傷を受けても、ぶれる事なく自らの信念を持続できれば大成できるはずである。そして政治的な行動と経済的な、価値獲得の行動を切り離す事により、政治的行動が日常生活において実は無害で、有益なものである事を実証しなければならない。よく政治運動家は、その目的を達成するためには自己の生活などを犠牲にすることをいとわないといい、そこに崇高な意志が存在していると誇らしく語る。しかしそれは嘘であり、彼は自分に酔っている、もしくは自分の犠牲によって他者から信頼や金銭などを得ようとしているだけである。現在が専制制度の時代ならば、そこで政治運動をおこなうには、そのような犠牲が必要になるかも知れない。人知れず、深夜に隠れ家に集まり同志を募る、専制者と同じ力を得るためには、その種は地中深く埋め、根を張らなければならない。それゆえにいつその芽が抜かれるかの覚悟をしなければならず、そのためには様々なものを犠牲にしなければならなかった事も確かである。
しかし現在は、彼らの犠牲によって、私たちは主権者として自由な存在である。同国民や他者を信頼し、彼らの自由を侵さなければ、言論も、選択も全てが自分の意志によっておこなえる。そしてそれが現在の政治運動の革新ならば、私たちにはどんな犠牲が必要なのだろうか。これ以上、どのような権利が必要なのだろうか。それ以上を欲すれば、それは誰もが欲しがるであろうし、そのためにはあらゆる手段を使わせ、闘争となり、私たちの日常は大きく狂う事になるだろう。そしてそこには多くの自己犠牲だけではなく、他者に犠牲を強いる事になるのなら、その当事者は専制者となんら変わりないのである。ゆえに私たちは日常を崩さずして政治的運動をおこなうためにも、企業や公務を侵さず、それをルールとして明確化し、それを護る事を達成できるはずである。
そして最後のものは、これまで繰り返し述べてきた、政治的行動に必要なもの、他者への信頼をルール化する事である。この事にたいしては説明しようと思わないが、しかしこのルールを定める事によって、本当に運動を志すものと、そうでない者との区別は出来るはずである。本当に日本を変えたいと思っている者は、同国民を信頼しなければそれが出来ない事はわかっているはずであるし、私たちは共存社会の一員として、他者の存在がなければ自己の生存が確立できない以上、他者を信頼する事は当たり前の事なのである。確かにこの事は口に出して言うほど簡単な事ではない。私も人見知りの方だが、それはやはり過去の経験などから、他者を無条件に信頼できないという気持ちがあるからである。しかし、国民運動は、こういった事を乗り越えねば達成できるはずが無いし、私たちは隣にいる人間の気持ちを知ることが出来ない以上、自分が正しい道を歩き、なおかつ他者を信頼する事でしか幸福になる事など出来ないであろう。それがゆえにこの意志をルール化する事で、大きな新歩へ踏み出す事が出来るのではないだろうか。こういったルールを作る事こそ、他者を信頼していない証であるという批判はあるかも知れないが、それは筋違いの事であり、今は無視したいと思う。
以上を持って、私が憲法を新たに制定するための運動方法について記し終わりたいと思う。ただ、繰り返し述べるようだが、これは私の案であり強制ではなく、このような方法論も、多くの意見を集約する事によってより良い者が出来るはずである。そういった者を持っている人に私は教えを請いたいし、それを無視する事はしたくないと思う。

2012年4月22日日曜日



 4月17日の勤務終了後、街頭演説をする予定でしたが、体調が思わしくなく、中止としました。
 4月21日は、今月最後の街頭演説でした。来月は、憲法記念日もあり、もう少し話題が増えると思います。
 皆様、よろしくお願いします。

2012年4月15日日曜日


 
本日も2時過ぎより、4時30分ごろまで街頭演説活動を行ってきました。
 少しカメラのアングルが悪く、お見苦しい映像で申し訳ないです。
 次回は4月17日火曜日、17時ごろより行う予定です。
 コメントなど、よろしくお願いします。

2012年4月14日土曜日

新歩会・4月14日街頭演説






 今月はじめての街頭演説です。


 なぜか知りませんが、予定日には雨が降ります。


 本日は、政党政治についてを中心に、憲法を変える理由を述べました。


 明日も時間が許せば、実行します。


 コメントなど、お待ちしています。

2012年4月12日木曜日

新歩会・4月の街頭演説予定


今月も、街頭演説を、相模大野駅北口デッキ上でおこないます。
日時・4月14日[土] 午後3時より午後5時まで
   4月15日[日] 午後1時より(未定)
   4月17日[火] 午後5時より午後8時まで
   4月21日[土] 午後1時より午後5時まで
 新学期が始まったばかりであり、行事や集まりが多いため、時間通りに行えないかもしれませんが、よろしくお願いします。見かけたら、お気軽にお声掛けして下さい。

2012年4月9日月曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(4)


3つ目は、政治的な運動のために企業の活動や公務を妨害しない事である。
政治的運動は、政治が人と人との関係の調整、またはそれに関する行為であるのなら、それは一部の集団に向けられるものではなく、全体に向けられるべきである。そして私が望む運動は、あくまでも私たち自身の日常を崩す事なく、平和裡で、穏健なものである以上、私たち自身の価値獲得の行動、いわゆる経済的活動を乱さず、また公務を妨害する事もあってはならない。日常の生活の資を得るために私たちは仕事をせねばならず、また私たちが仕事をして共存社会の中においての分業の役割を果たさねば、その共存社会が立ち行かなくなる。この分業形態の中に、もしかしたら無駄なもの、必要のないもの、余剰であると、各個人に感じるものはあるかも知れないが、しかしそれらも私たちが共有する価値体系の中にあり、そしてそれが必要としているのなら、それを卑下したり、無視したり、妨害してはならないのである。
日本の大衆行動の歴史は、それが政治的にも経済的にも、必ずそれは企業などの組織との闘争を付随すしてきた。政治と経済が切り離せぬ存在であり、私たち自身の生活にも直接的な影響がある以上それを止める事は出来まいが、しかし小利を追い求め、自己の欲求だけを満たそうとすれば、それが際限なく拡大し、押しとどめるには強権が必要となる。経営者が労働者の質疑に対して真摯に対し、その答えを明確にすれば、また労働者側も、その当初の目的以上の要求を、もしくは現状に会った妥協をおこなえば、起さずに済んだ事件や混乱は多々あるはずであるし、その収束もはやいため影響も小さくて済むのである。そして運動が小さいながらも、正当な手段によって持続できれば、その良心が共感を生み、さらに大きなものをつかめるはずである。正当な政治的行動こそ、どのような人間でも認めるものであり、万人の共感を得られれば、それは成功する。それゆえに、現在、私たちの生活手段に必要な価値獲得の行動を、遮り、妨害するような行動は認められないし、慎むべきである。
さらに言えば、憲法の新たな制定運動など、広義の政治的運動と企業活動などとの関連性は、直接的にはないはずである。その運動のためにストライキを起す必要性もないし、ヤミ専従のように、わざわざ仕事を休んでまでおこなうこともなく、就業が終わってからの個人的な時間、または土日祝日などにおこなうことでその達成は可能である。このような運動で基も肝心なのは、数を意識する事ではなく、個人個人が自己で情報をまとめ、意志を作り上げる事であり、それが自発的な集団となる。それゆえに集団として意志を共感とし共有する事も必要ではあるが、大切なのは一人一人がこの運動に対してどのような意義を持ち、またどのような理想を持つかにかかり、そして最終的には同国民を信頼する事にかかっている。実はこれこそが政治運動において最も難しい事ではあるが、しかしそれを達成せずば、よい国家は築けない。

2012年4月6日金曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(3)


1つは、新たな憲法の制定とそれに関する事、また現在の憲法の改正もしくは廃止などの選択は、必ず全ての国民、有権者によって行われるものとするルールである。憲法を変えるという事は、国家的な変革行為である。もちろん、運動が良心によっておこなわれ、それに対して圧力などがなければ、私たちの日常生活は、それほど変わる事のないまま、変革を迎えられるのであり、ルールなど必要はない。誰もがそれに関わることが出来れば、その責任は公平に分かち合われ、また誰もがそれに関わっている事が確認できるのならば、その選択は真摯におこなわれるだろう。
しかしもし、その選択が一部の人間しか出来なかったら、また国民が無関心のうちにその選択が実行されてしまったら、その選択の結果に対して多くの人間が不満を抱く動機となり、それは国家への忠誠にも反映される。私たちは同じ共存社会において生活している以上、それに対する選択は参加すべきであるし、選択に参加出来るからこそ、より国家意識を共有できるのではないだろうか。ゆえに日本の将来は、全ての国民によって選択されるべきであるし、この運動に対してだけでもそれが行えるように、ルールを明確化しなければならない。
2つ目は、この運動をおこなう国民は、全ての他者の自由を尊重し、それに対して強制や力を振るってはならないというルールである。政治運動は、その動的、静的関係なく、全てが数の力によって決定する。専制政治における主権者の交替はそのほとんどが闘争によって行われるが、例えばそれが戦争になれば、間違いなく数の力によってその勝利は決定するし、たとえその力が少なくても、それが多くの人間の生殺与奪を握っている事を知らしめる事が出来れば、それは多数として意識されそれに従うであろう。この例として、少数の軍によって行われる兵糧攻め、または権力者の買収などが上げられる。
民主主義において、全ての選択は投票によって決定し、それはもちろん多数決が原則となる。少数の意見や意思を尊重し、その機会を次に与える事は出来るが、しかし多数者に属する一人一人の意志もまた少数者と同じ重さである以上、その原則は守らねばならない。昨今の政治において、少数者の意見が無視されるとして談合に持ち込んだり、やたらにそのことを振りかざし少数者の意志を実現使用とする者がいるが、それこそ民主主義を馬鹿にする行為であり、多数者も少数者もその機会は公平に与えられている以上、多数決の原則は守られなければならない。しかしそれをよくわかっているからこそ、どんな方法によってでも体あらを得て、それによって多数を得ようとする人間がいるのもまた事実であり、それが権力者による独裁や衆愚政治を招くのも歴史において実証されている。
それゆえに多数を得るための方法としての原則を、最終的には本人が決定し選ぶ事であり、その邪魔をしてはならない事とルールによって定めるべきである。例えば政治家が、マニュフェストなどによって期待を抱かせるような事を言い、それを信じて投票するのは、もちろん当然の事であり、それを責める事は出来ない。その公約に作為や行きすぎがあるのなら、多少そのことは問題にしなければならないだろうが、しかし冷静に現状を知り、またその公約を良く知ろうとすれば、そのような作為は簡単に見破られるはずだし、またそのような事をおこなった政治家や政党には、次回選択の対象から外せば良いのである。それ故に余程悪質なものでない限り、言論などによって数を集めようとする行動は規制してはならず、選択者の良心に任せるべきであろう。
しかし、数を集めるために、他者の秘密を握りそれによって脅したり、また社会的な地位をつかって、もしくは集団の無言の力を背景にそれを強制しようとしたり、またもっと直接的に、金や暴力によってそれを行う事は絶対に認めてはならない。力を行使する事で数を得るのは容易いが、しかしそれは個人の選択の自由を阻止するものであり、またそのような方法をとらざるを得ない選択肢は、全うな運動では多数が得られないものであり、その質が良いものとは言えない。さらにその行使の容易さは、それを繰り返させ、またそれを感じたものに刺激を与え、それを模倣させる結果となる。そのような力の行使が乱立すれば、その運動はもはや当初の目的は忘れ去られ、ただ闘争の中で自己が勝ち進める事にすりかわる。またそれを意識して自己の力が弱いと感じれば、彼の理想がどんなものであろうと、力の大きさのため簡単に軍門に降り、頭を垂れることとなる。それ故に、このような力の行使は、絶対に排除するべきであり、それを認めてはならないのである。
デモ行進と警官隊の衝突、また運動家同士の内紛などは、その運動の目的とは全く別のところで行われるが、しかしその影響は運動全体に波及する。穏健なデモ行進に対して、政府がその数の多さを気にして妨害に乗り出せば、それを行う政府に対して国民は不信を感じ、より運動を過激にさせるが、そのようにして集まった人間は運動そのものの目的に共感した訳ではないといえる。また運動家同士の間で、ごくわずかな意見の相違、また感情的なもつれから分離する事はよくある事だが、しかしそれが暴力行為の背景になるのは、支配、被支配の関係だけでなく、主となる者にとってはそれによって自己の持つ数が減る事を恐れるからである。そしてそれによって維持した数も、運動の目的や本質とはまた別個のものである。それらは本当の選択力にはなりえない。現在の私たちには、法的に認められた言論の自由があり、また代表者である議員となる候補者を推薦したりする力もある。そして物事を推し進めるには、結局最後は正道に乗っ取るのが一番であり、それこそが多くの人間の理解を得られ、長く続ける事が出来るのならば、運動はそれによっておこなわれなければならない。それ故に他者を認め、力に頼らないようにするため、その明確なルールを作る事は絶対に必要であるといえよう。

2012年4月4日水曜日

私たちの目指すもの


神や仏が、この世、また違う次元に存在するのかどうかわからないし、確認もとれない。そういう考えの私は、無神論者とされるだろう。しかし私は神や仏のような超常的な力、既知宇宙の万物を越えた存在が「無い」というつもりもないし、極力否定もしない。なぜなら、それを確かめる術が無いからだ。そしてこの様な存在があるとも、無いとも言えない以上、それに頼り、すがるべきではないと思う。
かつて、私たちの先祖は、現在のように「知」で明かされた情報も少なく、また一般に普及していなかっため、この世の不思議、謎なもの、説明出来ない様々な物事を、神や仏など人を越えた存在を創造する事で、納得し、安心してきた。またそのような存在を認める共感によって、特定の共存集団を形成、維持し、その存在を探求する事で様々な思弁や理学が発展してきた。
例えば天気一般の現象について、その知識が不十分であった時、私たちの先祖は雨が降って欲しければ神仏に祈って雨ごいをし、雷が鳴ればへそを隠した。しかし現在では天気は予報出来るものであり、人工雨を降らす事も出来れば、雷の正体が放電であるということは小学生でも知っている。また暴力、殺人などが日常生活においてなぜ悪なのか、その説明が難しく、力が尊重、畏怖されていた頃、例えば人を殺害すれば地獄に落ちる、また死後の生まれ変わりにおいて畜生になるなど神仏の世界間を利用する事で、そうした力を抑える事が出来た。しかし現在は、様々な哲学や思想によって自己抑制の理由を自得出来るし、法によって抑制を強制し、その行為に罰を与える事が出来る。こうした歴史をかんがえると、私たちは随分と神仏の力を頼らずして、私たち自身の力によって自己を向上させ、共存社会を築き、維持出来るようになってきた。
一方で、私たちには解けきれぬ謎も多い。例えば死んだらどうなるのか、なぜ不幸な出来事が起こるのか、私たちが認識出来る世界や宇宙はどのように形成され、実存するものなのか、こうした事はいまだ証明出来ていない。こうした事を想像力を加味して利用する事で、娯楽、つまり小説やゲーム、アニメや映画、として楽しむ事が出来るが、一方で未開のため不安を誘引させ、神仏にいまだ依存しているところが多い。それは様々な儀式から物品の販売にまで密接にからみ、それによって生計を立てているものもいる。こうした儀式をになう宗教は、現在では理知や悟りの獲得のための修業よりも、過去からの惰性に依存しているようにも感じられる。
また宗教を背景とした不寛容も、現在の人類にとって大きな足かせとなっている。神仏がどのようなものか証明出来ない以上、人が何を信じようが他者に迷惑をかけなければ構わないと私は思うのだが、しかし現実には宗教対立は存在するし、自分の侵攻しているものを盾にして、自己の欲求の実現を図ろうとする者も多い。彼らにとって見れば、自己の信じるものが至高の存在なのかも知れないし、それによって様々な事を説明し、解決出来るのかも知れないが、しかしそれを証明したり、他者に理解してもらう事はなかなか難しい。それゆえ宗教の問題は個人に帰属され、政治や教育と宗教は切り離されるべきなのだが、どうもうまくいっておらず、宗教の数の力は様々な場所に影響している。神仏は世界中に形を変えて存在しており、そのどれがもっとも至高の存在なのか、誰も証明出来るわけではないのに、なぜ人は本来愛や善を教える宗教によって争うのだろうか。
私は、もう人間は神仏と距離を置き、私たち自身の力、人間が持つ知の力によって歩みはじめるべきではないかと思う。もちろん、人間の既知では説明出来ない事は多いが、それは神仏に頼ってまで理解するものなのであろうか。そしてこうした事を神仏に頼り続ける限り、私たちは現在以上に進む事は出来ないだろう。アダムとイヴが知恵の実を食べたことで、私たちは神仏を創造し、表現してしまった。そして一度多様性を持った私たちの種族が、自己の信ずるものが最高であると証明するために天まで届く塔を築き、争い、滅んだ。もちろんこれは、私の勝手な曲解である。しかし私には、一片の真理はあるように思える。
理解されるのは随分先かも知れないが、私は、人間が現在以上に進歩する事は、自らの力によって出来るものと信ずる。人が神仏を創造したのなら、人が未来を創造する事もできるのではないだろうか。

2012年4月2日月曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(2)


日本の現状を見れば、もはや統治者たるべき人間も、それを支える人間も、変化が間近に迫っている事はわかっているはずである。彼らにとってみれば、現在自分たちの持つ力を利用すれば、その変化を有利に引き寄せられると思っているだろうが、しかしそれが夢のようなものである事は第1部でも述べたので繰り返さない。それでも彼らが、もし自分の望む方へと変化を引き寄せようとするならば、それなりの強引さ、もしくは強権をも振るわねばならず、それに多くの人間が気付けば彼らに対して不満は生じ、混乱は避けえぬものとなるであろう。そのような動機によって引き寄せられた混乱は、必ず革命的な行動へと向かわせる事になり、結局は持てる者が奪われ、全ての国民が血と破壊の恐怖に晒される事になり、しかしそれは大衆が満足するまで終わらない。このような革命は、確かに国家の転回点となりえるが、しかしそれは国力の低下や、長期的な混乱の要因ともなり、私は必ず避けるべきものであると思っている。そしてこのような事を恐れるのであれば、力によって自己の安定を維持するのはやめて、国民、他者の良心に変化を、未来をゆだねた方が賢明であるといえる。
ただ、このように訴えたところで、全ての人間にそれが伝わる訳ではなく、行動する人間の数が多くなれば、その影に隠れて道に外れた事を行う人間は多いだろうし、またそれを自己の飛躍の機会とする人間も多いだろう。そしてそれらを感じる事で、政治的行動者に対して不安を抱く。そしてさらに言えば、私たちは既存の基準を、その解釈を専門とする人間(つまりは弁護士や政治家、またメディアなど)に依存するあまり、知らなさすぎるという欠点があるので、政治的行動に躊躇せざるを得ない。それはどういう事かといえば、自分たちの政治的行動がどのような法基準によって守られているのか、あるいは制限されているのか、また法基準に従った正当な訴えの方法をどれだけ知っているのかといわれれば、それを詳しく知っている者がどれだけいようか。例えば、街頭演説やビラを配る行為はどのような手順を踏み、どの程度まで許される事なのか、またもっと日常的に、例えば仕事の昼休みに、同僚などと政治的な話をして良いものなのか、自粛すべきなのか、自己の勤めているところではどのような基準が適用されているのか、知っている人間は総多くないはずであり、それがゆえに私たちは政治的行動に不安を抱いているのではないだろうか。なぜなら、もし基準を知らずして政治的行動をおこない、それがどんなに純粋な動機であったとし手も、現行の基準から踏み外れれば自己に災いが及ぶからである。だからこそ私たちは亀のように閉じこもり、政治的行動を慎むうちに関心もなくしてしまったのである。それ故に私は、もし新しい憲法を制定する国民運動を起すのであれば、その運動のための明確なルール作りは必須であり、それがなければ国民もその行動を起せないだろうと思うのである。
このルールは大きく4つに大別される。