2012年4月27日金曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(2)


ここで誤解を招く前に1つ言い添えると、私は国家と政府を混同しない。国家はあくまでも個人の集合体であり、それは様々な情報の共有によって繋がる集合体としている。政府はその代表機関であり、また執行機関であるに過ぎない。ゆえに家族や地域社会、学校などにおける人とのつながりが、皆、国家の構成者なら、また様々な規範、権利などが最終的に国家に帰属しているのならば、私たちの生活は国家の恩恵を受けているといえ、またそれを必要としているのならば国家を必要としているといえるはずである。
「一人で生きられないという事はない」、そう言い切る人間もいるだろうし、また進んで他者との関係を絶ち一人で生きようとする人間もいる。私たちは生きてゆくために様々なものを必要とするが、現代社会においては、それを自分が持つ金銭で購うい、そろえる事が出来る。食料から家電製品、また様々な情報まで、金銭によって手に入らないものはなく、また多くの機械は生活をサポートする能力がある。だがよく考えると、それらのものは、自分一人の力で手に入れられるものでは無く、必ず関わる見知らぬ他者がいるといえるだろう。例えばテレビを自分の物とするのに、いったいどれぐらいの人間の手を経るのか。その原料から、製造工場、流通業者から販売業まで、またその製造を支える工作機械や、販売における宣伝など、1つのものに対して、実に多くの人間の関連性が伺える。それは食料品においても同様であるし、またサービス業もそうである。自分の使っているパソコンは自作だから、他者の手を経ずオリジナリティ溢れたものだというかもしれないが、では、それを構成する部品1つ1つ、CPU、やグラフィックボード、ディスプレイまでを自作したのか、その材料は集めてきたものなのかと考えると、最終工程は自作とは言え、やはり多くの人の手を経てきた事には変わりない。たとえ一人で部屋に籠っていたとしても、食料の調達、部屋の電気、トイレにおける水に至るまで、一人で生み出せるものなど全く無いのであり、常にそこには他者の手が関わっている以上、私たちは他者との繋がりを避ける事は出来ないのだ。
また世捨て人、という人間種もいる。彼らは自己の生活を自身の手で執り行い、その欲求を捨て、他者と関わらない生活を送っている事を誇りとするが、では、彼らが国家に庇護されていないのかと言えば、決してそうではない。彼らが国家の規範外の人間であるならば、その身の安全は保障しかねないが、彼らが生存し続けられるのは、国家と言う様々な規範を守る集団内にいるからである。また彼らが同ここまで成長したのかを考えれば、それは一人で成長したのでは無い以上、国家の庇護を受けていたのである。その事を忘れ、自分一人だけ国家の圏外に置こうとする行為は、私には忘恩の行為であるとしか感じられない。

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