2012年4月23日月曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(5)


どんな政治運動を志す人間でも、これを心に刻み、たとえその身に傷を受けても、ぶれる事なく自らの信念を持続できれば大成できるはずである。そして政治的な行動と経済的な、価値獲得の行動を切り離す事により、政治的行動が日常生活において実は無害で、有益なものである事を実証しなければならない。よく政治運動家は、その目的を達成するためには自己の生活などを犠牲にすることをいとわないといい、そこに崇高な意志が存在していると誇らしく語る。しかしそれは嘘であり、彼は自分に酔っている、もしくは自分の犠牲によって他者から信頼や金銭などを得ようとしているだけである。現在が専制制度の時代ならば、そこで政治運動をおこなうには、そのような犠牲が必要になるかも知れない。人知れず、深夜に隠れ家に集まり同志を募る、専制者と同じ力を得るためには、その種は地中深く埋め、根を張らなければならない。それゆえにいつその芽が抜かれるかの覚悟をしなければならず、そのためには様々なものを犠牲にしなければならなかった事も確かである。
しかし現在は、彼らの犠牲によって、私たちは主権者として自由な存在である。同国民や他者を信頼し、彼らの自由を侵さなければ、言論も、選択も全てが自分の意志によっておこなえる。そしてそれが現在の政治運動の革新ならば、私たちにはどんな犠牲が必要なのだろうか。これ以上、どのような権利が必要なのだろうか。それ以上を欲すれば、それは誰もが欲しがるであろうし、そのためにはあらゆる手段を使わせ、闘争となり、私たちの日常は大きく狂う事になるだろう。そしてそこには多くの自己犠牲だけではなく、他者に犠牲を強いる事になるのなら、その当事者は専制者となんら変わりないのである。ゆえに私たちは日常を崩さずして政治的運動をおこなうためにも、企業や公務を侵さず、それをルールとして明確化し、それを護る事を達成できるはずである。
そして最後のものは、これまで繰り返し述べてきた、政治的行動に必要なもの、他者への信頼をルール化する事である。この事にたいしては説明しようと思わないが、しかしこのルールを定める事によって、本当に運動を志すものと、そうでない者との区別は出来るはずである。本当に日本を変えたいと思っている者は、同国民を信頼しなければそれが出来ない事はわかっているはずであるし、私たちは共存社会の一員として、他者の存在がなければ自己の生存が確立できない以上、他者を信頼する事は当たり前の事なのである。確かにこの事は口に出して言うほど簡単な事ではない。私も人見知りの方だが、それはやはり過去の経験などから、他者を無条件に信頼できないという気持ちがあるからである。しかし、国民運動は、こういった事を乗り越えねば達成できるはずが無いし、私たちは隣にいる人間の気持ちを知ることが出来ない以上、自分が正しい道を歩き、なおかつ他者を信頼する事でしか幸福になる事など出来ないであろう。それがゆえにこの意志をルール化する事で、大きな新歩へ踏み出す事が出来るのではないだろうか。こういったルールを作る事こそ、他者を信頼していない証であるという批判はあるかも知れないが、それは筋違いの事であり、今は無視したいと思う。
以上を持って、私が憲法を新たに制定するための運動方法について記し終わりたいと思う。ただ、繰り返し述べるようだが、これは私の案であり強制ではなく、このような方法論も、多くの意見を集約する事によってより良い者が出来るはずである。そういった者を持っている人に私は教えを請いたいし、それを無視する事はしたくないと思う。

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