2012年4月4日水曜日

私たちの目指すもの


神や仏が、この世、また違う次元に存在するのかどうかわからないし、確認もとれない。そういう考えの私は、無神論者とされるだろう。しかし私は神や仏のような超常的な力、既知宇宙の万物を越えた存在が「無い」というつもりもないし、極力否定もしない。なぜなら、それを確かめる術が無いからだ。そしてこの様な存在があるとも、無いとも言えない以上、それに頼り、すがるべきではないと思う。
かつて、私たちの先祖は、現在のように「知」で明かされた情報も少なく、また一般に普及していなかっため、この世の不思議、謎なもの、説明出来ない様々な物事を、神や仏など人を越えた存在を創造する事で、納得し、安心してきた。またそのような存在を認める共感によって、特定の共存集団を形成、維持し、その存在を探求する事で様々な思弁や理学が発展してきた。
例えば天気一般の現象について、その知識が不十分であった時、私たちの先祖は雨が降って欲しければ神仏に祈って雨ごいをし、雷が鳴ればへそを隠した。しかし現在では天気は予報出来るものであり、人工雨を降らす事も出来れば、雷の正体が放電であるということは小学生でも知っている。また暴力、殺人などが日常生活においてなぜ悪なのか、その説明が難しく、力が尊重、畏怖されていた頃、例えば人を殺害すれば地獄に落ちる、また死後の生まれ変わりにおいて畜生になるなど神仏の世界間を利用する事で、そうした力を抑える事が出来た。しかし現在は、様々な哲学や思想によって自己抑制の理由を自得出来るし、法によって抑制を強制し、その行為に罰を与える事が出来る。こうした歴史をかんがえると、私たちは随分と神仏の力を頼らずして、私たち自身の力によって自己を向上させ、共存社会を築き、維持出来るようになってきた。
一方で、私たちには解けきれぬ謎も多い。例えば死んだらどうなるのか、なぜ不幸な出来事が起こるのか、私たちが認識出来る世界や宇宙はどのように形成され、実存するものなのか、こうした事はいまだ証明出来ていない。こうした事を想像力を加味して利用する事で、娯楽、つまり小説やゲーム、アニメや映画、として楽しむ事が出来るが、一方で未開のため不安を誘引させ、神仏にいまだ依存しているところが多い。それは様々な儀式から物品の販売にまで密接にからみ、それによって生計を立てているものもいる。こうした儀式をになう宗教は、現在では理知や悟りの獲得のための修業よりも、過去からの惰性に依存しているようにも感じられる。
また宗教を背景とした不寛容も、現在の人類にとって大きな足かせとなっている。神仏がどのようなものか証明出来ない以上、人が何を信じようが他者に迷惑をかけなければ構わないと私は思うのだが、しかし現実には宗教対立は存在するし、自分の侵攻しているものを盾にして、自己の欲求の実現を図ろうとする者も多い。彼らにとって見れば、自己の信じるものが至高の存在なのかも知れないし、それによって様々な事を説明し、解決出来るのかも知れないが、しかしそれを証明したり、他者に理解してもらう事はなかなか難しい。それゆえ宗教の問題は個人に帰属され、政治や教育と宗教は切り離されるべきなのだが、どうもうまくいっておらず、宗教の数の力は様々な場所に影響している。神仏は世界中に形を変えて存在しており、そのどれがもっとも至高の存在なのか、誰も証明出来るわけではないのに、なぜ人は本来愛や善を教える宗教によって争うのだろうか。
私は、もう人間は神仏と距離を置き、私たち自身の力、人間が持つ知の力によって歩みはじめるべきではないかと思う。もちろん、人間の既知では説明出来ない事は多いが、それは神仏に頼ってまで理解するものなのであろうか。そしてこうした事を神仏に頼り続ける限り、私たちは現在以上に進む事は出来ないだろう。アダムとイヴが知恵の実を食べたことで、私たちは神仏を創造し、表現してしまった。そして一度多様性を持った私たちの種族が、自己の信ずるものが最高であると証明するために天まで届く塔を築き、争い、滅んだ。もちろんこれは、私の勝手な曲解である。しかし私には、一片の真理はあるように思える。
理解されるのは随分先かも知れないが、私は、人間が現在以上に進歩する事は、自らの力によって出来るものと信ずる。人が神仏を創造したのなら、人が未来を創造する事もできるのではないだろうか。

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