2012年4月2日月曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(2)


日本の現状を見れば、もはや統治者たるべき人間も、それを支える人間も、変化が間近に迫っている事はわかっているはずである。彼らにとってみれば、現在自分たちの持つ力を利用すれば、その変化を有利に引き寄せられると思っているだろうが、しかしそれが夢のようなものである事は第1部でも述べたので繰り返さない。それでも彼らが、もし自分の望む方へと変化を引き寄せようとするならば、それなりの強引さ、もしくは強権をも振るわねばならず、それに多くの人間が気付けば彼らに対して不満は生じ、混乱は避けえぬものとなるであろう。そのような動機によって引き寄せられた混乱は、必ず革命的な行動へと向かわせる事になり、結局は持てる者が奪われ、全ての国民が血と破壊の恐怖に晒される事になり、しかしそれは大衆が満足するまで終わらない。このような革命は、確かに国家の転回点となりえるが、しかしそれは国力の低下や、長期的な混乱の要因ともなり、私は必ず避けるべきものであると思っている。そしてこのような事を恐れるのであれば、力によって自己の安定を維持するのはやめて、国民、他者の良心に変化を、未来をゆだねた方が賢明であるといえる。
ただ、このように訴えたところで、全ての人間にそれが伝わる訳ではなく、行動する人間の数が多くなれば、その影に隠れて道に外れた事を行う人間は多いだろうし、またそれを自己の飛躍の機会とする人間も多いだろう。そしてそれらを感じる事で、政治的行動者に対して不安を抱く。そしてさらに言えば、私たちは既存の基準を、その解釈を専門とする人間(つまりは弁護士や政治家、またメディアなど)に依存するあまり、知らなさすぎるという欠点があるので、政治的行動に躊躇せざるを得ない。それはどういう事かといえば、自分たちの政治的行動がどのような法基準によって守られているのか、あるいは制限されているのか、また法基準に従った正当な訴えの方法をどれだけ知っているのかといわれれば、それを詳しく知っている者がどれだけいようか。例えば、街頭演説やビラを配る行為はどのような手順を踏み、どの程度まで許される事なのか、またもっと日常的に、例えば仕事の昼休みに、同僚などと政治的な話をして良いものなのか、自粛すべきなのか、自己の勤めているところではどのような基準が適用されているのか、知っている人間は総多くないはずであり、それがゆえに私たちは政治的行動に不安を抱いているのではないだろうか。なぜなら、もし基準を知らずして政治的行動をおこない、それがどんなに純粋な動機であったとし手も、現行の基準から踏み外れれば自己に災いが及ぶからである。だからこそ私たちは亀のように閉じこもり、政治的行動を慎むうちに関心もなくしてしまったのである。それ故に私は、もし新しい憲法を制定する国民運動を起すのであれば、その運動のための明確なルール作りは必須であり、それがなければ国民もその行動を起せないだろうと思うのである。
このルールは大きく4つに大別される。

0 件のコメント:

コメントを投稿