2012年4月25日水曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(1)


国家とは何か、私たちは既に生まれた時よりそこに属しているので、そのことについて知ろうとする事を忘れている。日本という国家が、「現在どのような状態であるのか」、「今後どのようにするべきか」、「昔はこんなによかった、悪かった」、などを論じる事には熱心であるが、「国家とはそもそもなんなのか」、という事を語っている人間はあまりにも少ないように思える。理想論などではない、方法論でもない、ただ「それはなんなのか」、私たちは常にそれを見過ごして国家を論じようとするが、それを深く追求しない為に、自己の欲求と国家を同期させてしまう。それゆえにいつまでも政治が先に進まない、私にはそう思えて仕方がない。
では、改めて国家とは何か。それはまず個人の集合体である。
個人の生存目的、それは個々人の意識においては全く違うものである。しかし、人が死によってその終わりを迎えるのならば、その死まで生き続けようとするのは人間共通の欲求である。どんな崇高な意識を持っていても、自己の生存が危ぶめば、それを護ろうとして懸命になる。また、自己の死が既に決定的になった時、その死によって他者を生かす事が出来るのなら、またその死に意味を持たせようとするのなら、それもある種の生存の欲求である。肉体的には死すが、しかし他者の感情の中、記憶、記録の中で自己の行為が刻まれるのなら、それは生き続ける事と同義であろう。肉体の死だけでは無く、完全に忘れ去られる事、それもまた死であると言えるのでは無いだろうか。
そして個人は自己の生存を持続させようとして、他者と繋がることを求め、その繋がりが国家となる。そして国家とは原則的に自給によって維持され、その為に分業が行われる。これを一言で現す事は難しいが、しかしその存在意義で言えば、国家とは「共存社会」なのである。
「国家とは何か」に対しての答えを得る為には、まず「なぜ国家が必要なのか」という方面から攻めるのも良いだろう。
私たちは生まれてくる時、国家を選べない。成長したらそこに属するのを拒否する事も可能かも知れないが、しかし現実には、私たちはそこを離れられないでいる。それはなぜかというと、私たちは決して一人では生きられず、また私たちが成長出来たのは、周囲の人間と国家の恩恵を少なからず受けている事を認識しているからだ。

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