2012年4月6日金曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(3)


1つは、新たな憲法の制定とそれに関する事、また現在の憲法の改正もしくは廃止などの選択は、必ず全ての国民、有権者によって行われるものとするルールである。憲法を変えるという事は、国家的な変革行為である。もちろん、運動が良心によっておこなわれ、それに対して圧力などがなければ、私たちの日常生活は、それほど変わる事のないまま、変革を迎えられるのであり、ルールなど必要はない。誰もがそれに関わることが出来れば、その責任は公平に分かち合われ、また誰もがそれに関わっている事が確認できるのならば、その選択は真摯におこなわれるだろう。
しかしもし、その選択が一部の人間しか出来なかったら、また国民が無関心のうちにその選択が実行されてしまったら、その選択の結果に対して多くの人間が不満を抱く動機となり、それは国家への忠誠にも反映される。私たちは同じ共存社会において生活している以上、それに対する選択は参加すべきであるし、選択に参加出来るからこそ、より国家意識を共有できるのではないだろうか。ゆえに日本の将来は、全ての国民によって選択されるべきであるし、この運動に対してだけでもそれが行えるように、ルールを明確化しなければならない。
2つ目は、この運動をおこなう国民は、全ての他者の自由を尊重し、それに対して強制や力を振るってはならないというルールである。政治運動は、その動的、静的関係なく、全てが数の力によって決定する。専制政治における主権者の交替はそのほとんどが闘争によって行われるが、例えばそれが戦争になれば、間違いなく数の力によってその勝利は決定するし、たとえその力が少なくても、それが多くの人間の生殺与奪を握っている事を知らしめる事が出来れば、それは多数として意識されそれに従うであろう。この例として、少数の軍によって行われる兵糧攻め、または権力者の買収などが上げられる。
民主主義において、全ての選択は投票によって決定し、それはもちろん多数決が原則となる。少数の意見や意思を尊重し、その機会を次に与える事は出来るが、しかし多数者に属する一人一人の意志もまた少数者と同じ重さである以上、その原則は守らねばならない。昨今の政治において、少数者の意見が無視されるとして談合に持ち込んだり、やたらにそのことを振りかざし少数者の意志を実現使用とする者がいるが、それこそ民主主義を馬鹿にする行為であり、多数者も少数者もその機会は公平に与えられている以上、多数決の原則は守られなければならない。しかしそれをよくわかっているからこそ、どんな方法によってでも体あらを得て、それによって多数を得ようとする人間がいるのもまた事実であり、それが権力者による独裁や衆愚政治を招くのも歴史において実証されている。
それゆえに多数を得るための方法としての原則を、最終的には本人が決定し選ぶ事であり、その邪魔をしてはならない事とルールによって定めるべきである。例えば政治家が、マニュフェストなどによって期待を抱かせるような事を言い、それを信じて投票するのは、もちろん当然の事であり、それを責める事は出来ない。その公約に作為や行きすぎがあるのなら、多少そのことは問題にしなければならないだろうが、しかし冷静に現状を知り、またその公約を良く知ろうとすれば、そのような作為は簡単に見破られるはずだし、またそのような事をおこなった政治家や政党には、次回選択の対象から外せば良いのである。それ故に余程悪質なものでない限り、言論などによって数を集めようとする行動は規制してはならず、選択者の良心に任せるべきであろう。
しかし、数を集めるために、他者の秘密を握りそれによって脅したり、また社会的な地位をつかって、もしくは集団の無言の力を背景にそれを強制しようとしたり、またもっと直接的に、金や暴力によってそれを行う事は絶対に認めてはならない。力を行使する事で数を得るのは容易いが、しかしそれは個人の選択の自由を阻止するものであり、またそのような方法をとらざるを得ない選択肢は、全うな運動では多数が得られないものであり、その質が良いものとは言えない。さらにその行使の容易さは、それを繰り返させ、またそれを感じたものに刺激を与え、それを模倣させる結果となる。そのような力の行使が乱立すれば、その運動はもはや当初の目的は忘れ去られ、ただ闘争の中で自己が勝ち進める事にすりかわる。またそれを意識して自己の力が弱いと感じれば、彼の理想がどんなものであろうと、力の大きさのため簡単に軍門に降り、頭を垂れることとなる。それ故に、このような力の行使は、絶対に排除するべきであり、それを認めてはならないのである。
デモ行進と警官隊の衝突、また運動家同士の内紛などは、その運動の目的とは全く別のところで行われるが、しかしその影響は運動全体に波及する。穏健なデモ行進に対して、政府がその数の多さを気にして妨害に乗り出せば、それを行う政府に対して国民は不信を感じ、より運動を過激にさせるが、そのようにして集まった人間は運動そのものの目的に共感した訳ではないといえる。また運動家同士の間で、ごくわずかな意見の相違、また感情的なもつれから分離する事はよくある事だが、しかしそれが暴力行為の背景になるのは、支配、被支配の関係だけでなく、主となる者にとってはそれによって自己の持つ数が減る事を恐れるからである。そしてそれによって維持した数も、運動の目的や本質とはまた別個のものである。それらは本当の選択力にはなりえない。現在の私たちには、法的に認められた言論の自由があり、また代表者である議員となる候補者を推薦したりする力もある。そして物事を推し進めるには、結局最後は正道に乗っ取るのが一番であり、それこそが多くの人間の理解を得られ、長く続ける事が出来るのならば、運動はそれによっておこなわれなければならない。それ故に他者を認め、力に頼らないようにするため、その明確なルールを作る事は絶対に必要であるといえよう。

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