2012年2月8日水曜日

国民の良心と政治意識の成長(3)

私は、現在の日本における社会不安の原因の多くは、私たち自身の良心の足り無さから来ている信頼関係の欠如に起因していると思う。私たちは皆その判断が異なるため、様々な基準を用いるが、しかし基準は基準でしかなく、それは運用する人間によって簡単に左右される。それ故に、基準はあくまでも私たちの行動や責任の範囲でしかなく、私たちは基準に繋がっているというよりも、私たち自身の感情によって繋がり、それが信頼となる。しかし現在の私たちは余りにも基準に依存しすぎ、それを人と人とのつながりの媒介にしようとするため、自己の感情を隠そうと、また押し殺そうとし、それが信頼を生み出せない原因となるのである。もし、それによって社会関係、共存関係が危機に陥っているのだとしたら、私たちは基準よりも良心の醸成をおこなう事が最優先なのかも知れず、特に人の上に立ち基準を行使する権限を持つものは、この事を良く自覚しなければならない。基準の行使とは、自己との同化、もしくは自己が良いとするものへの同意を求め、基準を強制する事ではない。もし、真向かいに立つ人間を自分から見て左の方向に進ませたいのなら、相手の事を考えて「右に進め」というだろう。しかし、それを相手の事を考えず、自分の進んでほしい方向だけを求め「左に進め」と言えば、相手は自分の望まぬ右へと進むはずだ。これに対して指示者が、自分の指示が悪いのではなく、相手が自分の意図を理解できなかったのが悪いとして基準を行使すれば、そこに不満や恨みが必ず生まれ、信頼関係は生じず、その蓄積は共存関係を壊す事になる。ゆえに、ここには行使者としての良心は存在しない。また自分の意図した方向へ進ませるために、やたら基準を事細かく当てはめ、相手を自分の思う通り、イメージと一部の狂いもなく動かそうとする人間もいるが、それもまた基準の行使というよりも、ただ良心の無い、自己欲求の実現だけを考えた行動であるといえよう。このような良心ではなく基準の堅持を自己実現の方法とする人間が社会に増える事で、ますます社会的な不満は高まり、信頼関係は失われ、それが不安を増す結果となっているのだが、このような方法をとる人間は、それを本当に理解しているのだろうか
特に経済が低迷期にあり先行きが不安な現在は、自己の身を守るため、基準を他者の疎外理由とすることを持さない人間が目立ってきている。簡単に人を切り捨てその関係を絶ち、また自己と合わない他者を共同体の一員だと思わず、自己に従わない人間を社会から除こうとすることが横行しているが、私たちは、基準の行使者がそのような行為をおこなっても、それを見とがめるもせず、それが自己の安定を確保するための手段であると信じ、さらには自身を守るため率先して同調する。そしてその決断の責任を良心の可否ではなく、基準から外れた者や、そのような基準そのものになすりつけようとする。「彼は法の対象者ではないから」また「法によってそう定められているから」という言葉で、自己の良心のあり方を清算できるとしている。しかし他者をかばえば、それは自己の評価を下げる原因となり、それによって疎外の対象者になるのなら、皆、口をつぐむのもわからなくはない。ただその結果が共同体を分化させ、自己の立つ基盤を脆弱にさせている事を気付けば、口を閉ざし続けて良いものだろうか。共同体の分化が技術やサービスによって補われる事で、個人のみによる生存の持続が可能であると思い違いをさせているが、それは自殺者数、生活保護受給者の増加、引きこもり、いじめ、孤独死など、あらゆる社会問題の遠因となっている。それが現在の日本の停滞に繋がっているのならば、それを見過ごしにしている私たち自身も、日本国憲法に照らし合わせれば、「不断の努力」を怠り「濫用」している、法の基準を守らぬものに等しい存在であるとされても、何も言い返せない。遠回りの説明になった観があるが、どのような状況で、どの基準を行使するか、それが私たち自身の判断であるのならば、基準は字句のみ恒久性を有しているだけであり、それを主導するのは私たちの意識なのである。そして私たちの意識が悪しき方を向けば、基準も同じ方向に向かって効力を発揮し、私たちが良心を発揮すれば、基準はそれに従って私たちを苦しめない。何度も記すが、この基準は字句を書き換えない限り、それ自体は全く変わらないのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿