2012年2月20日月曜日

国民の良心と政治意識の成長(9)


それが家族内において、また地域社会においてでも、そして国家という巨大な社会においてでも、現在の私たちは憲法によって十分な権利を与えられているが、私たちはそれを行使しているだろうか。もしくはそれを行使していたとしても、それが個人の望むものだけに限り、良心に準じて行使しているだろうか。それは例えば、国家の財政は、私たちが納める税からなる共有財産だが、それを自己の権勢のため、またはごく一部のもののために、さらには自己の生活を補うだけのために使用しているのではないだろうか。また私たちの代表者である議員は、候補者から選ぶだけではなく、私たち自身の中より候補者を出すことも出来るはずだが、そういったことに参加せず、ただ政党が出した候補者を選ぶだけで、自分たちの国家を、政治を、将来を、あきらめてはいないだろうか。そして私たちは自己のことだけを考え、他者のことを考えず、ただ決められた基準に従って、何事も行ない、その基準に対して何か疑問を呈したり、変えようとは思っていないのではないだろうか。もし、そう感じたならば、それは解放された権利を持つにもかかわらず、それを行使せず、かつての日本人のように、ただ与えられるがまま、成り行きに従っているに過ぎない。そしてそれは日本国憲法97条に記されている、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」を無にし、「侵すことの出来ない永久の権利として信託」されたものを拒絶しているに等しい。それは先に述べたように、日本が長きにわたって専制的な手法による政治がおこなわれ、なおかつ民主主義も「与えられた」ものに等しいことが原因であるかもしれないが、その与えられた基準ですらも、私たちのほとんどは理解していないと思う。なぜなら私たちは「自由」や「権利」、「国家」、「政治」、「平和」、などの言葉を、教科書や教師、メディアから与えられた情報を自分で考え、咀嚼したものにしているだろうか。おそらく誰もが、その与えられた情報をうなずくまま、考えないで多用しているとしか思えないし、そうでなければ、国家の沈滞はどこにでも起こりうるサイクルの一環ではあるが、ここまでひどい状態にはならないだろうと私は思う。
現在の日本の状況から新たに先に進むには、私たちの誰もが「与える」人として、また与えられた情報を「考える」人として、そして自己の欲求と良心と真摯に向き合った上で判断を下せる国民へと、私たちは変わらなければならない。それは現在の日本人の行動から考えると、非常に面倒くさいことかもしれないが、しかし私たちが主権者である以上、それを避けて通ることは許されず、避け続けた結果、現在の日本があることは既に述べた。ただ、国民が急激に変化することなどあり得ないし、国民が政治に参加するためには、現在以上の、何か求心的なものが必要であることも私は感じている。そしてその為に、私たちは、自身で新たに憲法を制定することが必要なのである。私たちは、その論議の場で、多くの多様的な考えにぶつかるであろう。多くの国民が全く違う立場で同じ目指すものについて論じるのである。そこには多くの正解があり、また間違いもあるに違いない。そしてその結果が将来に必ずしもいい影響を与えるとは限らない。しかし、私たちは与えられた憲法ではなく、日本の政治史上、初めて国民の手によって憲法を、新たな基準を制定できる機会をつかむのである。憲法は最高法規かもしれないが、法基準である以上、そこに恒久性はない。それゆえに、私たちが定める憲法に間違いが合ったとしても、将来の国民がまたそれを正せばよいのである。時代は変わり続けるし、それを拒絶することが出来ないのなら、そして私たちが将来に債務を負わせているのなら、将来の国民が私たちの定めた法基準を変えようとすることなど、何の罪もない行動である。累々と、負債を積み上げている現在の私たちこそが、罪人ではないだろうか。
そして憲法を国民で変える事は、民主主義国家の国民へとの目覚めに過ぎない。そこから先にわたって、私たちは政治について始終考え続けなければならない。自由や権利、平和や福祉などを何かの変化の度に考え、答えを出さなければならない以上、それは非常な労力でもある。しかし、それによって、私たちは理想的な国家を手にし、また理想的な国民へと進化することを私は信じる。そしてそれを願うがゆえに、この稿を書くのである。

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