2012年2月12日日曜日

国民の良心と政治意識の成長(5)


それは私たち日本国民が、民主主義国家の主権者であるにも関わらず、「与えられる」ことに慣れすぎた所に理由があると私は思う。本来、民主主義国家の国民ならば、国家の主権者である以上、国家という集団の事を考えたうえで自己の意志を述べ、またそれを他者と論じることは妨げられず、さらには自らの代表者たるべき人間をただ選択するだけでなく、候補者として推挙する事も可能なはずである。国家に属する人間が多い以上、その意思決定は原則的に少数者に任せる方法論が最も適当なのだが、しかしその少数者が専制者にならないように、主権者である事を意識して行動しなければならないはずなのだが、私たちはどれだけそれを意識しているだろうか。
また、私たちは与えられる事に慣れすぎ、社会福祉も、権利も、保障も、様々な娯楽も、習慣も、選挙の候補者から、基準である法まで、与えられる事が当たり前だと思ってはいないだろうか。例えば、近年行事として定着しつつある節分の恵方巻は、その由来に幾分かのいかがわしさや猥雑さがある事は、調べれば簡単にわかる事だが、誰もが与えられて情報で満足しているため、それを追及しようとしない。また社会福祉の原資となるものは私たちの税だが、その分配を決定する政府から与えられるものだと思い、私たち自身にそれを訴えるよりも、政府に訴え与えてもらう方法論をとろうとする。この方法は、自分たちの利益を考えるならば、最も効率的なものではあるが、それは専制時代の王に治められる国民の考え方に等しく、民主主義国家の国民がとるべき方法ではない。専制政治下の国民は、自分の安全や財産を保護してもらうために、身分や法という基準を守り、何かしら望む事があれば専制者に膝を屈して請願し、その判断によって与えられる事を望む。しかし民主主義国家の国民ならば、このように膝を屈せずとも、互いに情報を共有する事で国民に訴え、代表者を出して議会の場で訴えることが、正当な手順ではないだろうか。しかし、私たち日本国民は、それを行おうとせず、むしろそうした活動を、安定を乱す事として恐れている節がある。

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