2012年2月16日木曜日

国民の良心と政治意識の成長(7)


さて、敗戦によって私たちは旧来の政治体制は一気に変わったと学ぶ。しかし良く考えてみれば、現在に至るまで私たちは「与えられ」続けている。日本国憲法は確かに理想的な法ではあるが、しかしそれはアメリカの占領政策の一環であった事は、歴史的な史料も残る事実であるし、その当時の国民が憲法に対して国民としての大きな運動をおこなった事実はない。ごく一部の知識人達は、当然憲法の重大さを知るため、様々な意見書や起草案を提出したが、それがどれだけ現在の憲法に反映されただろうか。また、憲法公布前には、国民の信任を得るために選挙がおこなわれたが、食料不足の当時、明日を生きるのに必死な国民に、憲法についてどれだけ話題に上がったであろうか。そのように総合してみれば、やはり日本国憲法は「与えられたもの」であるといえる。
さらに現在の私たち国民が、「与えられたもの」になれきっているといいきれるのは、歴史から推察するだけでなく、現在の私たちの生活からも垣間見える。
少し唐突だが、私は人間がその行動時間を大別すれば四種類に分けられると考える。
一つは私生活の時間、これは自分の趣味や、楽しみ、また喜怒哀楽などの感情表現のための時間であり、もう一つは生命維持の時間、すなわち食べる、寝るなど、肉体を維持する事での生存の持続のための時間である。
残り二つの内、一つは価値獲得の時間である。これは経済的活動の時間といっても良い。私たちは共存する事で自己の生存を維持するが、その共存の手法は分業であり、各自が職分を果たし、それが他者のためになる仕事であって、初めて自らの価値を得られる。その価値は、現在は金銭としてまとめられているが、かつてはそれが衣食住やそれに準ずるものなどであり、それを獲得する事で自己の生存を維持できるのである。
そして最後に政治的時間がある。これは私たちが属する共存社会を持続させるために社会に参加する時間であるといってもよい。身近な家族や隣近所、また大きく国家などにおいて、自らが果たす役割を見つけ、それを行う事で、所属する共存社会がより持続し、またより良くなる。例えば、祭りに参加する事で、その共存社会の繁栄を祈り、かつ楽しみ、冠婚葬祭に協力する事で自らが繋がる他者との関係を再確認する、もちろん選挙の投票、町内会への参加など、政治的な行動いわれるもの全てがその時間に当てはまる。しかし、何よりも政治的な時間といえるのは、他者との意志疎通の時ではないだろうか。もちろんその意志疎通は一方通行ではない。それはどういうことかといえば、私たちは一人では生きて行けない以上、常に誰かの助けを必要としている。現代社会では、様々な技術やサービスシステムによって自分一人の力のみで生きて行けると思いがちだが、しかしその技術が、サービスが、誰によってなされているのかといえば、見知らぬ他者によってである。それゆえに私たちは一人で生きて行けるはずなど無いのである。大体私たち自身、父親と母親という他者によって生命を受け、成長するまでの間、様々な他者によって育てられているではないか。それを忘れ、自分一人の力で、何者も頼らずに生きて行くという心は、自分の才能を頼るという誇りよりは、他者を蔑視した傲慢な考えのほうが大きいと思う。私たちの望む権利や自由、平等といったものも、全て他者あってのものだが、私たちは今、どれだけその他者と、率先して関係を結び、意志疎通を行っているだろうか。現代日本、いや世界中で起こる問題は、この政治的時間、つまりは他者との意志疎通の時間がなおざりになってきたことに、原因を大きく求めることが出来る。

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