2012年2月14日火曜日

国民の良心と政治意識の成長(6)


なぜ、民主主義国家において、このような専制時代の国民意識が残っているのか。その理由は、私たち自身が民主主義を勝ち取ったものではなく、それもまた敗戦によって他国から与えられたものだからである。
政治史は常に勝者の歴史である。歴代の政権者達は、常に何らかの戦いを勝ち抜いてきたものであり、その勝者として、大王が、藤原氏が、源氏が、北条氏が、足利氏が、徳川氏が政治権力を握ったのは自明の理であり、明治時代において藩閥政府が政権を握るに至ったのも、彼らが徳川政権に対して勝利を収めたからである。ただ、この交代劇はそれまでの政権交代劇とは違い、身分を解放したという点では大きな前進であったと言えよう。現在、私たちが当たり前のように思っている自由や権利と比べてみれば、この明治維新における身分の解放は、様々な点でいまだ大きな制約があるように見えるが、しかし当時の言葉でいえば「御一新」というように、実に画期的な事であったと言える。ただ、このような身分解放が、当時のヨーロッパ社会や、現代の日本のような、完全なものたりえなかったのは、それを実行するにあたって、徳川将軍家より身分の高い天皇家を利用したものだったからともいえる。「上下心を一にして盛んに経綸を行うべし」、「官武一途庶民に至るまで各其の志を遂け人心をして倦まさらしめん事を要す」など、一読すればいかにも民主主義的な要素に満ちた文面だが、これは明治の夜明けに布告された「五箇条の御誓文」の条項である。この御誓文には、続いて「朕躬を以て衆に先んし、天地神明に誓い」とあるように、あくまでも明治天皇による誓いを万民に布告する、すなわち「与えられたもの」であった。ここに、維新政府にある政治思想の矛盾性があり、それは繰り返すように当時の事情を考えれば致し方の無い事であった。どんなに伊藤博文が、大久保利通が、坂本龍馬が、才気煥発で天性の魅力ある人間だったとしても、前時代においては政治に口出しの許されぬ一介の下級士族であった。その人間が、その才能だけで政権の交替を図れば、だれもついてくるものはおらず、大塩平八郎の乱のような結末に終わるであろう。しかし彼らは根気よく当時の為政者を動かし、そして将軍を越える地位にある天皇を動かす事で、最終的な勝利を収める事が出来た以上、その力を手放す訳には行かない。そしてここに、明治期における政治的な身分の解放と専制的な拘束性を持つ要素の2つが同居するようになったと言える。
明治期における政治的な身分の解放は、知の解放と平行するように、急速に庶民にも広まり、それは自由民権運動へと結実した。しかし守旧的な力によって政治権力を奪取した藩閥政府に、西洋思想によって解放された民衆の力は恐怖の対象でしかなかったため、それは懐柔と弾圧によって一時的なものとして治められるに至った。明治維新の政治的勝利者にとって、自由民権運動は、彼らの勝利に便乗し、その勝利をもぎ取ろうとする輩にしか見えなかったのだろう。ただ、その力の恐れが、懐柔策として議会の設置と憲法の制定を政府に約束させた事は、更なる一歩であったと言っても良い。もし、この約束がなければ、旧来の政治手法に退行していたかもしれない。ただし、議会の設置と憲法の制定を政府に約束させたという点においては、一歩しか進めなかったともいえ、やはり「与えられたもの」に代わりはなかったともいえる。
ここから先の敗戦に至る政治史も、常に政府は国民に「与える」という手法だけは守り通した。かつてより国民は政治的な意志を表明するようになり、知の解放と、知の紹介者であるメディアがそれを後押しした。しかし政府は、それをうまく利用して、国民に対し「与える」と言うスタンスは崩さず、不満や対立する思想については力によって弾圧した。普通選挙法などの民主主義的な施策も、それが「与えられた」ものに過ぎない以上、その他図名は常に政府が握っており、それが旧来の政治手法を色濃く残す原因となった。

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