2012年2月25日土曜日

平和的な変化を求めて(2)


ではこれらの国民はどのように争うのかといえば、かつては血と破壊を伴った争いであることはいうまでもない。ごく一部の人間が、専制者として政治権力を握っていた時代は、その専制者の交替こそが時代の変化だったが、その変化を促すためには、専制者と同じだけの力を持つか、もしくは専制者の持つ力を削り取るしかない。専制者が持つ軍の力と同等の力を集め、戦いによって専制者側の力を削り取る、それが基も単純で、誰もが納得でき、わかりやすい変化の受容方法であった。しかし、このような方法はその力を集める指導者を新たな専制者としなければならないし、その交替には、全く力を持たない国民の生活を破壊することが含まれる。確かに専制者が変われば新たな黄金時代を築く可能性もあるが、そのための犠牲は少なくなく、さらにはそのような時代が来るとも限らず、一度始まった混乱が何世代にわたって続くこともあり、それはだれにも予想できない。ある人間が99%まで勝利を収めても、たった一度の戦で形勢が逆転することもあれば、もしくはその勝利者が死去し、元の木阿弥になることもあるのである。そしてまた、一度力による交替を味わえば、それに誰もが飽きるまで繰り返される。それを現在の私たちは「娯楽」として、小説やドラマ、ゲーム、アニメなどで扱うが、当事者達にとってみれば、誰もが早く「自分の手」で終わらせたいと思っていたに違いないし、「与えられる」国民にとってみれば、長く続く混乱はただ迷惑なものに過ぎなかった。
中国のような一度混乱が収まれば長く王朝が続く国とは違い、ヨーロッパは狭い国土の中で小さな国家が寄り添い、その中で常に争いが繰り返されてきた。ヨーロッパ史において戦争の無かった時期などあるのだろうか。その争いに飽き、またそれを変えるべく思索を巡らした人間によって、民主主義は誕生した。民主主義の素晴らしい点は大きく2つある。それは国民が主権者であるのなら、誰もが国家において様々な機会を平等に与えられること。そして国家内における変化を国民自身の力によって選択することが出来、なおかつそれが多数決の原則によって、血を流し破壊を伴わずに済むことである。民主主義国家の原則は、憲法などの法によって定められており、そしてその法に対しても国民は様々な意見を出し、また改廃することが出来る力を持っている。それゆえに、民主主義国家の国民が真に自分の役割を認識していれば、言論以上の争いは起こらないはずである。
このように誰もが平等に機会を持っているのなら、それはかつてのように誰もが王になる機会を持っているともいえる。しかし王権を維持するのには、力を保つだけの才能が必要となり、過去において王権を手放さざるを得なかった者は、みなその力が無かったからである。ではその力とは何かといえば、どれだけ国民を納得させ、引き寄せることが出来るか、いわゆる求心力である。直接的な力である兵を集めるには将軍としての才能が必要であり、安定して税を国民に納めさせるには農工業に通じる博才が無ければならない。誰もが認める価値である金銭を多く持てば、それだけで簡単に引きつける事は出来る。






0 件のコメント:

コメントを投稿