2012年2月18日土曜日

国民の良心と政治意識の成長(8)


政治的な時間は無駄である、そう考える人も多いであろう。他者との意志疎通が自分の楽しみにしている時間を削れば、また自分に与えられた役割を妨げるのなら、他の3つの時間は自己の生存に必要と思えるが、政治的時間など必要ないと思えるかもしれない。それゆえに、他者との直接的な関係を避け、より広義の国家という共存体に援助を求め、それが国費を圧迫しているという現実がある。自分が困った時、まず何よりも自分の身の回りの人間と意志疎通を行ない、そこで理解を得、助けてもらうのが本道である。周りに理解者が、また助ける力のある人もいなければ、そこでさらに見知らぬ他者である、国家などの共存体に助けを求めるのならともかく、自己の事情を意志疎通によって訴えることを、その返答を恐れるため、もしくはただ単に自己の事情を知られたくなく、他者との繋がりをうっとうしく思うだけで、国家などに助力を請うのは、筋違いも甚だしく、それは自分一人で生きて行くための手段ではなく、自分勝手に生きる手段であるといっても過言ではないだろう。その反対に、助けを請う人に対して、よく意志疎通を行わないまま、それは甘えであるなどの判断を下し、遠ざけたり、疎外したりするのも、また自分勝手なものといえる。自分がもしも他の他者を必要とする時、彼らは他者を拒絶した自己の判断をどう思うのであろうか。健康であるうちは他者を必要とせずとも立てるかもしれないが、老、病、衰は人間の定めであり、避けることは出来ない。そしてそれを理解すれば、今自分で立てる人間でも、その時のために困った他者を拒絶することはないだろうし、他者との意志疎通を大切にするはずだ。
他者の気持ちをわかるという人がいるが、そんな人間などいない。私たちは他者の気持ちを推察するだけであり、他者の気持ちがわかるものは、その他者自身だけである。しかしそのわからない気持ちを表現するために言語が生まれ、それを使った意志疎通によってより推察はあたりやすくなったのである。そしてそのような関係によって集団は形成され、個人の生存が易くなったのならば、他者との意志の疎通は集団の関係における基礎であり、それが政治でもあるといえる。
では、このような意志の疎通は、ただ相手から「与えられるもの」だけなのかといえばそうではない。かつては身分や家父長制などによって、明確な法基準が無い代わりに、その集団の長たるものが基準であり、その意志によって集団が形作られたため、意志の疎通も一方的なものであった。しかしそのような与える者の一方的な意志は、その人間が善良なものならばともかく、自己のことしか考えない人間であれば、それは簡単に他者の抑圧へと転じる。それゆえに、歴史の流れの中で、それはだんだんと解放され、与える者の一方通行から、与える者と与える者同士の双方向によるものへとなった「はず」なのである。個人の尊重や、様々な権利の授与が法律で定められるようになったのは、限られた人間から「与えられる」だけの政治参加から、誰もが「与える」事の出来る機会を獲得した事である。ただ、これらの権利の獲得は、私たち自身が「与える者」にならなければ、その権利が無駄になるだけでなく、共存社会が機能しなくなる。
身分によって定められた「与える者」は、常に自己が与える者として認識することで、どのような理由であっても自己の意志を「与えられる者」に伝え、他者を使役することで共存社会を持続させていった。それが自己のことしか考えない命令であっても、与えられればそれが社会全体で実現される。その結果、共存社会が崩壊することもあるが、しかしその崩壊より新たな社会が芽生え、その繰り返しが歴史となる。このような関係が社会には常に存在する。それはなぜなら、無数の個人が社会を構成しているとしても、社会という集団になれば、それはひと括りに去れる。私たちの体は無数の細胞で構成されているが、それがからだとして一つの形成体になっていれば、そのからだの動く方向は一つしか選択できない。手は右に行くことを望み、足は左に行くことを望んでも、体として一つにまとまっている以上、体の行き先は各感覚から脳へと集められた情報を基に感情が決定する。社会もこれと同様に、その構成する私たちが様々なことを望んでも、その進む先は社会としてまとまっている以上、一つの提議に対して最終的には一つしか選択できないともいえる。ただ、体の進む先も決まった感覚のみで感情が決定すれば、それは間違った方向へ進むことになる。視覚だけでものを判断すれば欺かれることがあるように、私たちも全身の感覚から送られる情報を基に判断することで、様々な危険から逃れることが出来る。現代社会は、私たち一人一人が情報を送ることで、社会全体が危機に陥らないようにする機会があるのである。そして私たち自身の政治的参加がその機会になるのだが、私たちはどれぐらいそこに時間を費やしているだろうか。

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