2012年3月5日月曜日

「新歩」する為に(1)


ここまで長々と、日本国憲法を変え、新たな憲法を国民の手によって制定しなければならないことを論じてきた。ただ、この拙い論述をたとえ理解してくれる人がいても、理想論以上の大きな壁が立ちふさがり、それによって論以上の領域をでない、つまりは行動へと一歩踏み出す事が出来ないかも知れない。その動機こそ、今までの改憲論に対する攻撃の核心となるものであり、それが常に論以上に進まなかった理由、すなわち「憲法を変える事で戦前の日本に逆戻りしないか」という不安である。そしてこれがために、私たちは新たに歩む事、すなわち「新歩」することが出来ないでいる。
改憲論議の主題となるものは、現在の日本の最重要課題である国債などの財政問題よりも、安全保障、すなわち軍という力の保有の問題や愛国心や社会保障、国民道徳などが多い。日本国憲法を変えるべき理由は、実に多くあるのだが、しかし改憲論議を、時には論議にすらならなくさせるためには、ただ一点のことを国民に訴えればよい。それはこれらのことを憲法で定めれば、間違いなく戦前の日本へと逆戻りし、私たちの自由や平和、様々な権利が、一瞬にして失われるという不安である。これはまさしく現在の日本人の精神の奥底に刺さったトゲであり、私たちの新歩を停止させるほどの力を持つものだが、それはもちろん歴史的な事実によるものであり、現在、また将来においても背負わなければならないものならば、それを意識せずにはいられない事は確かである。しかしこの歴史的事実と、私たちがこれからおこなう選択とは、直接的な関わりは何もなく、憲法を変える事で日本が戦前に立ち戻るという事は、憲法を変える事で日本が成長するという単純な結論と同様に、何の根拠もなく、誰も私たちがどのような選択をし、その結果がどうなるかを類推以上に知ることは出来ないはずである。
日本が戦前、戦時中におこなった、植民地政策や数々の自由の封鎖、弾圧は、その当時の世界的な諸事情が背景にあるとはいえ、それが極めて悪意に満ち、独善的であったことは否定できない。なるほど、日本の植民地政策によって多くの国家に文化や技術、社会整備がおこなわれた事は認めねばならない。しかしそれは良心的なものを動機とした、その地域にいる人達の事を考えた上での事であろうか、もしそうならば、なぜあれほどの抑圧が行われ、自治は認められなかったのか。ここに答えはあるはずであり、それを知れば知るほど、私たちは国家という集団とその持つ力に、不信や不安を抱くのも仕方がない。
植民地、また占領地域政策に、どんなに高邁な理想を掲げていても、それは日本国民だけの、さらにいえば、その中のたった一部の人間の欲求や安定を叶えるためだけの所業であり、それがゆえに徹底的な強制と弾圧が連鎖的に行われたのは事実として記録されている。その構造は、将官から厳重注意を受けた佐官が下士官を殴り、その下士官が兵隊を殴り、兵隊はその中でも弱き者ををいじめ、虐げる連鎖した行為であり、それはそのまま為政者、国民、植民地、外国人へと置き換える事が出来る。そして国民を含め、日本の支配地域においては、誰もが与えられた情報に対して疑問を持つ事は許されなかったことは、この行為を大きく助長した事は間違いない。そういった観点から見れば、一般の日本国民はただ言いなりになっていただけであり、その国民性による行為でなかったといえるかも知れないが、しかし行為が事実として残り、それが歴史に刻まれている以上、それがどのような理由であろうとも過去の選択は否定できず、その日本人と同じ血を引き遺伝的なつながりを持つ私たちに、同じような繰り返しを行う不安をぬぐい去れない事は確かかも知れないし、外国人がその印象を持って私たちを見続ける事をやめさせる事は不可能である。

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