2012年3月7日水曜日

新歩する為に(2)


戦前の日本においても制限付きながら民主主義制度が存在していたが、敗戦まで為政者による国家の動向に右へ倣えだった理由は、国民が民主主義そのものを十分に理解せず、その選択が常に与えられた情報を基とした判断であったからであり、彼らには「信じる」ことしか出来なかったからである。政府や軍は自分たちに有利な情報を与え、メディアはそれを後押し、官憲はそれに目を光らす。現在のように視覚を多いに活用できるテレビなどの情報媒体もなければ、目の前で起こっていることを瞬時に伝えられるインターネットなどもない時代、国民は与えられた情報を信ずるほかなかったであろう。また、それを信じなければ投獄されるなどの情報を聞けば、誰もが自分の意志や疑問を素直に伝えることに慎重になり、さらには初等教育より思想的な強制がすり込まれれば、自己の安定のためには他者を排除することを容認する国民が生まれても当然である。ただ、このような排除はドイツであり、ソ連であり、また自由の国アメリカにおいても「排日移民法」が存在し、黒人などの異人種に対して差別があったことを考えれば、単純に日本だけを非難することは出来ず、繰り返される人間の所業の一種であり、当時の日本人が悪意に満ちた民族であると決めつけることはできない。しかし、私たちは戦争で負けた以上、またそのような無謀な戦争を引き起こした以上、そのような愚かな行為をおこなう人間の罪を一身に引き受けねばならず、それがゆえにぬぐい去れない印象がいつまでも続くであろう。
自己を守るために自己の意志を述べず、意志を表した者の動向を見て、その見えざる多数決の判断によって行動する。いわゆる「空気を読む」という事だが、このような国民の行き着くところは、互いに信ぜず、公に認められた意志に従うだけで、そこに異論を含む者、意志に反する者に対して、自己の持つ本当の意志とは関係なくそれを排除する行為となる。自分の意志を述べられない国家は、そこに互いを観察し合う猜疑心が生まれる以上、国民の良心を失わせ、その和の力は弱くなる結果を産む。一方通行の情報流通はまさしく日本人をこのような国民へと導いてしまったが、現在の、双方向の民主主義国家の日本ならば、本来ならそのような方向に進む可能性は低いはずである。私たちは他者に危害を加えたり、損害や不快を与えない限り、その言論や表現を公的に規制はされないし、そのような法律も存在しない。そしてその溢れる情報の中で、一人一人が自分の意志を作り上げ、それを話し合いや討論によってより深化させ、選択肢を作り、最良の答えを多数決によって導き出せるのならば、私たちは二度と、国際社会の中で自己中心的な、間違った道には進まないはずである。ただ、現在の私たちの状況を見れば、再び一方通行の情報流通に立ち戻ろうとしている節があり、誰もが積極的に自己の政治的意志を述べようとしないため、疑心や不信、排除性が生まれてきているのも確かである。そしてこれが、日本という国家が過去に立ち戻る不安を想像させるのを、私には否定する事は出来ないが、現在は過去の日本のように国民の選択の幅が狭い訳でなく、国民が積極的になればその力も発揮しやすい基準が定められているのならば、自己回復の余地はあるはずだし、新歩の可能性や機会もあるはずである。
現在の日本に対する批判者は、戦前や戦時中の日本人の所業によって、そして特に現在の日本の中核をなす「団塊の世代」は学生闘争などの政治運動での経験によって、また普段の経済活動の中で、国家という集団を、そしてそれに属する国民を信じなくなってしまったといえよう。しかし私たちがなぜ国家を創ったのかを考え、また現在の多くの批判者達、無関心者達も国家に属し、その恩恵を受けているのであれば、国家という集団は私たちの生存の持続に対して、必要不可欠なものであることが理解できるはずである。国家や政府、そしてその政策を、また国民それぞれの奢侈や欲求、生活態度を批判する事は大いに結構な事であり、この批判がなければ国家は健全なものになりえない。批判がなければ問題は浮かび上がらないし、多様的な見方による批判があれば、その問題の解決はより多くの選択肢から選ぶ事が出来、それが最良である確率も高まる。それ故に私は批判自体を否定しないし、現に私がおこなっている事も批判である。ただ、私は批判が自分たちの属する集団を、そしてその構成する各個人を受け入れず、信ぜず、そしてそれは未来へ向かって拘束し、その進む道を疎外している事に我慢がならず、そのような彼らを私は批判したい。

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