2012年3月29日木曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・1・2期に分かれる運動(4)


以上の方法が憲法を制定する上で最良のものであると私は思うが、しかし時間の消費と、国民の労力を考えれば、この方法に対して首をかしげ、実現は不可能であると思う人も多いだろう。国家の変革は数の力を背景として、性急果断におこなうべきである、そう考える人も多いはずである。しかし良く考えて欲しいのは、憲法を改める事は基準が変わる事であり、その基準の範囲が変わることで国家の形もまた変わり、私たちの行動範囲も変わるのならば、日常生活も変化する。そしてそれを良き方向へと進め、また変化による国民の不満を出来るだけ少なくするには、ごく一部の限られた人間に任せるよりも、より機会が増える国民全体による討議が必要ではないだろうか。ごく一部の選良が国家の方向性を決める事で、私たちは価値獲得の、経済的行動により多くの時間を割く事ができるが、しかしそれによって政治という普遍的な行為が専門化すれば、私たち自身が国家に対して意見や意志を述べる障壁は高くなり、内にも外にも閉ざされてしまう。しかもその専門家を選ぶ方法も、必ずしも確実な良い方法があるとは言えない。
もし、その選出方法に確実性があるならば、自然災害が多く、自給が難しく、外国の動向に流されやすい国家であるとは言え、日本にここまでの停滞は起こり得なかったのではないか。良い学校を出ているから、多くの人脈、財産、資産を持つから、企業における肩書きが良いから選ばれる、なるほど、その獲得にはその人間の才能や幸運が現れている以上、それを否定する事はしないが、しかしそれがそのまま政治的な才能の現れ、国家に対する忠誠と情熱を表しているのかといえば、それは話は別である。そしてそのギャップが明らかになる事で国民の政治不信を招き、国家という共存社会への信頼を低下させるものになっているのならば、そのような選出方法には問題があるのである。社会的に良い地位に就いている人間、また選ばれた人間以外でも、政治的に、人間的に優れた能力を発揮できるものは必ずいるはずだが、私たちは定型的な判断によってそれらの人間に対する機会を失わせしめている。だが、全ての国民がその選択を実行できれば、その過程において、彼らにも機会は与えられるだろうし、またそれらの人間の台頭は、既存の選ばれし人間の対抗心を燃やさせ、その持つ才能を遺憾なく発揮させる事になるだろう。それは国家の活性化へと繋がることになるはずである。そして私たち国民も、多くの選択肢が増え、また自ら参加する機会も増えるのである。
私は、この2期における政治的運動によって、政治的意識が国民に芽生える事を期待する。そして国民自身がその基準を選択すれば、基準に対してより忠誠を誓う事となり、その結果秩序が確保されれば、国家の成長もまた期待できるはずである。そしてその基準も変化を受け入れられるものならば、たとえその時誤った選択をしていたとしても、それを変える事も可能なのである。最もそれが間違いであったかどうか知るには時間が必要であり、法基準が簡単に改正されるのも問題ではあるが、しかしその機会は消して失わせしめてはならないし、その機会を使用するのも国民自身である事をより認識できるであろう。現在の基準を変え、新歩し、国民に政治的意識を明確にさせるためには、間違いなく国民運動が必要なのである。

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