2012年3月11日日曜日

新歩するために(3)


さらに言えば、そこには愛が無い。現在の国家批判者の多くは、自らが国家や国民に対して愛が無い事を誇らしく述べるが、では彼らは何を愛して批判するのだろうか。対象に対して愛が無い批判など、ただのぼやき、不満の露出、そしてそれは正道では自己の欲求が叶わぬため、間道から、搦手から、それを実現する方法としか思えない。つまり私は、現在の批判者の多くは、国家や国民の事を考えず、自己の事だけを考え批判をし、徒党を組んでいるようにしか見えず、そこに良心は存在するのかと疑問に思うのである。批判者の党派性、基地運動やボランティア、生活保護者の一部の動向は、まさしく自己の生活のために行われているのであり、そこに良心が無い事は否定できないはずである。
一方で無関心者達、これは選挙にも行かず、文句も、不平も言わず、ただその日その日を生きている者達だが、私は彼らに対して催促以外するつもりが無い。彼らの多くは、国家や国民、自由や権利というものがどのようなものか、与えられた情報以外では知らず、また自分の力などちっぽけなもので通用しないというあきらめから、無関心を選択するのであろう。彼らは自己の生活が安定していればそれで良く、それは自分の努力によってなされると考えているため周囲に無関心でいられるのかも知れないが、もしそうだとしたら、それは思い違いである事ははっきり述べておきたい。私は個人の努力を否定するつもりもないし、非難するつもりもないが、しかし社会は見えざる手によって他者と繋がっているからこそ成立しているのであり、その社会の中で生活しているのならば、自分一人の力で何かができる事など無いのである。私たちには自由や権利があるが、しかしそれは全体の中の一個人であるからこそ、それが保障されるのであり、この全体、つまり国家などの共存社会が消えうせれば、そんなものなくなってしまう。現在の日本において、どんなに個人が頑張っても、一向に先に進める気分になれないのは、その力が各個人にしか働かないため、その力の総和としての国家としての動きが無いからである。そしてそれは多くの無関心者達によって引き止められている。私はこの無関心者達が、その持つ力のうち、ほんのわずかでも政治に捧げ、社会の力を信じてくれたら国家は変わると信ずる。ただ、私は変化によって国家がより良くなるのか、特に短期的には保障できないため、無理にとは言えないし考えを押し付けるつもりもない。だが彼らが良心を持ち、その総和によって国家を変えようとするならば、それは決して間違った方向に、悪しき方向には行かない事だけは断言したい。そして、それをより確実な、成長の方向へと向けたいのならば、私たちは民主主義国家の国民として、義務を果たし、様々な事に関心を持ち知らねばならないのである。このように単純に互いを知る事によって、また国家を愛し他の国民を信頼する事によって、より良い国家に向かう事が出来るのではないだろうか。

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