2012年3月2日金曜日

平和的な変化を求めて(4)


先の章でも述べたが、私たちは民主主義、また国家ということに対して、今まで「与えられ」続けてきたせいか、あまりにも無知である。そして無知であるからこそ、権利などは自己のためのものと思い、良心を失いかけている。しかし個人の自由や権利、保障などは、日本という国家あってのものだということを忘れてはならない。そして国家という共存社会を持続させることが、最小限の代償により変化を受け入れる事が出来、そしてそれこそが自己の生存の確保であることを忘れてはならない。自己の欲求の限りない追及は、その属する共存社会の強弱次第なのであり、社会が弱小であれば、自己の欲求のかなう程度もたがが知れている。そしてそのような脆弱な社会の中で、自己の欲求を大きく達成させようとしても、国民誰もが主権者として同じように求めるならば、それは必然的に潰し合いとなる。昨今の政治、経済、また文化において、どれだけ長く息をし続ける人間がいるであろうか。牽引者となるべき人間は、芽のうちに潰されるだろうし、もしそのような志を持つ人間でも、長いものに巻かれている間にそれを忘れ去ってしまう。そのような国家が果たして強く、成長できるのだろうか。
このようにして小さくなった力を補う結果が、現在の日本では将来への借金、すなわち国債なのである。以前の専制者などから見れば、私たちの安定という欲求は小さなものだろうが、しかし主権者としてそれを誰もが願うならば、その和はとてつもなく大きい。自分たちの力で返せないほどの借金を背負い込む、その欲求の巨大さに私たち一人一人が気付かねばならないのだが、私たちの無知はそれに気付かずにおり、今尚それに頼ろうとしている。ゆえに私はこの稿を書き、国民の感情を喚起したいのである。これを読み、怒り、嘆き、笑い、嘲りなどの様々な感情が起こるだろう。私はそれらの感情を説得したいのではなく、むしろどうしてそのような感情が自己に沸き起こるのか、考えて欲しいだけである。そしてそれを他者と話しあい、様々な納得が次第に寄り集まる事で大きな力となり、その先の変化を突破できるはずである。現在の日本から恩恵を受けているもの、また変化を自らの手で引き寄せたいもの、現状の不満を変化によって転化させたいもの、それら全ての国民が主権者として未来を考えることで、血を流さず、暴力を排除して、ただ言論によって、時代を変える事が出来る、そう私は信じている。
私たちは既に民主主義国家の国民として、その方法論を良く知っているはずである。ロシア、リビア、エジプト、その他様々な国でも、変化に際して様々な混乱があり、それは連日伝えられている。しかしこれらの国家の国民が、果たして民主主義国家の国民なとしての姿なのか、その為政者たちは民主主義国家の国民として適当であったのか、専制的な方向に偏っていたのではないだろうか、そう考えると現在の日本は、まだ、民主主義的な国家であるといえよう。言論が解放され、それが国民の政治的意識を目覚めさせれば、誰もが国民を信じようとし、また自国の方向を真剣に考えるはずである。そしてそれこそが、混乱の無い変化の受容と更なる成長を約束する。私たち自身を信じ、多数決の力を信じ、労働すべき時間は労働を行ない、自己の時間は自己の時間としてすごす。ただ、その空いた時間のほんの一部を共存社会のために割き、話し合いをおこなえば、互いに情報を「与え」「与えられ」ればよいのであり、国家の変革にストライキをおこす必要も、投石をする必要も、他者に強要する事も、軍が出動する必要もない。最もそれは現在の為政者次第とも言えるかも知れないが、私たちが良識をもって為政者たちを、その候補者から選択まで真摯に取り組めば、為政者を疑う必要はないはずである。それが惰性で行われているからこそ、為政者を信じられないのである。平和的に変化を受け入れるためには、私たち自身、良識とバランスをもって、政治に参加すれば良いのであり、それこそが理想であるといえる。その決定がどのように転ぶかは歴史によってわかるのであり、納得によって行われた選択は、目先の損得に惑わされる事ないであろう。
そしてその旗印として、私はまず日本は憲法を変え、変化を受け入れる第一歩としなければならない、そう思っている。変化の代償や負担がどこかに一方的に偏るのではなく、また我慢を強要される訳でもなく、不当に財産を奪われるような事が無いためにも、そして国際社会の不安や不満を跳ね返すためにも、私たち国民は自身で民主主義国家国民として脱皮しなければならないのである。

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