2012年3月13日火曜日

新歩するために(4)


では、その国家像はどのようなものとなるのか。国家に属する各個人が多様的な欲求を持ち、そしてそれを実現しようとしているからこそ、それを適度に抑える共通の基準を作り、そしてその基準の維持、そして改正に国民が参加することによって、有る程度の、不完全な理想的な社会、国家を創れるはずであり、私の望む国家像はそのようなものでしかない。多くの人にとっては、より完全を、安定を目指したいため、このような答えに不満は抱くかも知れないが、しかしそれが完全であれば、国民の個性を認めず、均一化する強制を求めるようになり、それは国民の生への充実感を無視するようになる。あくまでも各個人の個性を尊重しながらも、しかし集団としての一線を作ることで、個人は国家という範囲に柔らかく包まれ、その母体の中で成長すればよいのではないだろうか。間違いを起さない国民はいないし、その間違えが故意によるものなのか、それとも偶然のものなのかによって私たちの態度も変わる以上、間違いを受け入れられない完全な国家は築けない。このような間違いを強権的に押さえ込もうとし、異端者を疎外する事は簡単であるが、しかしこのような間違いや異端者にこそ、国家や国民の抱える問題は浮かび上がるのであり、その解決が成長へと繋がるのならば、それを押し込め、封じる事は、国家を停滞から滅亡へと招く要因となる。戦前の日本のたどった道は、ある種の典型であり、当然の帰結であるといえなくもない。それ故に私は国家は常に不完全であり、またそれを求めるのが最良であると信ずるし、それがゆえに国家の基準もまた恒久的なものではなく、絶えず変化を受け入れ、改正できるものにすべきであるとも思う。
私たちは、明るい将来や希望を夢見るのに、自身の力、過去の行為によってそれを恐れている。それは当然受け入れねばならないことだが、しかし私たちはその恐れを知っているからこそ、最良の選択を行え、また基準を作る事が出来るのではないだろうか。金や軍の力というものを、そしてそれに拠りすがってしまう自身の弱さを知っているからこそ、その抑止力を作れるのではないだろうか。そして一度自身で抑止力を、基準を定めれば、それに対しての意識は高まるであろう。それを世代ごとに見直し、変化を受け入れる事で、私たちの国家はより良い形で持続できるはずである。
そしてそれが護られるのは、法などの基準だけではなく、私たち自身の「良心」によってでもあることを忘れてはならない。実際に私たちが完全であると思っている現行法も不完全なものであり、その為に法の編み目を潜るような行為も後を絶えないし、法に明確に定められていない事象も起る。ただ、国法として憲法があるのなら、このような事象や行為の帰結は憲法によって判断することも可能ではあるし、またそれらに対応するのは法以上に私たちの良心にある事は言うまでもない。良心は、自身を保護するだけでなく、他者との共存の道を選択する心であり、しかしそれは私たち自身の個性を殺すものであってはならない。私たちは良心によって自身の中にある悪心をも飼いならし、その善悪のバランスを以て自己の行動を確立するが、この異なるバランスが個性となると私は思う。個性の違いとは、人がその時までに得た情報と良心との力加減の問題であり、それを規定することは難しい以上、それを細かい枠に治めるのは難しい。だが個性にある良心を発揮できる人間を育てられれば、それもまた理想的な国家を創りうる要因となるのである。国家を創るのは、基準だけでもなければ、良心だけでもない。その両方が整うことを私たちは目指さねばならない。
私たちは現在大きな岐路に立たされている。世界情勢をみても、そこに大きな変化が起こりつつあることを知ることが出来る。ただ、その変化を自己の手でおこなうか、他者によってなさせるかによって、その結果は大きく違い、私たちが自己の生存を持続させるために集団を形成しているのならば、私たち自身で変化を行うことが、それを護る最善の道であろう。そしてその変化の行く先を過去と結びつけてはならない。私たちは現在においてでも様々な間違いを侵し続け、それは将来においても当然行うことであり、未然に、完全に防ぐことなど不可能ごとである。将来のことを知る術が無い以上、現在に最善を尽くし、また将来に対して希望を持つことこそ、よき道を選べるのではないだろうか。それは車の運転と同じであり、進行方向を見据えてなければ安全な運転が出来ないのであり、いくら危険に注意しても、脇や後ろばかりを見ていればそれは危険行為であり、事故の引きがねとなるのである。「他人の気持ちがわからない」、「どうして自分のことを受け入れてくれないのか」などと悩む人間も同様であり、他人の気持ちなど、その他人しかわかることがなく、また自己の気持ちも他人が知りえることなどない。ただ、自身がまっすぐ前を向き歩き続ければ、そこに道はあるし、それでも事故は起こるのである。しかし、私たちはそれを乗り越えなければ前へと進めないだろう。それは日本も同様であり、いつまでも私たち自身の将来を、戦時中の日本、学生闘争時の思想行動と結びつけてはならず、それぞれが心の中にもつ信念を政治に参加させればよいのである。当然全てが受け入れられるわけではないし、実現するわけではないが、しかし私たちには機会がある以上、自己の主張を続ける事は可能であるし、また自己の主張の批判を受け入れることから成長が始まるのではないだろうか。そして私たちは、自己が、他者が、その生存の持続を願う間は、新歩しつづけなければならない。

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