2012年5月29日火曜日

国家とは何か・情報共有体(10)


 そして、このような点と点の関係、つまり人間同士の関係までも法に依存するようになれば、それは次第に法を扱うものが、また法に対する知識のあるものが、社会において上位を占めてくるようになる事も忘れてはならない。情報とはそれを教えたり、発信するものが必然的に上位に立つことになる。それは親から子へ、教師から生徒へ、上司から部下へ、皆同じ流れである。そのような情報の共有関係が法に依るものになれば、法情報を熟知し、また法情報の決定権のあるものが尊重されるのは当然である。本来政治家は、人と人との関係から発せられる問題を個人の力によって調整するからこそ、万人から尊崇を受けるものであり、そのためには当然、人間的な力を要求される。しかし現在のような法に依存する社会においては、法の解釈を曲げる、もしくは法に対し例外を設けたり、細かい問題に対して安易に法を制定したりすることによって自らの力を誇示しようとする。選挙を見てもわかるように、現在の国民が政治家に必要とするのは、人としての力ではなく法を制定する権力そのものだけであろう。それがゆえに選挙において落選した政治家は人として、また文筆などによっての政治活動によって自らの主張を知ってもらおうとするよりも、息を殺して再起を待つのである。選挙を見ても、その結果が選挙区民との繋がりと言うよりも、党勢や時勢と言ったものによって左右されやすく、それが政治家の権威を著しくおとしめている。法を定める力、関わる力がありさえすれば誰でも政治家になれる世の中なのだ。国民が意識を変えない限り、この現状は続くであろう。
 法が国家の外殻であり、その外郭を政治家が定めるのはどの政治形態でも同じ原則である。それはなぜか、それはどんな問題でも選択できる答えは一つだけだからである。一つにまとめられた力の方向性は、一つにしか定められない。私たちの体も、体が向く方向にしか進めないのと同じである。もちろんそれに参加する機会は、全ての国民にあり、またそれに至るまでの討議や答えの中に、多様性に対してできる限りの配慮をおこなう事はできるが、選ばれるのは一つでしかない。それゆえに法の制定や国家の運営は、国民全体が関わらず常に代表者によっておこなってきた。しかし、専制政治と民主政治では全く違う。それは政治への国民の関わり方であって、民主政治では、問題を解決するために多くの情報を国民に流し、考え、知る事で、政治家の意志を揺り動かす事ができる。専制政治においても政治家の意志を揺り動かす事はできたが、しかしそれは国民が圧制などによって感情に耐え難いものを持ち、政治家が持つ直接的な力、すなわち軍などの武力と同等の力を見せつけた時だけである。しかし民主政治では、私たちが言論などによって平和的に政治家を動かす力を持っている。つまり、国家の外殻である法に対して私たちが疑問に思えば、私たちが情報を共有し政治家に訴える事で法に関わる事ができるのである。しかし、その揺り動かしはあくまでも公のためのもの、見えない他者の事を考えてのものであり、個人の境遇のみのものであってはならない。現在の日本においてその境目を意識しているものが果たしてどれだけいるであろうか。それは、日本国憲法と言う国家の基準が不明確になっているからとも言え、それゆえに私は私たち自身の社会にあった憲法を定めねばならず、そしてそれは恒久的なものではなく、時代によって変えられるという意識を常に持ったものでなければならない事を訴えたい。
 国家が人の集団である以上、どんな政治形態でも正しさは求められるし、間違った答えも出る。では、最良の国家とは何か問われたら、私は人と人との有機的な繋がりをどれだけ実現できているかと言う事だろう。どんなに良法があっても、法が強制力を持つものである限り、それが多ければそこに住む人間を拘束するものでしかなくなる。しかし法無き世界は国家として、共通の情報を持たず常に分裂するだけであろう。最良なのはそこに住む住人が国民として互いに意識しあい、また、その最低限のルールと人の繋がりによって解決できないものを法として制定する事であろう。そして、そこに住むものが法について情報を共有でき、また意志、意見を述べれる民主主義が最良の政治形態だと言うことを私は強く述べたいのである。

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