2012年5月25日金曜日

国家とは何か・情報共有体(9)


 人は一人で生きられない、それは誰もが知る事実である。しかし人との関係において対話など直接的なやり取りを遠ざけ、線としての繋がりを避ければ面にはなれない。このような点としてわが身を守る人間は、何を頼りとするのか。その答えが、法とそれに伴う権利になりつつある。外見がしっかりとした家ならば、中がどうあっても生涯安泰という論理なのであろうか。法は集団として個人に対し、決められた事を守るよう強制できる。つまり法を使えば、時には個人を守る枠となり、また時には個人と他者とを強制的につなぐ線となるため、交際などによって他者を知り、関係を築き合う手間が省けるのである。それゆえに点である個人は、自らを守るため盛んに法と言う線を使い、自己都合によって無理やり他者と繋がりあおうとする現象が増えつつある。
 社会福祉によって援助、または補助される理由の中には、個人が引き起こした結果が原因によるものも多いであろう。しかし本来、人の人生は自らの選択であり、その成功や失敗は自らが背負う事が第一義となる。それゆえに成功すれば成功者自身を称賛し持ち上げ、本質的には周囲や社会にその個人の成功は直接還元されない。しかし失敗した場合、現在では本人よりも社会などが原因であるとする論法が実に横行している。もちろん全ての失敗や不運がその人の責任であるとは思わないが、その失敗に対して評価をし援助を行うのは、社会よりもまずその者の周囲の人間ではなかろうか。それは辛口の、つらい評価もおこなわれるが、その後の行動などによって理解されることで、周囲は決して見捨てはしないだろうし、本来なら、人間は間違いを冒す者であり、正しく生きてきた自身を持つ者がいないならば、親兄弟、親族は助けるべきではなかろうか。それなのに点として生き、直接的な関係を希薄にすれば、周囲から人は去り、理解される事は少なくなる。忠告者もいなくなるが、助けてくれる人もまたいなくなるのである。本来なら、そのような選択を行うものは、救う必要はない。しかしながら、現代においてはそのような人間に限って法を頼り、その保護や回復を広義に求めるのである。社会保障が充実され、それを頼れば自分の近隣者を必要とせず、その失敗や不幸を明かす事なく、隠しながら生活を営める。しかし、その費用は私たちが納めた税なのであり、言い換えれば法の力を使用して多くの名も無き人間と繋がりあう事を強制し、自らの生活をおこなうといっても良い。社会保障費は政府に決定権があるため政府が生み出すと思っているかもしれないが、原則的に政府が生み出すお金はない。皆、私たちが納めた「税」なのである。現在、高校無償化などを代表するように様々な権利の拡充が求められているが、その権利を支えるのは国民自身である事を本当に理解しているのであろうか。権利の拡充によって、ある点、ある個人は回復するであろうが、しかしその負担が別の点に回る事を、訴えている人は本当に考えているのだろうか。人同士の直接的な繋がりが希薄な現在、このような間接的な繋がりの拡充が政治争点となる事が多いが、国家が有機的な点の繋がりでなければならないのなら、法による無償の権利の拡充や補助金と言った事に対してはより慎重にならねばならず、国家の中でも基盤的な繋がり、つまり親子や親族、地域社会を私たち自身が気づきあげることが先決であろう。しかしこのような事ですら消費社会などを代表する経済論と道徳的社会論を盾とした善悪2元的に割り切ろうとする答えしか求められないから感情的な争いになるのであり、それに法で定められた基準が争点となるから求めるものとの綱引きとなり、また法による基準も「例外」、「特例」などが増え、曖昧になるのである。これが政治の混乱と言わずして何を混乱と言おうか。

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