2012年5月10日木曜日

国家とは何か・情報共有体(2)


 縦の繋がりとはどんなものだろうか。例えば、私たちは食事をとり成長する。食料が、そしてその中に含まれている様々な情報、ビタミンやアミノ酸などいわゆる栄養といわれているものが、体内において蓄積した結果、私たちの血や肉となり、それが私たちの成長に作用しているからである。この栄養の蓄積は個人的なものだが、それは歳月をかけた情報の蓄積でもあるので、情報の縦の繋がり、つまり時系列上の繋がりであるといえよう。
 また、こういう繋がりもある。人間は通常、食事を2食、ないし3食とるが、それを記録すれば食事が身体にどう作用しているか解るはずである。その情報が細かく、正確さをつかめばつかむほど、人間の身体に及ぼす微細な因果関係までわかるようになるかもしれない。ただ現時点で、そのような高度な技術が想像の範囲を越えないのなら、その想像は個人が持つ点の情報にすぎない。しかしそれをを他者に伝え、それを基に研究し、その想像が技術として実を結べば、そこに情報の蓄積があり、それもまた情報の縦の連鎖といえよう。私たちは情報を認識するたびに「想」を得、それが記憶に残れば、それを起点として新しい「想」を生み出し、「わからない」と言う漠然とした情報から「わかる」と言う明確な情報をえる縦の連鎖が行われ、それが大きな歴史として確認できる。そしてまた、私たちの存在も、母なる海より出た生命の多様的な進化軸の一つであるならば、私たちの活動は、終わり無き縦の連鎖の一地点であると言えよう。
 縦の連鎖があるのなら当然、横もある。例えば、私たちが食について様々な事を知ることができるのは、情報が多くの他者から流され、それを共有できるからである。その方法としては、直接に人とやり取りをおこなうことで、また多くの情報媒体、すなわち新聞やインターネット、テレビや広告を通じるものがあり、そこで様々な食料の情報、すなわち価格や調理法、健康や料理の質などの情報を共有し、それが自己の生存の持続の糧となるならば、その繋がりは横の繋がり、つまり現時点で欲する情報を他者と共有できる繋がりとして認める事が出来よう。
 このような横の繋がりによる情報の共有関係は、自分が臨む、臨まざるとも、すでに生まれた時より始まっており、そして私たちは他者と情報の共有をすることで成長してきた。もちろん、この関係は決して無償でも無いし、時には大きな代償を払わなければ情報を得られない時もあるように、有形無形の複雑な関係が発生するが、しかしそれがなければ私たちは生き続けられず、またその関係性の調整こそが政治なのであると私は思う。
 多くの人はその事を忘れているが、私たちは生まれた時、生存を持続するための情報を何も持っていない。そしてそのような時期は生まれてより何年も続き、その間は親や周囲の人間より情報を得る事で経験を積み、それを選択する事で生存を持続しているのである。いうなれば情報は決して自得したものではなく、他者より「与えられた」ものなのであり、私たちは知る事を積み重ねる事で、その意志を、個人を形成して行くのではないだろうか。たとえ成長しても、無から情報を得る事が不可能ならば、未来永劫、他者との交際によって情報を手に入れ、確かめ、共有しながら生存しなければならないと言うのは、もはや「業」と言えるであろう。

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