2012年5月16日水曜日

国家とは何か・情報共有体(5)


 私たちが、現在最も認識できる共有体として大きなものは、国家であることを述べてきた。地球と言う星を意識するには他に生命体がいる惑星、つまり比較対象が必要であり、またもしその様な惑星が見つかって人類にとって驚異となれば、もしかしたら国境がなくなり地球が一つの国家になるかもしれないが、それまでの間、地球が一つになる事は難しいだろう。そして大きな理想を持ち、それを叶えたいのなら、まず周りの共有体の足元を固めねばならず、その土台があってこそより大きな願いを叶えることができるのである。
 さて、国家とは私たち個人による無数の、大きな情報のつながりであることは述べた。また、比較対象が存在すれば単純な印象によって国家を認識出来るが、それは実像ではないことも述べた。しかし、国家の実像を見ようとすれば、その輪郭は一つの情報によって太く描かれている事に気付く。それが「法」である。国民は法によって定められた範囲内の人間であり、法による加護を受け、義務を負わねばならない。現在ある多くの国家は、この法によって治められる形式、すなわち「法治国家」であり、全ての国家、国民は、その規定された法の内容を簡単に越える事もできないし、破る事もできない。つまり国家は法と言う情報が基準となり、枠となっていると言う事ができる。それゆえに政治において魔物のように扱われる「権力」とは何かを探れば、それは法を制定したり、改変したりできる力であると言える。皇帝、君主など専制者が国家を治めていた時代、国家のアウトラインであり基準である法は、全て国を治める専制者、またそれを助ける、もしくは代行する家臣達が担ってきた。我が国も同様であり、貴族、武家、将軍が政治的支配をおこなっていた頃は、法もまたその独占下にあった。普通の国民に何かの才があり、また何らかの拍子で専制者に目をかけられれば、身分を越えて政治に参加し、法に触れる事もできるが、一般の国民が政治に参加し法に触れられる事はまずなかった。視点を変えれば法とは専制者の意志であり、それゆえに国家は専制者のものと言える。それが専制政治なのであり、一部の人間が政治を動かし多くの意志や情報に目を向けない事を、現在でも「専制政治」として非難する所以はここにある。
 では、現在の民主政治において国家は誰のものか。それは日本国憲法に記されているように国民全体のものである。主権者である国民は政治的意見を自由に述べる事ができ、政治的な活動も認められ、また選挙によって法の作成に携わる代表者を選ぶ事ができる。議会制民主主義における国民は、法に対しての最終的な決定権はないかもしれないが、様々な訴えや署名などを集める事によっての意思表示、政治的情報の流布は、本来なら制限されず、多くの力が集まれば法の制定などの原動力になる。つまり、私たちは自由に情報を送受し、共有することで自身の属する国家について考える事ができ、その政治的な決定力を自由に行使できるのである。これこそが、かつての専制政治との最も異なる点であり、そして民主主義の理想であり必然性を示す糸口にもなる。そして私たちが法を定める力、つまり権力を保有しているのなら、国家の外観は私たち自身で決定しているとも言える。

0 件のコメント:

コメントを投稿