2012年5月23日水曜日

国家とは何か・情報共有体(8)


 もちろん現実における政治的問題はこの設問ほど割り切れるものではなく、さらに複雑な問題の狭間で経済のかじ取りをしているのだが、私たちが食料自給率や国の借金に対して不安しか見出せないのは、問題が場当たり的に、また単純にしか考えられず実像がつかめない事と、また既に私たち自身が、実はそれほど経済大国ではないと自覚しており、何も生み出せない小さな島国として自信を失っているからかもしれない。もし本当に経済大国なら、なぜ私たちは残業までして働かねばならないのか、それにしては給与が少ないのか、などの答えについて政治家やコメンテーターからは聞いたことはない。真の経済大国ならば、古代ギリシアのアテネ同様、時間も買え、奴隷を雇い、自由民は政治、哲学、学術にふけるか身体を鍛えているに違いない。しかし日本に一時と言えども、そのような時期があったであろうか。バブル期において私たちはだいぶ消費にいそしみ弛緩してきたが、それでも随分働いていた。絵画や建築物に億単位の額をつぎ込んだが、それは自らが生み出した物では無く、他者の遺物を買ったにすぎない。つまり、接待やタクシーチケットなど、生産からの延長、または余剰を楽しむ事はできたかもしれないが、本当の意味における余暇や安楽があった訳ではないのである。バブル経済は、常にこまめに働き続けて来た結果と、通貨価値の上昇などがシンクロしておきた現象であり、それが経済大国の実像だったのではないだろうか。私はバブル経済期にはまだ学生であり、現在30代であるが、職への不安などは別として、あのころと生活水準がそれほど変わったとは正直思えない。むしろ感覚では経済が低迷中のはずの現在の方が物は手に入りやすく、また余暇も多いような気がする。残業規制などで多くの会社員が不平を漏らすが、本質論で言えば残業代などは実収入と考えてはならず、臨時収入としなければならない。自分の時間を削って残業代を得、不況になり仕事を削られ自分の時間が増えてくればそれに対して不満に思う事は、他の国家から見れば奇異に映るであろう。それだけ私たち日本人はワーカホリック(仕事中毒)なのかも知れず、余暇は余暇ではなく本当は自分の時間なのであり、自分の時間こそが自分の人生であると考えられない人が多いのかもしれない。違う視点から見れば、私たちはゲームにはまる子供たちと同じであり、難関をクリアし共有する喜びは知っているものの、現実的な生活における周囲の人間を簡単に無視しているともいえる。そしてそれは、最も社会を支えねばならない中高年の人間に多い。その理由もまた、給料をもらい水準の高い生活を満たしたいだけという個人的な欲求が根底にあるのは、ゲームにはまる人間と同じだ。だからこそ、高い給料を得てもさらに高い給料を求め、もしくは現状を維持するために、家族や社会を振り向こうとしない。情報とは何度も繰り返し伝え、共有しあう事で深く理解しあえる。親子関係とはまさに基本的な情報の伝達、共有関係にあるのだが、しかし現在の親子関係においてそれは間接的であり、親はその仲介に必要な資金をせっせと集めるが、直接的な関係は放棄する。それは親として自分自身の才能を信じないせいなのか、それとも単に効率的なのかいろいろ答えはある。しかし親と子の直接的な線が細ければその関係は切れやすい糸のようなものであり、それが社会問題、あるいは国家などの共同体における関係性の弱さに繋がる本質的な原因になっていると私は思う。そしてこれは親や子の関係だけではない。労使や地域社会、全ての国家内における人と人との直接的な関係が希薄になり、国民は点としての存在を守ろうと強調し、面としての力を失っているのである。消費社会や道徳的価値観に対する論議、つまり国家の問題の解決は、ここからスタートしなければならない。

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