2012年5月19日土曜日

国家とは何か・情報共有体(6)


 ただし、外観は外見でしかなく、国家の全てを表している訳ではない。私たちが住む家には様々なものがあるが、外観は豪勢であっても中が化け物屋敷のように寂れ、取り散らかっているものもあれば、茶室のように小さいながらも品があり、整然としている建築物もある。法はあくまでも家の外観であり、その中身がどのようになるかは結局住人次第なのだ。宮殿のように外観も中身も豪勢で整ったところもあれば、一見わびた茶室でも物置のように取り散らかって入ればそれはただの小屋となる。国家も同様であり、その国家における法を知れば、国民行動の限界を知ることができるため、その枠組みはうかがい知ることはできよう。しかしその法の中で過ごしやすく整える事は住人次第であり、どんなに良法でもそれを扱う住人の性質が低ければ国家は荒れ果てるだろうし、どんなに住人の性質が良くても悪法が枠組みとなれば窮屈な思いをし、偏狭な生活によって次第にその性質も悪くなるであろう。
  このように国家とは家そのものでありその骨格や枠組みは法であると言えるが、その中での暮らしやすさは住人次第であり、人同士による情報の繋がりが国家にとって重要なのだ。どんなに立派な肩書きや資産を持つ家族でも、その仲が険悪であれば暮らしやすい生活はおくれない。政治とは住人同士の繋がりを調整する事であり、政治家はその調整者なのである。各国民が一つ一つの点であるとするなら、情報は点を繋ぐ線である。法はその線を囲い、また基準となるべき情報だが、生活における人間関係の中で法が情報の繋がりの中心となる事はまずあり得ず、私たちの関係は法以外の、日常生活における情報の反復によって成り立っているのである。人と人とを繋ぐ情報が電線のようなものであれば、法はそのケーブルを包むコーティングでしかない。そういう点から述べても法はあくまでも枠にすぎず、国家とは人同士が繋がりあう「面」の部分が本質であると言えよう。700万年に渡る人類史をみれば、法治国家が成立したのはそんなに古いことではなく、それ以前は人同士の情報、または欲求の繋がりによる集団が国家であった。もちろん、統治者達は法のような拘束力のある情報によって枠線を引いてはいたが、それは人間の持つ感情の力の前にはいとも簡単に破られていったのであり、治めるものが自己都合でその情報を勝手に変える事もあれば、治められるものが耐えきれずに情報を無視する事もある。またなんの情報を共有していない他集団が、その欲求によって平然と侵害する事もあった。定められた情報を打ち破る力による争奪が長い間人類を支配し、その力を抑えられるのが誰も証明できない超越した力、天変地異や死後の世界、自然や霊魂、そして愛など、すべてを包み込む神という情報、そしてそれを整理した宗教によるものであった。わからないものに力は行使できない。しかしわからないものに「神」と名付ければ、それはすべてを抱擁した大きな力になるのである。それゆえに宗教の力は国家を超え、時には法をも超越し人界を支配できたのである。しかし、それも情報であるがゆえに、わからなかったものが明かされる、もしくは論理的な説明のつく情報になれば、神の領域は目減りしてくる。それが現代の「神」の状況につながるのかもしれない。政治においても、もはや神の力は使われず、法の力へと変化していったではないか。

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