2012年5月14日月曜日

国家とは何か・情報共有体(4)


 東西南北全ての国内の人間が現在の様な意思疎通ができるのは、明治以降、国語教育により標準語が普及したからである。従って、国家とは民族などの抽象的な認識よりも、言語などの実際的な表現情報によって形成、維持されているといえ、日本は決して単一民族国家ではなく、単言語国家なのであると、私は言いたい。むしろ、日本において日本語が使用出来なくなった時、また日本語が公用語でなくなった時、それは日本と言う情報共有圏でなく、新たなものへと変貌するはずである。それゆえに、言語によって意思疎通を制限された国家こそが、認識できる最大の情報共有体であるといえる。
 さらにいえば、私たちが情報を意識し考える時、まずおこなう方法が「比較」にある、これもまた国家が最大の情報共有体であると言う論拠となる。ある情報を考える時、データをつらつら並べられても情報が多ければ混乱するだけで実像が見えにくくなる。しかし、そこに比べる対象があれば、自らが持つ情報を梃子とした印象によって情報の輪郭を浮かび上がらせる事が出きる。一人で鏡の前に立っても自分がどのような体格の人間なのかわからないが、隣に人が並べばおおよその見当はつけられる。比較によって得る印象は、対象となる情報と比べただけの、一面でしか情報を表さない正確なものとは言い難いが、しかし単純でわかりやすくはある。国家を考える時も同じであり、確かに私たちは地球と言う一つの星に住んでいるが、他に生物のいる星と比べた事が無いため、私たちが宇宙においてどのような存在なのか漠然としすぎてわからない。この生活が幸福なのか、不幸なのか、発達した社会なのか、そうでないのか、比較対象が無い限り、私たちが地球に抱く感想は独りよがりのものであろう。もし、地球を良く知りたいのなら、人類が他の星に移植すれば比較対象が誕生し、私たちはよりいっそう明確な情報を手に出来るはずだ。
 この様に、比較対象が存在する事で、よりいっそう自己の属するものを意識でき、感情移入しやすくなるのである。ナショナリズムもこの様な観点から生まれる、至極単純なものなのである。当たり前の存在である国家としての日本を意識する人間は、日常において多くはないが、オリンピックやワールドカップなど、たとえ少人数でも日本の代表者が出て別の国家の代表者と対戦すれば、そこに勝ち負けはもちろん、身体能力などの参考データによる比較が「日本」と言う国家を意識させ、私たちは自ら属する国家に感情移入する。また、「外国へ行けば日本がよくわかる」と言うが、外国での生活、また異文化の交流等による経験が比較対象となり、そこから生まれた印象によって個人の中に国家としての日本の像が浮かび上がる。対象が存在し、それが比較されれば、その対象の形は漠然と浮かび上がってくるのである。ただし、この印象は形を為すものとしてわかりやすくなっているが、一面的な、もしくは少数の情報によるもので、決して正確なものではない事を私たちは常に承知しなければならない。わかりやすいものほど実像から遠い。情報が氾濫する現在、広告は意図的な印象を植え付け、政治的な流れも少数の「有識者」による印象によって決定されやすいため、国家は右往左往している。あふれるものの中から、私たち自身が知る努力によってより正確な像を浮かび上がらせねばならないのだが、どうであろうか。

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