2012年5月8日火曜日

国家とは何か・情報共有体(1)


 国家とは何か。それは広義の情報共有体でもある。人はその誕生から死まで多くの情報を交換し、共有しながら生活する。なぜなら私たちは決して一人で生きてゆくことはできず、集団を形成しなければ生存を持続出来ないからであり、そのためには私たち自身の持つ情報を共有しあい、共存における意志の統一が必要となるからである。そして私たちは情報共有集団、たとえば家族、親族など血縁、遺伝による共有、また村や町など地理的な環境内での生活情報の共有、また言語や習慣、文化など様々な情報を共有する集団に属しているが、国家はこのような集団を、法という情報を共有することで一つの大きな力とし、より確実性ある生存の持続を約束するのである。
 ここで私が述べる「情報」とは、実は前記のようにカテゴライズできるほど単純なものではなく、それは他者に「それを伝えることが出来る」、認識、存在するもの全てであり、その一方で非常に個人的なものでもある。身体的な感覚で得られるもの、また精神における創造物など、私たちが何らかの表現によって他者に伝えられる全てがそこに含まれ、それゆえに私たち自身、一人一人が情報の塊とも言える。逆に言えば、私たちが認識せず存在を感知していないものは、当然情報として成り立っていないし、存在もしていない。情報を個人を起点として考えるのならば、その個人が「知っている」ものが、その個人にとって情報といえる。ただ、もし「知らない」ものでも、そこに「知らない」という認識があれば、それは情報として成立し、それは好奇心や研究心などの種となる。たとえば、かつて私たちは、この住む地球の外がどのようになっているか「知らな」かった。しかしその「知らない」と言う事への認識が、想像を呼び神を生み出し、またその「知らない」ものを知りたいという欲求が科学へと繋がった。ゆえに全ての存在や認識、概念を自己なり他者なりに伝える事ができ、共有できるのなら、それは「情報」であると言える。そして私たち自身も、他者から見ればある一つの存在であり、それゆえに私たち自身も情報であるといえるのである。
 そして自らが持つ情報を言語やゼスチャー等の表現によって相手に伝え、認知させ、また相手から情報を得ることで、自分のおかれた環境を認識するこの相互の関係が、「情報の共有」である。私たちは情報を共有し、その連鎖的なつながりによって自己、そして集団の生存を持続させ、そして未来へと繋げている。
 この連鎖的な繋がりを単純に分別すると、時間軸による縦の繋がりと、また現時点からの横の繋がりがある。そして人はその誕生を起点として、この繋がりの関係を立体的に伸縮させて行く。生きるという事は、その死までの道のりをまっすぐに進んで行くが、そこには確実に情報の蓄積が見られ、また忘れるならば、それは伸縮する。またその歩みを点にすれば、その時点での他者との繋がりや別れが確認される以上、そこにも伸縮がある。これを立体的に解析すれば、それは人生となるであろう。

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