2012年5月12日土曜日

国家とは何か・情報共有体(3)


 現在は媒体技術の発達によって情報が手に入りやすくなったと過信して、人間同士による相関関係はおろそかにされ、「業」を投げ出して一人で生きようとする者もいるが、それが実際にはそれほど簡単でない事は世に出て生活すればわかる事であり、他者との交際を避けて生きる事は、自分の持つ可能性や希望を捨てている事と同じであり、他者に知られないで生きることは「死」と同等であると私は思う。間接的に手に入れた情報には責任もない、ただの身勝手さが存在する以上、それが信頼できるものとは言えない。情報が自らの手で簡単に得られるものでないのなら、そしてより確実性のある、信頼すべき情報は、他者と繋がる事によってでしか手に入れられず、その情報によって私たちが生存を続けられるのならば、人と関係を結ぶということは既に共存手段なのである。そして共有、共存関係で、現在認識できる最大のものが国家となる。
 なぜ、国家が最大であると言えるのか。私たちの情報共有関係は、まず最も身近な家族、つまり親子や兄弟から始まる。成長し多くの人間を認識できるようになれば、その関係は多岐にわたって広がる事となり、それは親戚などの広義の「家」、近所などの地域社会、また個人的な学友、親友、趣味の仲間、それから会社での上下関係、人脈が挙げられ、そして自らが新たなる家族を形成する事で情報を次代へ繋げる関係も出来る。しかし、これはあくまでも個人を中心とした関係であり、見知らぬ他者も含めて考えればより広域の都道府県や国家、民族、また生物学、環境学的な分類、すなわち「人間」や「地球」と言った所にも相関関係はあり、私たちは縦、横、斜めへと、またそれを認知する、しないに関わらず、無数の関係を持っている。ただこれらの関係を考えると老荘思想にあるように、全てに、無限に求める事ができ、また霊魂や神など特定の人間が強く信じる情報に軸点を置き換えられてしまう事もあるのでよくよく注意をしながら見定め、考えなければならない。私は地球や宇宙と言ったより広範囲な関係性がある事も否定しないし、宗教などの特殊な情報軸も尊重するが、私たちが現実世界の中で共通して認識できる最大のものは国家であるとこの稿においては規定したい。
 このような限定的な考え方にしなければならないのには他にも論拠はある。そのひとつに、私たちが情報を共有するための手段が言語であることに注目しなければならない。言語が違えば、私たちは意思疎通を行うことが難しく、その難しさがしばしば争いの種になってきたことは歴史の中で証明されている。多民族国家の国は多いが、どの国家も公用語は存在するし、多民族、多言語国家において政治という人と人とのつながりの調整では特に言語による意思疎通が大切なため、その代表者は公用語が、また複数の言語を使用できることが条件となる。この日本においても、かつては方言によって他の地方の人間同士が、話し言葉で情報を交換することは難しかったが、文字は漢字や仮名で統一されていたため、意志の疎通を行うことは可能であった。それゆえに為政者にとって、これらの教養は必須であったし、逆に国民をそれぞれの地域に封じ込め、政治的な力を持たせないためにも、教育の普及など考慮に入れられなかったのである。

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