2012年1月1日日曜日

 これは、2011年、夏、国政議員に送った請願書です。新歩会の目的に添っているため、公開します。


 日本国憲法の改正手続に関する法律 (国民投票法)の改正に関する請願書

  請願事項

1・国民投票によって憲法の改正案などの是非を国民に問う前に、国民が憲法の改正
  を望むか否か、また新たな自主憲法を制定するべきか否か、国民投票によって確
  認してもらいたい事。

2・憲法の改正、もしくは新たな憲法の制定に対する国民投票は、その公示より投票
  までの期間を定め、その間に国民より、できるだけ多くの意見、起草案を募集し、
  国民がその持つ機会を活用する事を保障する事。また、これらの国民の意見、意
  志は「日本国憲法の改正手続に関する法律」に定められた「協議会」など
  の機関によってまとめられ、適宜に国民に知らせ、またその結果を国会の
  場で審議し、それによって憲法改正案、もしくは新たな憲法案を起草して
  もらいたい事。

3・憲法改正、また新たな憲法の選択肢は、総合的な一括案ではなく、憲法の
  各章、もしくはテーマごとに、また各章の改正点、もしくは重要な条項は
  分別し、それぞれ複数の選択肢を設ける事で、より国民の選択の機会を増
  やしてもらいたい事。
  また、その為に、国民投票は一回のみでおこなうのではなく、複数に分け
  て、国民の十分な論議と考えをまとめる機会を与えてもらいたい事。

4・憲法という、日本国の最高法規を選択する国民投票であるため、国民の投
  票の義務化、もしくは80パーセント以上の最低投票率を定めてもらいた
  い事。

5・憲法が日本国の最高法規であり、その選択の機会は主権者である日本国
  民一人一人にあるならば、その案や論議、意志表現の自由を最大限に活か
  せるよう、憲法論議のルールを明確にしてもらいたい事。


請願事項、要旨

1・国民投票によって憲法の改正案などの是非を国民に問う前に、国民が憲法の改正を望むか否か、また新たな自主憲法を制定するべきか否か、国民投票によって確認してもらいたい事。

 現在の日本国憲法の改正手続に関する法律は、国会で審議された起草案の賛否を国民に求めるだけであり、その前提となる国民の憲法改正の意志、また新たな憲法の制定に対する意志などを、省略したものとなっています。しかし、始めにこの意志の是非を問わなければ、国民が同じテーブルに座ることは出来ません。なぜならば、短兵急に国会において改正案を提示しそれを国民に問えば、護憲的指向を持つ人間には
、その選択自体が不満となり、どんなに優れた改正案を提示しても彼らの不満は解消できず、また一方で、それは新しい憲法を求める声を無視するものとなり、それも不満へと転化し、その感情が両者を同じテーブルにつかせようとしません。
 このような不満を解消し、憲法論議を無用な混乱にさらさないためにも、まずは国民の意志を問う事によって、憲法に対するこれからのアプローチを一本化する事が必要であると思います。憲法が国家の最高法規である以上、それは国民の総意によって変えられるべきであり、国民の意志が、日本国憲法の改正なのか、現状のままなのか、また新たな憲法を必要としているのか、多数決によってその意志を問い、国民の意志が改憲、もしくは新たな憲法の制定を望むのであれば、そこに大義が出来、憲法論議もスムーズに、そして活発におこなわれるものと思います。
 憲法の改正、また新たな憲法の制定というのは、時代を変える事に等しく、それは何らかの思想や考えの下で一方的に行われるのではなく、日本が民主主義国家であるならば、国民が等しく同じテーブルにつく事によって、より良い結果が望めるのではないでしょうか。日本の憲法に新たな息吹を吹き込むのは、全ての国民であらねばならず、そこに無用の摩擦を生じさせないためにも、憲法論議の手続きはきめ細かくおこなうべきであり、そのためには国民への意志確認が必要であると思います。
 

2・憲法の改正、もしくは新たな憲法の制定に対する国民投票は、その公示より投票までの期間を定め、その間に国民より、できるだけ多くの意見、起草案を募集し、国民がその持つ機会を活用する事を保障する事。また、これらの国民の意見、意志は「日本国憲法の改正手続に関する法律」に定められた「協議会」などの機関によってまとめられ、適宜に国民に知らせ、またその結果を国会の場で審議し、それによって憲法改正案、もしくは新たな憲法案を起草してもらいたい事。


 日本において政治不信は、深刻な問題となっています。政治家と国民が職業的な階層として分化し、その距離が開いた結果、国民は政治家が様々な実情を知らないのではないかと疑いを持ち、またそのような政治家が独善的に事を進めているという不安が、より一層その不信を増幅させている、この事は世論調査や選挙における投票率から見ても明らかだと思います。日本国憲法の改正論議も、一部の議員がきりもみ的に事を推し進めようとしている印象にある以上、それは政治不信を抱く国民にとってみれば権力の強行と映り、それがどんなに良質のものであっても、その同意を得られる事は非常に難しく、また多くの不満も生まれます。
 しかし憲法の改正を含めた論議は、現在の停滞、下降中の日本において、新たな可能性を切り開く一大方法でもあり、この論議の火を絶やす事があってはなりません。それがゆえに、私は「日本国憲法の改正手続に関する法律」の改正をおこなう事で、日本国民がより一層憲法論議に関心を持つようにすべきであり、自分たちが主権者として、「決定する機会」を持っている事を意識させるべきだと思います。
 日本国憲法の第96条を見るに、国会が発議し、国民に提案する事は、あたかもその改正には議員しか関与できない、ととる事が出来ますが、しかし日本国憲法における民主主義制度は、請願権などに代表されるように、国民の直接的な政治参加が認められており、さらに国民は主権者である以上、国家の最高法規の改正、または新たな制定に対して、その意見を存分に伝える事は当然の権利であるはずです。
 しかし現在の「日本国憲法の改正手続に関する法律」では、その点の記述が不十分なためか、国会のみにで審議された選択肢を選ぶだけの制度と解されており、そこに多くの疑いが生じています。それを払拭し、憲法の改正が一部の議員、もしくは政党が主導しておこなうものではない事、またその選択肢に国民の意見を反映させる事を確約し、国民の持つ疑いを取り除くためにも、現在の法制度を改正する必要があるのではないでしょうか。
 日本における憲法論議は、どうしても9条を中心におこなわれています。私は自衛権の明確化のため、また認められるべきものを認めるために、その改正は必要であると考えていますが、しかしその改正一事をとってみても、私の意見は自衛権の確立には賛成ですが、核や大量破壊兵器の保有や行使は望んでおらず、集団的自衛権には懐疑的です。多くの国民も皆それぞれ異なる意見がある以上、重要な事柄の選択肢には、その意志を確実に反映させなければなりません。それは現在の9条の条文をそのまま、もしくはその理念を残しておきたい人達にも、それを選択肢とする機会を認めるべきであり、対立する選択肢があるからこそ、より広く、発展的な論議が期待できるのではないでしょうか。そしてこのような論議を国民が認識する事で、国民の中に様々な決定的意識が醸成され、それが良い結果を生み出す力になると思います。

 では、このような国民の意見をどのように取りまとめればよいのか。
 国民の意見も種種あり、その玉石は混交し、また重複する意見も多いでしょう。そしてそれら全てを選択肢としてあげる事は不可能であるため、それゆえに審査機関は必要であると思います。
 日本国憲法の改正手続に関する法律には、国民の意見を知るための機関として「協議会」の設置が記してありますが、私としては、その協議会は意見を聞き、それを公表するだけではなく、その意見を取りまとめ、最終的な選択肢を作る国会での論議の下地を作成するところにすべきであると思います。
 人間は皆、その環境や経験から立ち位置が違えば、その持つ信念や視点が異なるものであります。それゆえに色々な意見が出てくる事は当然の事であり、そのどれが有益であるか、最終的には国民に委託された立法府である国会においておこなうべきですが、その前提となる国民の意見は、なるべく多く徴集すべきです。この「協議会」を通じて、国民個人、また政治家もその属する党や組織にとらわれず、自由に意見を提出できる環境を作り、より発展的な論議をおこなうためにも、「日本国憲法の改正手続に関する法律」における「協議会」の制度の拡充、そしてその明確化は必須であると思います。


3・憲法改正、また新たな憲法の選択肢は、総合的な一括案ではなく、憲法の各章、もしくはテーマごとに、また各章の改正点、もしくは重要な条項は分別し、それぞれ複数の選択肢を設ける事で、より国民の選択の機会を増やしてもらいたい事。
 また、その為に、国民投票は一回のみでおこなうのではなく、複数に分けて、国民の十分な論議と考えをまとめる機会を与えて欲しい事。

 憲法が国家の最高法規であるならば、国民はその憲法の定めた基準を逸脱する事は出来ず、またそれは多くの国民の行動の制限と開放の基準となるならば、それは国民個人の集合である国家を包み込む範囲となります。
 憲法がそのような重要性を持ち、また範囲の広大であるならば、国民の総意によって憲法を改正、制定するには、多少の月日をかけてでも綿密におこなうべきです。
 日本を含め、どの国家の憲法史を見ても、それは少数の代表者が決定した1つの選択肢を承認するものであり、多くの国民の関与によって創り上げたものはいまだありません。それゆえに、このような試みが国際社会の中では日本が最初になるならば、今後の民主主義国家のあり方に一石を投じるものになる事は間違いなく、その成功は確実な栄誉となる事に間違いはありません。
 
 憲法の改正、ないしは新たな憲法の制定の全ての作業に国民が関わる事は、その起草から決定までの作業効率性としては、非常に悪いものかもしれません。  しかし多くの国民が真剣に憲法を考える事で、それはより良い結果を生み、また国民の政治意識が良質なものへと喚起される事で、そして国民の力で憲法を定められたという自信は、将来における日本の発展の促進剤になると思います。付け加えれば、憲法に対して関与が深まれば深まるほど、その遵法性は期待できる事も上げなければなりません。
 これらの事を実現するために、私は憲法の改正、また新憲法の制定を、1つの起草案によっておこなうのではなく、憲法の各章、またそのテーマ、そして重要な条項ごとに複数の選択肢を用意するのが、最もよい方法論であると思います。
 1つの総合的な選択肢では、例えば国民の権利の部分は承認できるが、安全保障の部分は承認できないなど、範囲が広範なため論点を絞る事は不可能であり、また憲法の存在意義を考えると、その1つ1つの論点を見過ごしにしても、党派間の取引材料とする事も許されません。憲法の改正、ないしは新たな憲法の制定が、将来の国民に対して遺憾なき効力を発揮するならば、それを決定する私たちは重い責任を負っていると自覚せねばなりません。それを考えると、包括的な一つの案を選択する事は、効率的な方法かもしれませんが、そこに綿密な意思決定をおこなう事は不可能である以上、断然承認できないものであります。
 また包括的な一案に対する承認となれば、それは一部の起草者に多くの決定権が寄与され、国民の憲法に対する意志、選択は小さなものになり、結果として多大な不満が残る事は間違いありません。このような不満を放置しておく事は簡単ですが、しかしそれが燻り続けていれば、何かの切っ掛けによって引火し、それは国家に対して大きく悪影響を及ぼします。憲法の範囲が、そのまま国家の範囲となるならば、そこに不満を残す事はできるだけ小さい方がよく、そのためにも、各章、またテーマ別に選択する方法が、各論点ごとに十分な理解を得た上での決定となるため、最もよき決定が得られる事になると思います。
 しかし、ただいたずらに時を費やすのも考えものであり、国民から意見を徴集し、国会においてその選択肢を決定するのに一年。それから国民にその選択肢から投票によって決定してもらう作業に一年で十分であり、投票の機会は2から3ヶ月に一度おこなうという形にすれば、十分な論議が期待でき、またその論議が弛緩せずに良質の憲法が誕生すると、私は信じます。


4・憲法という、日本国の最高法規を選択する国民投票であるため、国民の 投票の義務化、もしくは80パーセント以上の最低投票率を定めてもらいたい事。

 憲法は、一国の最高法規です。最高法規というのはその下に、その国の全ての法規を従える事ができる権限を持ち、そして国民はその憲法の範囲を越える事は原則的に許されません。それゆえに憲法を改正する、また新たな憲法を制定するという事は、全ての国民に関わる一大事件であり、民主主義国家日本において、国民が主権者であるならば、その関与は義務であると私は思います。
 現在、選挙の投票率などを見るに、政治に対して無関心な国民は多いようですが、しかしこの無関心層を考えると2通りあり、1つは全く無関心な者、つまり自己の安定が保障される限り、全く政治参加に関心が無い者であり、もう一つは、政治には多いに関心があるが、現在の政党、確立した組織の党派制に疑問、もしくは嫌気を抱き、選挙に参加しない者がいると思われます。
 本来、民主主義において、国民は自身の代表者を選出し、政治の専業者とする事は義務であり、そのような意識を持った国民こそが、様々な形で国家の原動力となり、繁栄を導きます。しかし現在の政治に対する無関心は、そのまま政治の乱れとなり、政治、経済、モラルなどにおいて、様々な悪影響を及ぼし、日本は下降しつつあります。国民の政治参加には確かにその自由が保障されるべきですが、しかしその結果が国家にとって悪しきものとなるならば、それを防ぎ、正す事が法の効用ではないでしょうか。

 私は、憲法の改正、及び新たな憲法の制定論議というものが、改めて国民の政治意識を目覚めさせ、それによって新たな日本の可能性が開けると信じていますが、今まで政治に対して無関心だった者が、すぐにそれに目覚めるはずもない事は誰にでも想像でき、それがゆえにこの投票を義務とする事で、多少は強引ながらもその関心を振り向けさせられれば、日本の可能性はさらに広がると思っています。
 さらに憲法が国家の最高法規である以上、それに関わる事の出来なかった者は、その動機はともかくとして、それは根強い不満者になる可能性もあり、そうした不満者が新たに生まれ変わった日本を、悪しき方向へと向かわせる要因になる事も指摘せねばなりません。
 それゆえに、私は憲法の改正、また新たな憲法の制定は、国民の総意であらねばならず、行使の分別がつき、また生活より政治的意識が理解できるようになる現在の有権者の年齢から、その投票を義務とし、また自発的な権利の放棄を認めざるを得ないのなら、最低投票率を定めるべきであると思います。

 昨今の政党政治において、その党利、党派性を維持するために、全ての国民が選挙に関心を持つ事を望まない、特に宗教系の政党はその信者の数を活かすためにもそれを望むでしょうが、そういったものは許されるべき事ではありません。民主主義国家では、資格ある国民が有権者として自らの代表者を選ぶ事は義務であり、本来、これに反する者は共存社会である国家に対して、その公益だけを受け取り、その国家に対して貢献しない罪を負わねばなりません。現在の日本は、憲法も民主主義も敗戦という事件の結果、占領国から与えられたものであるため、その本質的な意味を認識せず、いまだに前近代的な力の継続による安定にたより、その変化を極度に恐れ、結果としてバブル経済の崩壊よりこの20年間、停滞状況が続いているといっても過言ではありません。
 こうした状況を打破し、再び日本の隆盛を望むのならば、国民が変化に参加する事を恐れず、その変化こそが自己の本当の安定となる事を信じ、それがゆえに、私はこの投票を義務とする、もしくは最低投票率を設け、それに参加する意識を芽生えさせなければならないと思います。


5・憲法が日本国の最高法規であり、その選択の機会は主権者である日本国民一人一人にあるならば、その案や論議、意志表現の自由を最大限に活かせるよう、憲法論議のルールを明確にしてもらいたい事。

 日本において政治が停滞している要因の一つとして、国民の日常における政治的論議の少なさが上げられます。
 私たちは様々な政治的情報を、テレビや新聞、本やインターネットで手に入れますが、それらの情報を個人の中で咀嚼した結果を、周囲に漏らす事はなかなかありません。情報に対する認識が人によって異なるのならば、それを比較、検討する事によって、より良い判断材料となります。正常な民主主義国家ならば、国民が大いに政治的意志を表明し、そしてそれを話し合いや討論などによって昇華することで、良い国家を築くための材料となるのですが、現在の日本において、そういった政治的意志表示の積極性のなさが、ただ、与えられた情報をそのまま鵜呑みにし、それに流され、国民の政治的意識は少しも向上しません。こうした結果を考えると、それは日本の民主主義というものが、敗戦によって米国から与えられたものであり、それを自得したものでない事を上げる事が出来、それは日本国憲法の制定過程に如実に表れています。そしてそれは私たち自身の憲法に対する認識、自由や平等、国家や公共の福祉というものが、あまりにも私的に解釈されすぎ、その自由の基準が乱れている事からも推察できる事です。
 私はこのような日本の現状を変えるためにこそ、憲法の改正、もしくは新しい憲法の制定、そしてその論議が必要であり、これらの行動こそが国民の政治的意識を目覚めさせるものだと思っています。

 政治とはいかなるものか。私はそれを自己と他者、個人と集団が、そこに共存するための関係性であると考えます。人間は一人では成長も生存も行えず、その結果他者との共存の道をとらねばなりませんが、しかしどうしても自己の欲求を優先させようとする。しかしそれが行きすぎると、その共存関係は壊れてしまう。それを防ぐために、私たちは政治的な関係を結びます。
 それゆえに政治的行為の本質は調整にあり、そしてこの調整をおこなうために必要なのが、自己の立場を表明し、また他者の立場を理解する、このような意志の疎通、交換が必要となります。
 かつての専制時代、その意志の疎通は一部の特権者、つまり政治にかかわりを持つ事のできる資格者のみがおこなう事のできるものでしたが、現在は国民が主権者であり、その意志の疎通は、憲法の範囲内である限り、誰にも妨げられません。
 しかし現実はどうでしょうか。企業や公共の場などにおいて、その敷地内で、またその休み時間に、堂々と政治を論じる事などできるのでしょうか。学校において、学生がその主張を表明する事が許されているのでしょうか。何らかの党派が主催する集会に行き、初めてその政治的な意見に触れる事は出来ますが、そこにおいて一市民が発言する事、もしくはその党派とは異なる論をもって質疑した場合、それは受け入れられるでしょうか。
 このような民主主義下における政治の自粛的行動は、いまだに日本人が過去のくびきから抜け出す事が出来ず、また60年代における数々の政治闘争が強く印象に残るため、それを上から強いているような感じがしてなりません。しかしそれが結果として日本の政治的停滞に現れているのならば、それを変える事が政治家の使命なのではないでしょうか。

 日本における最高法規である憲法の改正、そして新たな憲法の制定は、少なからず国家そのものの形を変える事になる以上、日本国憲法に定められた国民主権を厳守し、その意志の疎通の自由は保障しなければなりません。そして現実的にはその法令が認知されていても、実情としてそこにいまだ自粛の影があり、個人の政治的な発言を封じる動きがあるならば、それは何らかのルールによって改善されるべき事と思います。
 特にこの点において強調されなければならない事は、まず、いかなる党派、団体、組織、宗教などにおいて、個人が発する政治的意見を危険なもの、異質のものと見なして疎外してはならない事。また、政治的論議において、いかなる強制、または圧力、暴力は許されてはならないこと。そして政治的意見の持ち主を追跡し、その私生活においてまで事細かく調べ上げ、それを中傷、または政治的意志の変更の種にしてはならない事などです。
 日本国憲法の改正、また新たな憲法の制定は、その事の重要性から見ても、数々の困難が待ち受けているのは想像に難くないです。しかしその困難を乗り越えるために必要なのは、組織などによって数をまとめ上げ、効率的に事を進めるよりも、あくまでも民主主義国家としての正道を歩み、個人の意見、意志を最大限に尊重する事で、多くの可能性を引き出す事ではないでしょうか。そしてその結果、多数決の選択により、個人が集としてまとめ上げられ、それを決定する、それでよいと思います。
 様々な議員の意志、動向を見ても、それは1つの党派として括られるほど簡単なものではありません。しかし現在は、力による安定とその効率化を計るため、無理やり党としてまとめ上げ、政治家個人の意志を圧殺する風潮があります。派閥や党議拘束、また比例代表の名簿などは、その典型的な方法ともいえ、中でも党議拘束は、国民から信任された議員の行動を封じる悪しき慣例となりつつあります。こういった慣例から憲法論議を守り、政治家が国民の代表者としてその意志を存分に表明する、また国民も、その政治的指向が経済活動と切り離された上で表明されるならば、それを十分に尊重しなければならずその下地は作るべきだと思います

 憲法論議は国民の総意でおこなわれるべきであり、その始まりから終わりまで、国民がかかわる事で、新たな日本の可能性が生まれます。そして国民はその機会と権利を既に有しています。しかしながら現行の「日本国憲法の改正手続に関する法律」では、不十分な点も多く、その結果、国民は多くの不信を抱いています。それが民主主義国家日本の下降を促進させるものであるのなら、それを改善すべきであると思い、この請願をおこないます。






「日本国憲法の改正手続に関する法律 (国民投票法)の改正に関する請願書」の送付について


 私、山田忠弘は、神奈川県相模原市在住の3人の子を持つ父親であり、そして神奈川県で働く一市民です。特に何らかの政治団体にも、宗教団体にも属してはいない、右でも左でもなければ、保守でも革新でもない人間です。
 そんなごく普通の生活を送っている私ですが、かねてより日本の現状を憂え、この日本をより良く次代に引き継ぎ、なおかつ更なる隆盛を実現するためには、日本国憲法の全面的な改正、もしくは新憲法の制定が必要であると考えています。
 現代民主主義国家は、そのほとんど全てが憲法を最高法規とし、そしてこれが国家の基準となり、それがゆえにその国家を形作る範囲となっております。我が国においても、敗戦という一大事件を経て、占領者である米国より、現在の憲法を与えられて以降、それまでの国家の範囲は拡大し、多くの自由と権利によって、国民はその努力が報われるという恩恵を受け、経済大国として発展してゆきました。
 しかるに、現在の日本は、その拡大した自由と権利が、日本国憲法の持つ本来の精神とは裏腹に、私的に応用され、動機のある者、もしくはそれを押し通す力のある者だけが、その恩恵を享受でき、声を上げない国民は国家の経済が低迷と共に、その生活水準は押し下がっています。
 自由とは何か、それを考えると種種様々な答えが出てくるでしょうが、しかしそれがどんなに善的な動機によるものであっても、それをかなえようと望むものであるならば、それは欲求にしか過ぎません。日本国憲法において、自由の範囲は飛躍的に拡大しましたが、それはまさに欲求の拡大といってもよく、それこそが日本の経済発展の原動力となったのですが、経済的地位が頂点に達し下降しつつある現在でも、その拡大した自由を維持しようと望むあまり、国債の現状に現されているように、国民の負担は不必要に増すばかりです。

 国家とは、その構成者たる国民個人の集合であり、そしてその国民が生存のために自らの自由を制限して他者と繋がりあう共存社会です。誰もが自分は生き抜きたい、その生を安泰にすごしたい、そう願いますが、しかし自分一人では生きられません。父母に育てられ、師友と共に学ぶなど、身の回りにいる人間から様々な手を差し伸べてもらう。またその一方で、見知らぬ人間がそれぞれ自分の役割を果たす事で、私たちが出来ない事を補ってくれる。このような大きな分業形態が、この共存社会を支えています。
 しかし現在、それはどうなっているでしょうか。社会保障はある程度充実し、自己の問題を国家が金銭によって解決する事もありますが、その結果毎年度の赤字国債の発行は累積し、今やGDPの150パーセントの債務を抱え、しかもそれはとどまるところを知りません。今ある自分の問題を自己の力で解決を図らずして、将来の国民にその力を借り自己の安定を持続させようとする、いつから日本人は、このような恥ずべき国民へと成り下がったのでしょうか。 
 自己の問題を解決するためには、まず自己の身の回りの者達と協力しあう事が大切なはずですが、現在は自らの自由を守るため、それを省略し、姿の見えない他人、つまり広義の国民を頼り、金銭をもってその解決を図ろうとしています。またその一方で、自己の立場を守るため、他者を平気でけり落とし、その行為を法の保護にあるとする、例えば派遣切りがそうですが、こういった問題もまた金銭によって解決を図ろうとする国民、それが現在の日本人です。
 
 こういった現状に対して、国民が経済的な繁栄と共に堕落していったからだと捉える事は簡単ですが、しかしこういった行為が全て日本国憲法によって保護されているのであれば、そこにある種の間違いを認めざるをえません。日本国憲法が施行され既に60年以上経過しますが、その歳月と共に、その法の理念、本義が薄れ、また現代社会に適合し辛くなってきているのならば、それを変えない限り、現在ある問題を解決する事は不可能です。
 では、誰がそれを変えるのか。それは権限を持つ議員なのか、それとも知識を持つ有識者なのか。限られた人間がその力を行使し、大衆を無知な者だとしておとなしくさせるべきか。
 そうではありません。変えるのは、民主主義国家として主権者である国民自身です。国民が自分の持つ知識、また信念を発揮すれば、その力は手に入ったも同然であり、私たちが憲法の制定に望む事によって、日本の新たな可能性は開かれることになるでしょう。
 誰もが様々な立場から、多くの意見を持っています。それを交換し、また討論によってそれをさらに深化させる、そうして最終的には投票による多数決で決定する、これこそが民主主義国家における正当な政治意思決定のプロセスではないでしょうか。
 しかしそうは言っても、現在政治には無関心、もしくはメディアなどによる与えられた情報に流されやすい国民が、それをできるのかどうか、その答えを信じてよいのかどうか、そこには不安と未知数だけがあります。
 確かにそういわれてみると、現在の日本人は、その政治的な機会を行使せず、また通常の生活において、政治は不満以上の情報にはなりえていません。上が公私の別を守らないのならば、誰がそれを理解できるのでしょうか。自己の立場、その欲求そのものの実現のために政治が存在する、そう思う人間が多ければ、不満者は常に、どこにでも存在する事になります。そういった政治意識が国民に深く根ざしているならば、彼ら自身の手によって国家を変える事は難しいかもしれません。
 では、このままで国家はよくなるのかと問えば、答えは「否」と答えるしかないと思います。私たちは現在、問題をただ先送りにして、時による解決を待ち望んでいるようですが、実際に時が進み、その中で無数の変化が行われているのならば、その中でただ待ち望み自己の安定を維持しようとする事は不可能です。そしてそうであるならば、私たちはその能力がなくとも、困難を乗り越えなければならないのではないでしょうか。変化に立ち向かい、自らの手によって問題を解決するならば、私たち自身でそれを行うしかなく、いたずらに時が過ぎるのを待つのはかえって問題を悪化させるだけです。それゆえに、私たちは勇気を持ってこの国難に当たり、私たち自身の能力を尽くす事で、国家の大法を定め、それによって時代を切り開かなければならず、私たち日本人はそれができると信じています。
 
 今回、この請願書を送るにあたって、一私人なりに、憲法の事、安全保障の事を真摯に考えているという事を証明するため、私が起草した「新日本国憲法私案」とそれに基づいた安全保障に関する提言を合わせて送付します。この「新日本国憲法私案」は私自身が作成したものですが、私は現在の日本、また日本国憲法公布以降の問題の解決を考えた結果、いささか硬性的な案となりました。拡大し続けた自由、そしてそれによって乱れた基準と共存関係を直すため、そして国債の発行残高、また日本の国際的な競争力を考え、これから経済的に悪化し続ける事を考えれば、それを回復させるのは国民自身の力であると思い、その協力を義務として求めています。
 ただ、誤解のないように言っておけば、わたしは自由と統制、解放と制限、この2者の良質な対立による均衡こそがよき国家を築く条件であると思っています。現在の日本はいささか自由に傾きすぎ、解放されすぎた部分が多いと感じるため、このような憲法案となりましたが、もし、憲法の改正、また新たな憲法が、統制的な国家として国民の制限が激しければ、私はその実情を変えるための新たな憲法案を提出して、その将来のために主張しようと思います。


この請願書についてですが、私は若輩の一私人であるため、始めから同意してもらえるとは思っていません。また、私の改憲活動は、右や左、保守や革新といった党派を超えたものが理想となるため、各政党、また各党より神奈川県を選挙区としている方、私の方で選んだ方にお送りさせていただきます。
また、その請願の可否を問わず、できるだけ多くの方よりご返答いただけましたら幸いです。

請願書を送付した政党、議員

民主党・本村賢太郎議員(神奈川14区)
    笠 浩史議員 (比例南関東ブロック) 
    前原誠司議員 

自民党・河野太郎議員(神奈川15区)
    小泉進次朗議員(神奈川11区)
    安倍晋三議員
    石破 茂議員

たちあがれ日本・平沼赳夫議員

国民新党・亀井静香議員

みんなの党・江田憲司議員(神奈川8区)

社民党・阿部和子議員(比例南関東ブロック)

共産党・志位和夫議員(比例南関東ブロック)

 公明党、幸福実現党は、宗教勢力が多大な背景となっているため、政教分離の原則に基づき、送付を控えさせていただきます。また一部メディアにも送付しました。ご意見をいただければと思います。

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