2012年1月19日木曜日

日本国憲法を変える理由(3)


しかし一方でこの自衛隊の問題は、それを日本国憲法の下で推し進めてきた者達に多大な責任がある事は言うまでもない。冷戦の始まりや朝鮮戦争の勃発など、国際社会における平和な時期があまりにも早く終わるとは、日本国憲法の制定時には予想していなかっただろうし、ましてやその緊張の舞台が日本の周辺地域であるならば、それから国民を守る手段を持つ必要はある。当時の日本は占領中であったため、米軍という巨大な力を擁していた事は確かだが、それに依存する事は独立した国家の要件としてふさわしくなく、それゆえに自衛の手段を早急に用意しなければならないという苦慮もあった事であろう。ましてや軍という力をその当時は鮮明に記憶していた時期である。
本来ならそのような時こそ、国民によって真摯に討議し、部分的にでも憲法を変えるという手段もあったはずだが、国民はその日々の生活に追われ、また国民にとってみれば民主主義は突如与えられたものであり、その力の行使は簡単に認識できるものではなかった。それは憲法が変わり、民主主義国家となったにも関わらず、戦前の政治家が各政党の領袖として君臨できたことからみても、またその系譜が現在に脈々と続いていることから見てもよくわかる事である。国政においてもそうならば、地方においてはそれ以上であろう。政治家はいまだ国民は治められるものであるという認識が、自衛隊の存在を合憲であると強行したともいえ、これもまた憲法の軽視に等しい。当時の実情から考えれば時間が足らず、仕方の無い事だったのかもしれないが、この一連の政治的な流れが国民に、かつての軍部に見た強引さを想起させても仕方のない事である。そして戦後日本における一時的な政治沸騰期である安保闘争や学生闘争は、皆、既存政治家のこの強権的な手法が原因となったものである。しかしその混乱の結果、日本国民は民主主義体制にも関わらず、政治意識を停滞させ、より古い政治手法を容認してしまった。政治とは誰か目立った才能のあるものが、もしくは政治家であり続けたものがおこなうものとし、政治家もまた国民が政治に口出しするのを喜ばず、政治的意思を持つものを異端視し、敵視する。それは企業においても見られることであり、自分たちの内部統制を確保するために、国民の政治参加を喜ばず、職場などにおいて政治の話をする事を自粛させるように、民主主義国家としてはあからさまな停滞を見せ、それは現在にも続いている。確かに消費税の導入など、自分たちの生活に直接かかわることに対して、国民は安定を求めるために抵抗したかも知れないが、それでも保守与党による政権は長く続いたことから見ても、この私の見方はあながち間違っていないと思う。そしてこの民主主義の停滞こそ、最も憲法の精神に反したものといえるはずなのだが、それを主張するものを私は知らない。
この政治的混乱の時期を境にして、国民はその政治意識を自粛の方向へと足を進めた。最も、その穴埋めを経済成長でおこなえたため、その停滞は投票率を見てもわかるように悪化の一途をたどり、それは今現在に至る。ただ現在の国民は、来たるべく大きな変化を察してか、少しづつ政治意識に目覚めつつあるが、その行動が今一つ表面的なものに過ぎないのも、私たち自身の政治意識がはっきりとしていないからであるといってもよい。それは国民の基準たる日本国憲法における、自由とは、平等とは、国家とは何かという事を自問してみればわかることであり、その答えが教科書の範疇をでないのなら、私たちはいまだ「与えられた」情報によってでしか物事を考えていないことがわかる。民主主義における個人の確立は、個人による知の確立であり、その知の多様性を多数決によって選択するのが民主主義国家の手法とも言える。ただ、私たちが余り考えることのないそれらの原義、日本国憲法におけるそれらがどのようなものであったのか、明確な答えを出せるものも多くはあるまい。むしろ誰もわからないのかも知れない。それは日本国憲法自体が「与えられた」ものに等しく、それが民主主義の手法を以て選択したものでないのなら、国民がそれを知る術はないだろう。そしてそれこそ、日本国憲法の急所であるといえ、日本が民主主義国家として変化に対応し、前進するのならば、私たち自身の手で、自由や権利などといった言葉を考え、その答えを新たな憲法に反映させねばならない。
以上のように現在の日本の諸問題が、日本国憲法の保護の下、積み重ねられた事実であり、そしてその問題の解決のためには、日本国憲法を今一度見直さねばならない時期に来ている。そして私たちが民主主義国家の国民として、再び成長を目指すのなら、「与えられた」日本国憲法ではなく、私たちの政治意識の結果としての新たな憲法を制定する必要がある。その運動を国民全体で推進することで、国民は国家や自由、権利などを再認識することであろうし、それは政治意識の成長へと繋がる。そして一方で、私たちが日本国憲法の下、抱え続けてきた問題を清算するためには、変化を受け入れねばならない。しかしそれが一部の人間に利するのではなく、国民全体が共に代償を払い、国民全体の成長を見据えるものにし、さらに現在有る問題を再び起こらせないようにするためには、国家の基準を再編しなければならず、そのためにはやはり憲法を変えなければならない。
これらの理由で日本国憲法を変えるには、十分足りると思うが、今一つ納得できないかも知れないため、もう少し詳細を書き記しておきたい。次の章ではまず、憲法の意義そのものに結びつく国家の基準について述べ、次にそれを護る私たち国民の意識について説いて行きたい。そして最後に平和的な変化の受容と、過去にしばられ続けている私たちの解放を記すことで、日本国憲法を変える理由を述べ終わりたいと思う。

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