2012年1月17日火曜日

日本国憲法を変える理由(2)


なぜ優れた法理念を持つ日本国憲法が、国家をそのような方向へと導いたのか。それはあまりにも理想的で、抽象的すぎる法理念、条文と、それを巧みに利用する国民精神の双方に原因がある。
法が国民の基準としての範囲を表し国家を形作るものならば、そこに様々な理念や理想を込めるのは当然な事である。しかしそれは全ての国民がそれを認識し、それを目指す為に法を遵守する事を誓わねばならない。ただ、法が国家の基準である以上、それは理想だけでなく現実的な側面も持たなければならない。憲法にどれだけ理想を込めても、国民が金銭など共存に必要な力を供出しない限り、それを支える事は出来ないし、国民全てが善人でないのなら、そのための罰則を設けなければならない。それは様々な各法によってなされるだろうが、しかしそれらの法も憲法の範囲を越えて制定することが出来ないのなら、親である憲法は国家の現実的な側面に配慮しなければならないのである。日本国憲法にも、様々な理念や理想が込められているが、それらは「国民の不断の努力」や「公共の福祉のため」という但し書きがついているように、あくまでも国民という共存集団の一員がまもる現実的な規範となっている。それなのに現実への対応よりも、その理念の達成に比重をおけば、現在の日本国民の幸福が国債に依存することによって成り立つように、将来の国民の権利、幸福など、何も考えない結果となる。現在の国民に限定した、さらに一部の国民のための権利や幸福の追求が、果たして日本国憲法の目指す理想や理念なのだろうか。
法には、大いなる理想と現実への対応とのバランスが大切になり、その乖離は法への軽視となって返ってくる。例えば自衛隊は、その存在からして日本国憲法との整合性に問題がある。ただ単純に憲法九条を読めば、自衛隊の存在意義、また紛争地への派遣などのことは、憲法の条文、理念に著しく反していると誰もが思わざるを得ない。しかし現実的には、第二次大戦以降、国際社会が平和を維持しているとは言い難く、またその解決には武力が用いられる以上、国家の自衛のため、そして国際社会の一員としてその秩序を支援するためには、自衛隊の存在は必要不可欠である。ここに憲法の理想と現実の社会事情との乖離が見られる事は、誰も否定できないはずである。
このような法の理想と現実との乖離がどのような現象を引き起こすのか、自衛隊の問題などでうかがえるように、まず一つの理由として、政治活動の進捗に常に影響し、法的な問題の論議がその停滞を助長する。例えば国会内における論議において、かつては自衛隊の問題が俎上に上がるたびにその憲法との整合性は問題になり、時にはそれが国会日程、政治動向を遅らせる事にもなった。さらに自衛隊と憲法の整合性の問題は、自衛隊の存在が現実的に必然性を帯びてくれば来るほど、国会において野党側の存在意義とその駆け引きの要因へと堕していったと私は思う。それは法案の一字一句、もしくはあまり影響のでない範囲での法案の修正のために野党は与党にかみつき、揚げ句の果てには牛歩戦術や、審議拒否など、国会そして議員を選択した国民を軽視するような行動をとるようになった事から見ても、果たして野党は本当に憲法に忠誠を誓っているのか、その行動は疑わしいものがある。本来、国会内の意見対立は、論戦によって行われるべきである。しかし自衛隊の存在が既成事実として認められ、覆しづらくなった時から、政党の存在意義としてだけ憲法の九条護持を高言するようになり、実際的な力を発揮する事は全くなくなった。自衛隊も、また天皇制も消極的ながらも認め、現実と折り合いをつけたなどと言うが、違う角度から見れば、これほど憲法を軽視した勢力を私は知らない。現在、彼らの多くは日本国憲法を護ろうとする立場にあるが、彼らは政治的信念から憲法を護るというより、日本国憲法が無くなれば彼ら自身の存在意義を失うからであり、なぜなら、もし自らの平和主義を押し通し、またその他の様々な権利について自らの考えを親権に訴えたいのなら、日本国憲法にこだわるでなく、自身が新しい憲法草案を出す事で、より良い未来への選択肢を提示することも出来るはずだが、それを全く行おうとしていないのならば、彼らはただ日本国憲法に自己を依存していると見られても仕方のないことである。日本国憲法の条文と現時点で実現不可能な理念を結びつけ、それを種として勢力を作る。それでも彼らが本当に護憲を目指すのなら、もっと手広く論戦などを行ない、国民を納得させようと務めるだろうが、彼らの政治活動を見れば、その主張は宣伝活動に等しく、また論争をおこなうよりも、ただ内輪のものだけを集めて寄り添っているだけに過ぎない。むしろ論戦になる前に、自らの理想的主観を前面に押し出し、ただそれを強制するという、実はかつての軍部が使用した手法と何一つ変わらぬことを行っている。彼らは、彼らの仲間内で異質な意見が出た場合、それに対してどのような態度に出るのか、そこに答えはあるだろう。憲法は全ての国民のものであり、一部の国民のものではないのだが、それを自己の勢力の存在意義とし、そこに利を見出しているならば、憲法を軽視していると指摘してもおかしくはないだろう。批判者として生活しているもののうち、他の国民と同じように社会の中で生産などの職業に従事しているものは、どれぐらいいるのだろうか。

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