2012年1月29日日曜日

国民の良心と政治意識の成長(1)


法基準は字句に変更がない限り恒久的な存在たりえるが、変化し続ける人間がその基準を行使するのなら、その意義や解釈は簡単に変えられてしまう。それ故に、基準が基準としてその意義が間違った使われ方をしないためには、私たちの「良心」が必要となる。では、この良心とはいかなるものかを考えると、それは「同じ集団内で共存関係を結んでいる事への理解」であり、1字で現せば「公」と言えよう。良き心とは、自分が生き延びるためには他者が必要であることを理解し、それゆえに時には自己を抑制して他者の事を考慮し、受け入れる、そういう受容的な心の持ちようではないだろうか。しかしこの良心とは、簡単なものではない。例えば、「他者のため」に行う事でも、自己の判断でおこなう以上、その行為が相手にとって意義のあるものかどうかは、結果を相手がどう受け取るかによる。「他者のために」行ったこと全てが、まるで善意として認められるかのように押し付け、感謝を求める人もいるが、しかし、その受け取る他者が当惑すれば、それは結果的に自己満足に過ぎず、その求める感謝は他者のためではなく自分のためであり、良心とは言えない。
自己の行動が良心的なものか否かを判断するのは他者であるが、その判断も人によって全く異なり、そこに自身の持つ理性や経験が通用する事はない。そのため自己の選択も他者の判断も、そのどちらも完全なものといえず、正解はないのだが、一度出された選択や判断を取り消す事は不可能である。それ故に私たちは時に意見がぶつかりあい、それが争いに発展し、共存関係を危うくさせるが、それを未然に防げるのならば、そして起こった事を解決へと導くために、個人の自由を認めながらも、共存関係を維持するために個人の自由を抑制させる、その調整には基準が必要となるのである。その基準が法なり、道徳なり、モラルなどなのだが、私たちの行動が多様的な変化を見せ、それを知ることも出来ない以上、それらの基準で全てをカバーできる訳ではない。それゆえに基準を守るためには、受容性が基調となる「良心」が必要なのである。
例えば「基準に従っていればよい」、「基準に従わせなければならない」という考えがあり、これは極めて正しいことだが、それが全て良心に当てはまるとは言えない。ある人が基準を逸脱して他者に対して損害を与えているのならば、その基準に沿って注意する事は間違っていない。ただ、この行為を良心によるものとするには、1つは「基準にはそれ自体、何かしら強制的な力が働く」ことを意識し、そしてもう一つは、「他者の事情」を考慮して行わねばならないのである。

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