2012年1月1日日曜日

 3月におこなう街頭活動までの間、主催者である山田忠弘の考えを公開してゆきます。コメントなどあればお読みください。




私は相模原市在住の、一介の給食センター職員です。特に目立った学歴もなければ、学識がある訳でもありません。そしてこのような著述を行うに至った動機である、「より良く、次代へ繋げることの出来る国家造り」を望むようになり、政治について、憲法について考え始めたのも、20代の後半にはいってからであり、それまでは選挙に行くこともおろそかにし、また公共のために何か行うことなど考えもしなかった、いたって普通のベビーブーム世代の若者でした。
私たちの世代にとって政治とは、つい最近までは全く関心の無いことであったと思います。もし政治に関心のある者がいれば、それは自己の立身出世のため、もしくは特定の政治思想団体員か宗教団体の信者であると感じる人が多いのではないでしょうか。私自身、自分が思索の道にはいるまではそのように思い、そのような人間の笑顔を警戒すらしていました。しかしそんな私が政治的な関心を抱き、このような著述をおこなうように至ったのは、一つには小泉内閣の郵政選挙における圧倒的な勝利にみた選択の力と、子供の誕生という2つの出来事です。郵政選挙は、それまで日本において余り感じられなかった、民主主義における私たち自身の力の存在を明確に感じさせ、子供の誕生は自分たちの現在の状況だけでなく、将来における日本も私たち国民の手で、責任持って作らなければならないという自覚を芽生えさせました。いったん考え出すと、それは枯れ野に火がつくように広がり、なかなか消えぬものです。ただ、現在の日本において政治的行動をとるという事を、人に勘違いされないように行うという事は難しく、またそれを跳ね返すぐらいの勇気は、妻子を食べさせねばならないことを考えると、なかなか持てないものです。現在、政治などに疑問を持つ多くの人たちも、同じような気持ちを抱く人が多いのではないでしょうか。
沈思する事何年か、その間様々な出来事が私の中にありましたが、ようやく落ち着ける環境になった時、1つの行動を起しました。行動というものは人によって色々な選択があり、どれが正しいのか答えはありませんが、私としては民主主義の枠にそった正攻法、つまりは言論によって、また現在の日本を変えるためには憲法を変えなければならないという結論は出ていたため、1年半をかけて私案憲法とその集解を書き記し、それを居住区の市議会(相模原ではない)、その他政党や新聞、雑誌社、また学者の方、果てや図書館や博物館にまで送りましたが、まあそういうところには、このような奇矯な論文は幾編も送られてくるのか、ほとんど相手にされませんでした。ただ市議会に対しては、陳情という形で、市議の皆様に憲法を変える意志の是非と、自由民権運動の先駆けの地として、憲法を変えるため、国民の政治参加のためのルール作りをおこない、国政に意見して欲しいという旨を送り、付帯として私案憲法とその集解をお配りして、総務委員会で審議するという所まで行きましたが、否決と相成りました。このとき多くの市議の皆様は健全な態度で私の陳情を受け入れてくれましたが、一部の市議が大声で、「国民は選挙にさえ行けばいいんだ」と叫んでいたのは、今でも耳に残ります。こういった意見は私の親族にも、また周囲にも、一定の年齢以上の人ならばだれしも持つ意見であり、現在の日本を変えるにはここが急所であると、改めて思索の種が出来たので、意義深い経験でしたが、そう言った様々なことを基に「なぜ憲法を変えねばならないのか」という事を書きはじめるとなかなか大変であり、現在に至るまで二年半の時が経っています。三度にわたって書き直し、この稿もまた昨年の終わりより書き始めたものですが、もうそろそろ何がしかの踏ん切りをつけて発表すべきと思い、今回の挙に至ります。
日本の現状に満足せず、より良い方向に変えて行きたい、そう思っている人はおそらく無数にいるはずですし、実際に行動している人間も多くいます。しかし私が思うに、どうもそのような行動者たちと国民の間には大きな隔たりがあり、国民は政治に対して、選挙以外での行動ににためらいが見えがちです。それはなぜなのか、その私見はこの後の本稿を読んで頂きたいのですが、ただその核心は、行動を志す者とそれを傍観する者の差には、自己の周囲に対する思いと考え、そして勇気の差ではないのかと思っています。こんなことを書けば、いかにも漫画チックであり、馬鹿げていると思うでしょうが、しかし私たちがおこなってきた変化の歴史を見れば、このような単純な力こそが最も動機にふさわしく、それは自然界における共存本能にも結びつく、一つの真理ではないかと思います。
しかしながら、政治的な行動者には、国家や他者のためという隠れみのの裏に、自己の欲求のみ実現を隠し持っている者がいることも確かです。現在の政治家の言論には、それが明確に表れており、それゆえに彼らの政治思想には芯がなく、たやすく数や金の力に流されがちです。それが日本の政治的な混乱と停滞の原因であると感じれば、その人間は政治的行動をとる者に、警戒心を抱き、また小馬鹿にします。
ただ、考えてみてください。政治的な行動を信ぜずして、私たちは将来のために、何が出来るのでしょうか。私たちは共存によって自己を存続させています。そしてその共存集団の認識できる大きなものが国家なのですが、その主権者が私たち自身なのならば、かつての主権者である王や貴族同様に、私たちが政治的行動と選択をおこなわねばなりません。もちろん、私たちはポリティカル・アニマルといわれているように、通常の生活においても政治的行動をとりますが、国家の主権者たる以上、公のため、つまりは他者と自己は国家という共存社会の中で互いに繋がっている事を意識することで、政治的行動をとらねばなりません。そしてそれこそが主権者の役割であり義務なはずです。民主主義国家としては、いまだ発展途上に有る日本にとってこのことは見過ごしにされ、忘れ去られていますが、このような変革期こそ、まさに国家としての成長階段を上らねばならず、そしてそれは為政者だけでなく、彼らを選ぶことのできる、主権者たる私たち自身に課せられた使命です。それゆえに私はこの稿を書き、公論を喚起して日本に変化を促したいとおもっています。

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