2012年1月22日日曜日

国家の基準の再編(2)


大日本帝国憲法も、その基準が成立したことで、国家は一つの方向性を見出し、その方向性にそって国民は解放され、江戸時代に比べれば全く別の国家へと成長した。ただ、その基準がいつまでも続くと信じ、そしてその持続を願うためにその基準を護持し、その為に法を増やし続けた。基準は基準として、法は何も語らないが、法を守ろうとする国民はそこに恒久的な安定を見出そうとし、その欲求はそれを阻害しようとする者を排除し始める。そして法は増え続け、変質され、初めは護るべき者が後には迫害されるが、憲法は憲法として以前として屹立したままである。そのため私たちは、日本を戦争に導いたのは1に軍部であり、またそれを容認した当時の日本のシステムそのものであると非難する。もちろんそれは的外れではない。しかし批判者は、そのシステムがいったいどのようなものであるのか考えたことはあるだろうか。そのシステムの骨格たる帝国憲法、また教育勅語、軍人勅諭、そのどこにも国民の死は、一字一句、求められていない。国家に対する忠誠は求められているかも知れないが、それは現在でも同様であろうし、共存によって集団が成り立つのなら、それをどうして否定できよう。では共産主義国家は国民に忠誠を求めないか。その答えは歴史が語っている。自由の国アメリカはどうか。アメリカ国民は自分が忠誠を捧げられる国家になるよう努力し、それは現在も変わらないはずである。教育勅語や軍人勅諭の天皇という語句を、国家や国民、民主主義などに置き換えれば、私たちはそれを当たり前のものとして受け入れるであろう。ここに基準の、法の恒久性は見出せるのだが、私たちの変化は常に、それを全く別のものへと変えてしまうのである。しかしその基準の語句が変わらないため、同じ基準を守り通していると信じ込む。それゆえに国家を変えるのなら基準もまた変えねばならず、帝国憲法から日本国憲法へと変わったことで、日本は飛躍した。もし、敗戦後、帝国憲法を手直ししたものが新たな憲法として公布されれば、私たちは現在の日本に変われなかったかも知れない。再び同じ過ちを起すことはないだろうが、基準がさして変わらぬのなら同じ道を歩むことも容易いはずであり、日本はもっと短い間隔で硬直化し、変わらぬ基準を守り通すイスラムの国と同じように混乱した状態になると私は思う。そして私は日本国憲法に対しても同様のことを思い、私たちが変化による苦難を乗り越え、さらに飛躍を求めるのならば、新たな基準、すなわち憲法を私たちの手で定め、新たな日本へと一歩を進めねばならない。
ただ、これだけの理由で憲法の変更を求めるには、いささか観念的すぎよう。では実際的に基準としての憲法、また日本の基準そのものにどのような問題を見出せるかといえば、それは大きく2つある。1つは憲法の下、様々な基準、法などが増えすぎたため、私たちの手に負えなくなりつつあること。2つ目は基準に対する認識が曖昧になりつつあることである。そしてこれらは基準そのものの価値を下げる要因となり、また国民が基準に依存しその質を低下させる原因ともなっている。それ故に私は、基準を整理すべきであり、そのためにも憲法の変更は必要であると訴えたい。
まずは基準の増加である。
私たちの求める基準は、実はいつの時代であっても大きく異なる事はない。それはなぜかといえば、基準の本質だけを汲み出せば、それは共存を行うための社会の維持、持続、保護であり、その為に供出する個人の力である。共存関係は民主主義など理想的な国家形態にしか見出せないと思うかも知れないが、どんなに悪逆な専制政治下においても、その関係は原則的には存在する。悪王は自分の欲求だけで国民をいたぶり続ける者だけを指す訳ではない。むしろそのような王は、よほど狡知に長けていない限り国家を維持することなど不可能であろう。なぜなら共存関係を無視すれば、国民が王やその廷臣達を討ち滅ぼすことなど、数の上において実に容易いことなのである。それ故に最もたちの悪い支配者は、国家が共存関係であるということを多いに利用しながら欲求を追及する者である。王にとってみれば自身が国家であると喧伝するが、しかし王は国民なしには存在できないことをよく知っており、また国民も王無しには自己の属する共存関係を確立できないことを知っている。それは支配「する、される」の関係だけでなく、保護の関係もあり、また情報を与える関係にもある。その共存関係の中で王は国民を「生かさず殺さず」力だけを絞り取り、自己の欲求を叶えるのである。国民から武器など様々な力を奪い取るのは「治安」という共存関係を維持するための名目であり、この方便は当然ながら対外的な戦争にも使用される。国民も自己の属する共存関係が崩壊すれば、自分の生存が危うくなる、そう信じるからこそ、渋々ながら王に従うのであり、もし、その王の政策が属する共存関係にとって有害なものと判断すれば、国民は一斉に王の交替、もしくは変革を求めるであろう。
手短な説明ではあるが、このような共存関係、つまり個人の生存の持続の集まりが国家や社会であるのなら、そこで守られるべき基準の根底は、まずいつの時代も、どのような政治制度の国家でもさして変わらないものが存在し、それは骨格となる。国家はその創造者、それが専制者であっても国民自身であっても、によって大きな目的を持って構築され、それは基準に反映される。その大きな目的の変更、例えば政治制度が専制政治から民主制に変更されたり、直接の支配階級が貴族から武士に代わるなど、が行われれば、それは時代が変わるという事である事は、説明せずともわかるであろう。しかし、集団が共存のために、同じような目的を抱く事は多い。共産主義者が、共和主義者が、また天皇制主義者がこれからの日本の国家を建設し憲法を変えたとしても、その目的には現在と変わらないものが存在するはずだ。それを例えば「平和」としよう。そしてその目的のために基準は定められるが、しかし「平和のために戦う」か「平和のために戦わない」などの違いのように、その時の国家制度、主権者や指導者の思想動向によって選択する方法論が異なるため、常に基準は異なり、全く別物のように感じるのである。しかし専制者、また国家元首の変更によって国家の形態やその大きな目的は変わらずとも、方法論が変わる事がある。そしてその方法論が変わる時に行われる事が、続けられてきた基準の修正、そして基準の増加となる。言うなれば、基準が修正されたり増えたりする事はそれ自体が変化なのだが、大きな目的や制度といったものが変わっていない時、私たちはそれを安定の支配下におけるコントロールの一環とし、それが積み重なる変化の1つである事を自認しない。そのことは前の章で述べた。
国家の統治方法として様々な政治制度が存在するが、その中でも特に民主制は法が増えやすいと私は想像する。それはなぜかといえば、民主制における主権者が国民自身であり、それ故に欲求を法に投影しやすく、またそれを求める者も多いからである。自己の行動を正当化する時や、また納得できない時に、法を引き合いに出すのはその現れである。もちろん法が簡単に制定されるとは言わないが、民主制は合議によって集団の力を使う以上、たとえそれが一部の人の為、また些細なことであっても、何らかの基準を記した法を定めれば、衆を納得させそれを実現できる。ただこれを言い換えれば、衆の納得さえ得られれば、どんな場合においても法を定める事が可能であるとも言えるため、数さえ集まれば悪法の成立を妨げる事も出来ない。ある特定の地域が犠牲を払う基地やダムの問題は、国家の問題とされ国会で論議されることがあるが、該当地域の住民の意向を遠のけても法案化され、実行されることもあれば、それとは逆に、国会内において与党がその地域の住民の意見を、たとえ少数派であるといえど尊重すれば、それが法案として論議、可決されることもあるのであり、ゆえにその度ごとに基準が変わり、増加する。もし、それが専制君主の国家ならば、そのようなことを王の感情によって決定することも可能であり、その時は公的な基準を必要としない。専制君主の国家においてでも、もちろん基準たるべき法は存在するが、王そのものが基準とされるのが専制制度の特長であり、その王によって決定される事項は、国家の基準にとってみれば「例外」かも知れないが、余程の逸脱が無い限りそれは認めてしまう。巷間に伝えられる徳川家康と佃島住民の関係など、専制者の感情によって無税となった土地の伝説などは、探せば世界中で見つかるはずである。しかし、民主主義下においてこのような例外1つ定めるのにも、基準たるべき法案が必要になる。特別法や特措法など、また付帯文などによって、基準の中にさらに別の基準が設けられ、それが複雑な社会を画一的に仕切ろうとする基準を柔軟にできる反面、それが年月を重ね、あちこちで利用されれば、このような「例外」もまた基準の一部として無限に増え続けるのである。
このように基準が修正され、また増え続ける例として、まず交通規則を思い浮かべて欲しい。戦後の交通規則は昭和22年公布の道路交通取締法、そしてそれが廃され35年に道路交通法が誕生し、それは以後改正され続けているが、それは決して減ることなく増え続けている。例えば自動2輪車におけるヘルメットの着用は、道交法公布時にはまだ存在せず、昭和40年に高速道路での着用義務が追加され、昭和53年に全面着用となった。私たちにとってオートバイに乗ったらヘルメットをかぶることは当然の事と思っているが、高年齢者にとってみれば、その基準は当然の事と納得できても、増えた基準であることを思い出せるはずである。私たちの行動が社会に影響を及ぼすたびに、もしくはたった一度の大事故が大きな印象を私たちに残せば、法はすぐ改正され、増やされる。それはごく当然の政治的処方かも知れないが、問題はそのような増加はいったいどこが限度になるまで行われ、またそれらは本当に必要なのかということである。基準が増え続ける動機は無数に存在するし、そしてまた定められた基準はいつだって完全なわけではない。討議によって先送りにされた問題や、見過ごしにされた点、また人為的に作られた「抜け穴」など、基準が完全たりえぬ理由もまた、無数に見つける事が出きる。
貸金利息の問題は先年大きな断を下され、新たな基準がその効力を発揮し始めたが、あくまでも端的にこの問題を言えば、これは既存の基準の抜け穴を塞ぐため、新たに基準を増やしたのである。しかし、これで問題が解決したのかといえば、おそらく終わりではないだろう。なぜなら消費者金融の問題は借りる側にも問題はあり、その意識が変わらなければ、いつまでも抜け穴は掘られるだろうし、また弁護士による債務処理など新たに注目される業務が増えれば、当然そこにも問題は発生し、いつか焦点が当てられるだろう。室町時代の徳政令、江戸時代における棄捐令など、債務の強制法規を法令によって公的に行うことはかつてもあったが、それで借金という行為がなくなったわけではない。注目すべきはそのどちらもが複数回出され、室町時代の徳政令に至っては、それが幕府の財源へと転化してしまうように、既存の基準の穴を埋めるべく増やされた基準が、いつの間にか別の目的に取って代わることも間々ある事である。この事から考えても、基準の作成とは決して終わりが無いものである以上、そこに恒久性は見出せないといってもよく、どんな基準でも変えねばならない時がある事を示唆する。

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