2012年1月25日水曜日

国家の基準の再編(4)


では基準を整理しなければならないもう一つの理由である、基準そのものの意義が曖昧になりつつある問題について述べて行きたい。
何度も記しているように、基準が定められる動機は、私たちの行動や欲求によってである。行動が集団に影響を与え、それが問題となれば、新たな基準を設け対処し、欲求によって集団の力を欲すれば、その実現のために基準を設ける。基準はひとたび公布されれば、それを改変、もしくは廃さない限り、その存在は恒久的であるといってもよい。しかし、その存在を抱える私たち自身、そして周辺の環境は、常に変化しているため、その基準に対する認識が日々変わる可能性は十分にある。法廷における対立や法解釈論というものは、一字一句変わらなければ不変の存在でいられるはずの基準が、いとも簡単にその中身を変えられてしまう瞬間であるといえ、それがゆえに法が恒久的であるとは認め難い。
この代表的な例であり、今に至るまで深刻な影響を及ぼしているものといえば、やはり日本国憲法第9条であろう。この憲法第9条を字面通りにたどれば、そこには戦争も、武力による威嚇、武力の行使も国際紛争を解決する手段として永久に放棄し、またそのための軍事力も保持せず、国家による交戦権は認めていない。しかし、この条文の認める範囲に自衛隊は存在し、国際紛争において様々な活動を行っている現実はある以上、ここには誰もが感じるはずの大きな矛盾がある。それがゆえに憲法9条の解釈については、現在までも政治的な駆け引きの種となっているのだが、基準に対してこのような大きな矛盾が認められれば、それは基準の価値を危うくする。本来尊重すべき日本国憲法が軽々と扱われがちなのは、まさにこのような矛盾が存在するからであり、そして9条の下で自衛隊を認める強引な手法は、法基準に対する国民の認識へと結びつく事になる。
何か問題があるたびに憲法を逆手にとり訴える者がいるが、それはまさに「自衛隊は憲法で認められている」という論法と同じ、強引な欲求の実現手段である。「個人の幸福の追求は憲法で認められている」、「多くの労働者を救うために派遣社員を削減するのは憲法には抵触しない」など、自己の判断や行為を公の審査も経ずに、法基準の裏付けがあるとして押し通すのは、単なる欲求の実現手段に過ぎず、このような手段を使うものは公共の、共存手段としての法基準であることを軽視しているのであり、それは物事の大小、善悪で片づけられるものではない。ただ、法基準を公のものであると認識している普通の人間ほど、このような論法に弱く、その場では簡単に受け入れてしまうが、この手段が強引な者であれば有るほど、その人間に対するものと同じように、法基準に対しても不満を抱くようになり、それがゆえに基準の意義が曖昧となる。
基準の曖昧さはそれだけではない。他にも基準の「建前」と現実の「本音」という問題もある。基準が制定される道筋として、まず法案の起草とその討議がある。それに参加出来るのは、国民に選ばれた代表者である議員と行政を一手に引き受ける官僚たちであり、国民は参考人として登場する以外、原則的には関与できない。国民は動機を提供するが、その作成はそれを専門とする職業の者に任されるため、本当に望んだものが出来るかどうかは全くわからないのである。これは例えるならば、私たちがウエイターに料理を注文し、それの出来上がりがどんなものかは、調理人しだい、出てからのお楽しみ、それと同じことである。これはある種のシステムといえなくもないが、私はこれ自体を否定しようとは思わない。なぜなら出来のよいウエイターは客が何を望むかを察することが出来、また腕の良い調理人はそれを聞き最高のものを調理する。客はその間ただ信頼して待ち、その報酬を惜しみなく払う。ここには共存のための分業原理が、しっかりと、効率良く働いているだけであり、否定する理由は見つからない。ただこの関係が崩れれば、すなわちウエイターは客の望みをしっかり伝えず、調理人は不味いものしか出さず、客の態度が悪く金を踏み倒せば、共存関係における信頼はなくなるであろう。政治家、官僚、国民の現在の関係が、まさにこれで当てはめられよう。

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