2012年1月4日水曜日

自由討論会について
 新歩会の規模が少し大きくなったら、街頭活動などで関心を持ってくれたり、参加してくれる人が20人ぐらいになったら、自由討論会活動を始めたいと思っています。


 講演会やシンポジウムに参加した時、私はよく質問したりするのですが、時間の都合などによってカットされたり、一方的な、浅い回答で終わったりします。こうしたことが理解出来なくはないのですが、一方で最近どのような立場の会に行っても、講演者は聴衆に対し、高い意識を求めたり、哲学を持って欲しいなどといいますが、、対話に対してあまり積極的でない彼らの姿を見ると、本当に個人が意識を高め、哲学を持ってもらいたいのかと感じます。「むしろ、困るのでは」、こう思うのは深読みしすぎでしょうか。

 日本において、講演会やシンポジウムは盛んにおこなわれていますが、ここにおける情報の流れは、上から下へというような一方的なものであり、双方向なものではありません。私はこうした現状を考え、そして本当に国民が意識を高めるにはどうすればよいのか考えた時、聴衆による討論会を行うべきではないかと考えました。
 私たちは各個人、その環境も、すごした時も異なる以上、物事に対する見方は1つではありませんし、もちろん正解もありません。しかし国民が主権者として政治に参加出来る民主主義では、この認識を一人一人が持つことは大切なことであり、誰もが違う立場にあり、異なる意志を持つことを尊重することは大切なことなのです。
そしてそれを知ることで、どうすれば国民全体、つまりその集まりである国家が良い方向へ進めるかを考えることが出来るのであり、自己主張が必ずしも良い政治主張であるとは限りません。偏狭さは、国家の可能性を狭めるものなのです。
 それゆえに討論会によって各人の意見を交換し、またそれを聞くことが大切なのですが、現在の日本にはそういった会が少ないため、ここ新歩会でおこないたいと思っています。

 また、討論会というといかにも勝ち負けが存在する、良く相手を「論破」する事を誇りにする人間がいますが、この自由討論会はそういったスタンスではありません。
 もちろん討論過程において、優劣を感じることはあるでしょうが、それはその時の論者のレトリックや調子などに左右される要素がある以上、問題の本質を明確に表しているとは限りません。私たちが討論会をおこなわなければならない理由は、多くの物事を知り、自分なりの答えを出すことではないでしょうか。もちろんそれが正しいとは限らないですが、自分が出した答えには、それなりの「覚悟」がついて回ります。人の答えを聞いてそれに従っていても、それは浮ついたものに過ぎず、流されるだけです。現在の国民の姿勢、メディアに流されやすいのは、自分なりの答えではなく、与えられた答えにうなずいているだけなので覚悟が無いからです。
 多くの考えを聞き、答えを出すことは非常に面倒くさいことかもしれませんが、現在の日本の問題の解決は、制度的転換よりも、私たち自身が政治的意識を持つことの方が比重が大きいと思います。例え憲法を変えたとしても、それが上から与えられたものであり、私たちの意識が変わらなければ、日本は何もかわらず、このまま沈みゆくだけです。こうならないためにも、私たちは討論会などをもっと積極的におこなうべきであり、そしてそれを聞く姿勢、もちろん論者としての姿勢も少し改めなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。

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