2012年1月7日土曜日

時代は変わる・・ならば変えることも出来るのではないか

私たちは、時を止める事が出来なければ、時をさかのぼる事も出来ない。その一方通行の流れの中で意識を持って生き、身体が、そして五感が働く限り、常に新たな情報を手に入れ、それは新たな欲求を生み出す基となる。その欲求こそ、個人の中において最も自由なものであり、その違いが個人を確立させているといってもよく、人はそれを様々な方法で実現しようとする。
個人が大なり小なり、そして意識していようがいまいが、欲求を実現しようと心がけているのなら、私たちの周りは常に変化し、それは生存している間、また同じ世界に属する以上、たとえ遠い場所であっても、直接的な関わりがなくとも、無数の変化との繋がりは否定できない。私たちの行動は欲求が原動力となる。自己の行動の影響がどのように周囲に、また遠くに波及しているかを感じることは難しい。しかし行動がどのようなささいなものであれ、それを知る者に、記憶や印象などの、何らかの形で残れば、そこからまた新たな欲求や行動が生み出される可能性があるのなら、私たちは全て何らかのつながりを持つと言えよう。例えば適当に電話番号を押して誰かがそれを受けたとし、その人間と何らかの話をすれば、それがついさっきまで無関係だった人間の何かを動かし、変化を与えることもある。また国家間の戦争に反対し、自己が戦争とは一切の関わりの無いことを表明しても、落ちたミサイルの衝撃波はそれを避けることが出来ないように、私たちは他者と目に見えないつながりを持つ。このように、自己の行動が他者に対して何らかの影響を与え、またその逆もありうるのなら、私たちの周囲は常に変化しており、そこに繋がりを見出せるのならば、それを避けることは出来ない。
 ところが私たちはこのような変化に全く関係が無いという態度を見せることがある。例えば、「最近の子供たちはゲームなど、屋内の遊びばかりで外にいって遊ぼうとしない。自分の時はそうではなかった。」など、子供たちの変化を、自分達は無関係であり、子供たちが勝手に変化していったとして批判的に見る事がある。
しかし、なぜ子供たちが屋内で遊ぶようになったのか。ゲーム機の発達や広場の減少など、自分が知らないところで技術、嗜好、そして環境の変化はあったかもしれない。だが仕事で忙しい時、また家で安らぎたいときなど、子供たちが目の届かない外で遊ばれるよりも、より管理しやすい屋内で遊ぶようにしたのはいったい誰であろうか。塾や習い事などで、日の出ている時間に子供が屋外で遊べないようにしたのは誰の望みなのか。共有地の使用方法として、ボール遊びなど子供の好きな遊び方を制限しているのは誰の都合なのか。また、単純に他者との協調、つまり「みんな持っているから」という動機によってゲームや携帯電話を買い与え、その資金を出したのは誰なのか。日本は、工業、そして技術によって高度経済成長を達成し、その成長によって社会に娯楽やサービスが発展し、その変化を受け入れたのは、まさに私たち自身である以上、子供たちの変化に関わっていない人など誰もいないはずであり、子供たちが望み、自主的に変わってきたとして、その責任を押し付ける事は出来ないだろう。それでも私はかかわっていないと言い張る人がいるかも知れないが、共存する社会の中で直接的には関わらずとも、移り行く変化を黙認しているのなら、それを容認しているのと同義である。社会という連環する繋がりの中で、変化に関わらない者はおらず、その変化が悪いものと感じれば、それを芽のうちに潰すことも行う以上、目に見える変化に対する責任は、その社会に属する誰もが負うべきであり、現在の日本の様々な変化に私たちが関わっていないことなど無いのである。

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