2012年1月11日水曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(1)


さて、私たちは認識の範囲を越えて変化に関わっている以上、そこから逃れる術はない。そして逃れられないのなら、それに向かうべきでり、日本も敗戦以降、必ずしも望んだ変化とは言い難いかも知れないが、結果的には過去の日本から変わることで大きく成長したように、変化をどう受け入れるかで、その後の未来は大きく変わる。ただそうはいっても、現在の日本からの変化は歓迎するが、それは自己の現状維持が前提である人も多いはずであり、物質的な豊かさがなおさらそれを望ませ、それは表面上の変化だけを求め、結果的には何も変わらない、いや、むしろ悪化しつつある現在の状況を見ても解るだろう。
この表面的な変化の具体例を挙げれば、私たちは選挙によって代表者である議員を選ぶが、その議員は政党から出された候補者が圧倒的に多い。そして私たちはその候補者達の事を詳しく知っているかといえば特にそうではなく、メディアに露出する候補者以外は、顔と名前を選挙ポスターによって確認しているだけの人も多い。ただ、その候補者を生み出す母体である政党がどのような事を考え、行っているのかを、連日メディアの報道によって確認出来るため、これを参考にして候補者本人よりも政党を選ぶのが現状である。つまり、私たちは自分たちの代表者になるはずの候補者を知らなくても政治的変化を求めるならば政権政党を変えればよいと思い、その候補者を自らの手で送り出したり、候補者達を比べ検討して選ぼうとはせず、また候補者も自らの政治的信念よりも政党の力を頼りにする余り、その意志に迎合しその信念を押し出そうとはしない。それゆえに選挙によって政権政党は一変するが、しかし議員当選者の顔ぶれを見ればおなじみの顔が揃い、議員が政治的な失策をおこしても政党が何らかの力の求心力として彼を望めば当選を果たし、力の継続である世襲も容易に行われる。つまり私たちは政治的な変化を望み行動するが、政党に頼り切り、私たち自身の積極的な政治参加によるものではなく、あくまでも他力本願的なものであれば、表面的な変化しか望めない。そしてその視点から考察すれば、現代日本における政党は、宗教団体と特に相違はないとも私は思えるが、それは後述する事にしよう。
私たちがこのような表面上の変化しか望めないのは、全て現状の維持という欲求、言い換えれば「安定」への依存が、変化に対して身を固くさせているからである。日本が良き将来へと進路を変えるには、現在の「豊かさ」をある程度放棄しなければならず、変化によって「私たちの望む」安定は終わりを告げるだろう。それを私たちは薄々感づいているが、しかしその影響を自分の生活だけは受けたくないし、その変化に対して率先して行動することで、責任をとりたくないからである。ただ、私たちが望もうが望むまいが、現在の状況を「安定」によって維持し続ければ、間違いなく豊かさも、そして「安定」も失われるだろう。

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