2012年1月27日金曜日

国家の基準の再編(5)


ではこのような悪しき関係の中で、果たして誰もが納得できる基準が作成できるかといえば、それは難しい。国民は基準に欲求をそのままのせることを希望し、それを護る意識もあやふやである。官僚は責任をとらないようにするためには、なるべく厳しい基準を制定し、基準、もしくはこのような法を制定した議員を選んだ主権者である国民に、その責任をなすりつけるであろう。政治家は都合よく立ち回り、双方からとれるだけの利をとろうとするだけである。それ故に出来上がった基準には「建前」と「本音」が存在し、それもまた基準の意義を曖昧にさせ、軽視させる理由となるのである。
何らかの専門的な職種についている人間ならば、役所の検査、調査というものを意識せずにはいられないはずである。それが定期的な、予告された検査であれ、役所の人間が職場に来る時は、現在行っている手法を一変させねばならない場合が多いからである。役所の人間は定められた基準に沿って一通り、他と差別なく検査をおこなうが、検査を受ける方は、どこも同じ環境や状況というわけではない。他と異なる環境を法に合わせる努力はするが、しかし現実にはそれが全て思い通りに行くわけではない。それ故に「本音」の作業が生まれる。それはあくまでも法基準を尊重はしているが、それが現実の作業を阻害するのならば、それを現場で、無断に改変してしまうのである。これによって作業自体は効率良く行うことが出きるが、しかし基準とは異なるものであるため、役所の検査日にはそれを隠し、多少の犠牲を払ってでも法に合わせた作業をするのである。検査する方としては実情を調査する必要はなく、ただ検査日に法基準どおりに作業が進行していることを確認できればよい。ここでは互いに実情は承知しているかも知れないが、検査は年に一度であり、また法基準を変える作業に煩雑さが伴うならば、わざわざその手間をかけるよりも、たった一日だけ余分な労力をかける方が双方にとって都合がよい。このことは私の経験による、あくまでも感想に過ぎないものと認識してもらいたいが、しかし誰もが同じような経験をした事があるのではないだろうか。
ただ、このことは実情としては理解できるが、それを認める事は法基準の軽視であり、また民主主義国家として非常に体たらくな現実でもある。民主主義国家では、誰もが法基準を望むことができ、またそれに対して意志を述べることは妨げられないはずなのだが、それを面倒くさいという欲求によって拒否する事は、本来許されざることであり、これこそまさに憲法の意志に背くものである。民主主義国家の国民ならば、自分たちの選びし代表者が選択した法基準に対して真摯になるべきであるし、また逆に法基準を増やし、それに依存するからこそ、窮屈さを感じこのような選択に至るわけで、公共に対して信頼できる人間を育て、部分的には現場の人間の裁量に任せられるような法基準を制定できるようにしなければならないと私は思う。それ故に国民一人一人が政治意識を育てるためにも、新たな憲法の制定を、私たち自身で行う必要があると思うのだが、それは次章に譲るとしよう。
以上に記したように、法基準の認識の曖昧さは、その行為そのものが法基準を危うくさせ、私たちはそれに振り回されている。そしてそれは人間の判断能力を引き下げる原因ともなっている。先日の事である。休日中に私の子供が急に耳を押さえ痛がったので、中耳炎の可能性を考え、市の休日診療所に電話した。ところが、そこは「内科」の診療しか行なわず、子供の診療や、耳を見る行為はおこなっていないと拒否され、車で30分以上かかる保健センターを紹介された。車は家族のものが使用していたため、診てもらうだけでもとお願いしたが、拒否の一点張りであり、その理由は診察が混んでいるからという訳ではなく、内科は大人を対象として診療しているからという事だった。そのような拒否は法律の手順に乗っ取ったものかも知れぬが、しかし内科でもちょっとした診断を行ってくれるところもある。憤懣やる方なかったが、法や規則でそう決められているのならそれを遵守しなければならないため、診察をあきらめ、様子を見てすごした。医者ならば、その基礎課程で有る程度の病気については学ぶはずだし、そのようなカテゴリーに縛られ続けることは、医者自身の能力を低下させるものではないだろうか。昨今の情勢をみれば、ささいなミスをつつき責任を求めたりする私たちにも原因があるのだろうが、そこには互いの信頼も勇気もないのであり、これこそまさに国民の質の低下といってもよいだろう。
誰もが法基準を利用するが、しかしそれは共存集団のためではなく、自己の欲求の達成のためになっている、そしてその中で法基準は増え続け、その認識が曖昧になっているのなら、それは変えるべきではないだろうか。そしてそれは法基準を守るべき私たちの意識の問題であり、「良心」の問題でもあるのだが、それは次の章で述べる事にしたい。

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