2012年1月5日木曜日


続き
では私たちは見えない変化に対して何ができるのか。それは日常における、政治的意識の基盤を築くことではないでしょうか。それは、教育の普及度や国民の道徳観念の充実さ、自国を、民主主義を国民がどれほど理解しているのか、これらの意識によって変化への対応はかなりの違いを見せるでしょう。これらの意識が未だ未熟であったフランスでは、民衆が変化によって利己的な行動へと走り、国家に混乱をもたらす、そして新たな独裁者を迎え入れるという結果になりました。しかし、これらのフランス国民の行動を、私たちは決して愚かという言葉で済ませてはなりません。彼らは何よりも、自分たちの手によって王政を打ち倒して民主制を手に入れ、現代に繋がる変化の受容者としての先べんをつけたのであり、その結果はともかくとして、その行動は、まさしく私たちに大きな足跡を残しています。フランスはこの後のナポレオンの登場からその退位、そして王政復古から革命、そして共和制から革命、また共和制へと、大きな変化を繰り返す事になります。その過程は一連のフランス文学から伺い知れますし、このような体験を踏まえたフランス国民が民主主義国家の旗手である事を自負する事は当然の事でもあり、私たちはこの体験と歴史から多くを学ばなければなりません。
一方で民主主義意識が基盤にあり、歴史的変化を経た国もあります。それはアメリカです。彼らは既存の権力からの逃亡集団としてメイフラワー号に乗ったときより、その精神は清教的な拘束によって共存関係を結んでおり、それは新国家への基盤となりました。農業を中心とした産業はその共存関係を維持させ、また直接的な王の統治を受けなかったことは、国民自身による政治意識を高め、新たな政治思想としての啓蒙思想はそのまま制度へと直結しました。もちろんアメリカはフランスと違い様々な幸運、王政という既存の権力がなく、またイギリスの支配も海の向こう側からであり、敵国に囲まれてはおらず、国民を自給するための広大な土地があった、という幸運に恵まれた事は言うまでもありませんでしたが、何よりもこの国家が強大で、それを持続し続けられる理由は国民が常に変化を受け入れる意識を基盤として持っているからです。彼らは自分にある機会と力を知っており、しかもそれを行使するための自制心も持っていた、トグヴィルの「アメリカのデモクラシー」を読んで、私は当時のアメリカに対してそのように感じ、そして現在の日本に必要なのは、まさしくそれではないかと思います。
ただ、このような意識が日本において今一つ慎重になるのは、老荘、儒教を主とする日本人の精神の根底にある道徳的思惟がそれを拒んでいると、私は考えます。これらの道徳的思惟は、個人の自制心を養うためには最良のものである事は言うに及びませんが、しかし主権者としての政治的行動をも自制させてしまう教えでもあります。「ただあるがままに任せて何もしない」、「上位の人間の言うことを素直に聞く」、これらの考えは民主主義という政治制度を経験した上で整えられた思想ではなく、あくまでも主従関係を下にした専制政治の体験による思想であり、その秩序と世界の維持に主眼をおいたものです。老荘思想はこのような秩序などをも越えた考え方と捕らえることも出来、また儒学も普遍的な道徳思想としては現在にも通じるものはありますが、政治思想としては、その批判にあるように前近代的なものかもしれません。
政治思想は、他の何ものとも同じように、歴史的な経験を積めば積むほど、それが確固となり、少しづつ染み入るように、精神に定着します。その種が芽生えることで思想的な転回を見せる事はありますが、しかし既成の思想枠を超える事はなかなか難しい、これは江戸時代の様々な思想家、学者が、誰も末期になるまで幕藩体制を、武士を廃そうと思わなかったことからも考えさせられることです。たった一つの事件がそれらを打ち砕き世の中は変化しますが、しかしそれまでその思想をよりどころにしていた精神に新たな思想を植え込む事は難しく時間もかかります。日本人の精神にもかつての思想が現在にも残り、それが政治的行動を拒んでいる事は否定できず、私たちはそれをも越えねばならない、そしてそれは知る事、話すこと、論じることなど、双方向の情報伝達によって達成されると思うのです。
日本国民がその思想に従ってこのまま何もしない、それも選択の1つなのですが、物事が常に動いている以上、何も選択しない訳にはいきませんし、私たちが主権者なのなら、何もしないという事は、主権者としてそれを選んでいるとも言えるので、その責任は私たち自身に課せられます。そして行動の自粛は、その可能性や機会を狭め、それが社会を停滞の方向へと向かわせるのなら、いつまでたっても成長の兆しは見えず、私たちが過ぎゆくままそれを傍観しているうちは、やった者勝ち、言った者勝ちという行動者の一方的な勝利が続くでしょう。それは人をいじめる者が常に見過ごしにされ、また政治に金銭の力が影響しつづけている事を見過ごしにしているようなものであり、悪的行動をも許容してしまうあきらめと同じなのです。それ故に私は、この3つ目の、変化に対して何もせず、時の過ぎゆくままにしておく事を何よりも恐れます。
以上が私がこの稿を書き記し、なぜ憲法を変えねばならないのかという動機の核心でもある訳ですが、しかし文才未熟にして、また学歴、学識もあるわけではないので、心余りて言葉足らず、といった文章には退屈しがちかも知れず、また所々で重複した文章も見られる事でしょう。ただ、文章を書き人に伝えることも、そして政治について話すことも、それを専門にしている人のみが行えるという特権がないのなら、私はただ、自分にある機会を利用するだけあり、もちろん、私は書くことだけではなく、出来たら実際的な行動を取る予定でいます。しかし一般的な生活を行ないながら、正道によってその力を得るためには、まずは表現によって同意を得ねばならず、それがゆえにこういった形で発表する事にしました。難解かもしれませんが、どうぞ最後までお読みいただくよう、よろしくお願いします。

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