2012年1月23日月曜日

国家の基準の再編(3)

国家や政治制度というものは、1つの大きな基準によって定められる。専制政治では創業によって得た権利として君主自身が基準となり、民主制においては憲法となる。君主や憲法といったものは国家そのものを表す大きな範囲となるが、その中で基準が増え続けることを止めることは出来ない。そして基準が増えるのは社会問題の克服など、共存のためという公としての目的だけでなく、単なる欲求の実現によっても行われるのならば、それを遮ることは非常に至難であるといってもよい。同じ国家において、もし一方の願いが法によって定められ、それによって全国民の労力が供出されるのなら、もう一方の国民も同じような力を欲する。それは法を制定する主権者、かつては王などの専制者、現在の日本で言えば政治家などへの運動になり、彼らもまた自己の欲求を叶えるためにそれを利用しようとする。それが贈賄などに繋がるが、何もそのようなことをわざわざ行わなくても、法を必要とする人たちの願いを叶え法を増やせば、それで主権者としての寿命は伸びるのであり、それ故に政治家は国民の動向を知り、それを叶えたがる。近年は特にそれが顕著になり、政策が紆余曲折し政治家に芯が無くなったのはまさにそのためであると言ってもよい。このような事実が私たち国民の生活にどのように影響しているかは、本当は私たちが一番よく知っているだろう。政治家は私たち安定のために数々の施策を為すが、それが自身の信条や才覚によるものではなく、国民の動向や予想される結果を気にしながらの、その裏には自己の政治的寿命を気にしながらのものであっては、政治が宙に浮き、集団の力が良い方向に利用されないのも当然である。
そしてさらに、そのような中で法が増え続け改廃されれば、その基準としての価値が減ずることも指摘せねばならない。例えば、消費喚起のための一部商品をターゲットにしたエコ施策などは、結果的に見れば、国民より一部の企業などにその利益は大きく傾いている。家電や車がかつてのように全て日本で作られるのなら、そこに多くの還元が見込まれるかも知れないが、現在は海外に受注されるため、得た利益もまた海外に流れる。そして雇用情勢においても、政策による一時的な刺激が雇用に直結しているとは、労働市場を見ても考え辛い。このような政策によって税収増が見込まれても、それは一時的なものに過ぎず、それが現在政策を支える国債の減少に一役買うわけでもないのなら、このような政策はいったい誰のためにおこなわれ、そしてそれを支える財政は誰が出すのかを考えれば、法基準によって行われるべきかどうか疑問が多いはずだ。ところが私たちはこういった政策を消費喚起と税収増に結びつけ、それを共存に必要な事として実行する。経済的な利益の確保が国家の利益の確保に繋がるという考えは、確かにわからなくもないが、その実行に対するハードルが下がれば下がるほど、誰もがそれに寄って自己の利益を確保しようとし、それは政治家やメディアに対する運動へとなり、十分な論議を尽くさないまま安直に基準とされれば、それは基準の価値の低減と言えるだろう。
こういった事は各種補助金に対する考え方も同様であり、社会福祉や公共の利益といった理由が、それを実行させるが、それが増えるたびに基準は低くなりつつあると思う。ある市では市債の累積が増加しているにも関わらず、全小学校に電子黒板の導入を公共の利益として実行している。産業や技術の発達のためには、こういった事業はもちろん必要かも知れないが、それを増え続ける市債によって実行すべきなのかどうか、私は首をかしげる。そしてそういった事が現在の日本の企業収入を支える通例となり、またそれが債務を増やす一因となっているのなら、その構造はおかしく、それが法基準で認められるとしたらそれは余りにも軽すぎるといってもよいだろう。民主制において法が増えやすいのは、誰かの欲求が法によって叶うのならば、自分もそれを求め、それがハードルを低くさせるからであり、これは法基準を定められる主権者、すなわち国民自身の意識の問題が根深い。ただ、現在の日本の状況が、ここまで低迷し、消費喚起の方策がそろそろ種切れとなりつつあるのなら、私たちは基準に対する考え方を改める時期に来ているのではないだろうか。

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